怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

古川順弘「古代神宝の謎」

2024-07-18 13:30:21 | 
熱田神宮の御神体の草薙剣。
三種の神器の一つで御神体なので絶対に見ることが出来ないのだが、どんな剣なのだろうか。
見ることが出来ないと言われると余計見てみたい。神をも恐れない河村名古屋市長は一度見てみたいと言いつつ、公開されれば観光客がどえなげにゃー来るはずと言っていた。
実は江戸時代の宮司が一度見たという記録は残っているのだが、曖昧模糊とした記録で学術調査ではないので詳細は不明。
そんな時図書館で何気にこの本を見つけてパラパラと最初を見るといきなり草薙剣の謎!
早速借りてきました。

現在の熱田神宮では熱田大神が祭神となっていて、草薙剣を天照大神の神霊の依代として祀り、その草薙剣に宿るアマテラスの神霊を特に「熱田大神」と尊称して祀っていると言うことみたい。
しかし、明治前の熱田神宮では草薙剣は正殿に祀られている神々(天照大神、素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命)と並列に扱いで祀られていた。草薙剣の来歴を見てみると多くの謎がある。
そもそも草薙剣はスサノオが八岐大蛇を退治した時に尾の中から出てきた剣で天叢雲剣とよばれた神剣。この神剣は天つ神に献上され、その後瓊瓊杵尊が高千穂に降臨する際に三種の神器の一つとして授けられた。その後第十代崇神天皇の世にその神威を畏れるあまり鏡と剣は宮中から離し伊勢に祀られる(伊勢神宮の起源ともなるのだがどうして守り神たる鏡と剣の神威を畏れなくてはならないのかはイマイチ納得できない)。因みに宮中では神鏡と宝剣の分身(レプリカ)が祀られた。
その後景行天皇に東国討伐を命じられたヤマトタケルが途中伊勢神宮に詣でた際、叔母の倭姫命から草薙剣を授けられる。野火をこの剣で防いだことにより以後草薙剣と呼ばれるようになった。しかしヤマトタケルは伊吹山の神を討ち取ろうと出かける際に草薙剣を妃の宮簀媛に預けてしまい、山の神の毒気にあてられ亡くなる。宮簀媛が夫ヤマトタケルの形見とも言える草薙剣を尾張の地に奉祀したのが熱田神宮の起源。と言うことは草薙剣はアマテラスの霊代ではなくヤマトタケルの霊代として祀られていたということか。
ところで7世紀中ごろ、この草薙剣は盗難事件にあっている。新羅の僧侶道行によて盗まれたのだが、失敗。その際すぐには熱田神宮には還ってこず、10年ほどは宮中に留め置かれたと言うのが通説。しかし住吉大社に留め置かれていたとの異説もある。盗難に際し難波津に漂着し、住吉大社に安置されたのだが、天武朝の時に祟りをなしたと畏れられ熱田神宮に返還され、住吉大社には草薙剣の御代器が奉納された。ところでこの御代器は宮中にある宝剣をモデルとしたもので、住吉大社の記録によれば鉄製の直刀で大陸伝来あるいは伝来したものの模造の可能性が高いみたい。宮中の宝剣も唐様式の直刀と考えられる。
では草薙剣はというと江戸時代に大宮司たちが見た記録によると長さ二尺七、八寸で刃先は菖蒲の葉なりにして、中ほどはむくりと厚みあり下の方六寸ばかりは、節立ちて背骨の如し。色は全体白しという。この特徴からはどうやら銅剣みたい。となると宮中にある宝剣とは全く別物?
因みにこの大宮司は不運にあって流罪となり、居合わせた人たちも相次いでなくなっているのだが、禁忌のものを見た祟り?ツタンカーメンの祟りと同じようなものかも?市長も変な好奇心で見てみたいなどと言わない方がいいかも。
そもそも天叢雲剣と草薙剣とは本来全く別の物であったのを異なる剣を同一視し、物語を合体させたのではないか。各地各氏族で神剣伝説は伝承されていて、草薙剣と言われているものは尾張氏の宝刀として祀られていたものだが、それが宮中に置かれていた皇室のレガリアたる宝刀と組み合わされたのではないのか。それが出来たのは尾張氏が古代日本天皇制が確立する過程で非常に大きな働きをしていた証拠と言えるのだが、日本書紀など正史では藤原氏にとって都合の悪いことであり意図的に隠されていたと言うと想像をたくましくしすぎ?
草薙剣一つ見ても古代からの伝承は各地各氏族の伝承を取り込んでいるものと考えられ、重層的です。
ここからさらに石上神宮の宝物について述べられています。若かりし頃山の辺の道を歩いた時天理市には行ったのですが、石上神宮は参拝していません。天理教の建物群に圧倒された記憶だけあります。
石上神宮は物部氏が祭祀を司ったところ。古代には諸豪族から献上された武器・神宝類を納める「神庫」があった。物部氏没落後もその支流が祭祀を司っていた。しかし、宝物などは応仁の乱以降の兵乱の中でほとんどが盗難にあうか失われたのだが、禁足地と伝承された場所の地下には剣などが埋まっていた。明治になって調査が行われ発掘の結果、何振りかの刀剣が出土。ただしそれらの剣は本殿に奉安されていて見ることはできない。
さらに有名な七支刀は錆びだらけの状態で見向きもされなかったものを発掘と同時期に研ぎ出してみると、文字が現れ、解釈の違いはあるが4世紀後半に百済から伝来したものだった。
石上神宮の禁足地は全面的に調査したわけではなく、まだまだ剣などが埋まっている可能性もあり、奉安されている剣も文字などが象嵌されている可能性もあり、好奇心を誘いますがこれも見ることは出来ないんだな~
このほかにも出雲大社や善光寺のお宝について興味深い話が沢山ありますので興味があれば読んでください。とにかく古代の神の名前とか人名とか地名は変換が出来なくてここまで書くだけで苦労しました。

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