怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

市債は借金ではなく市民の財産です

2015-01-28 07:14:59 | Weblog
河村市長のお得意のフレーズに、「市債は借金ではなく、市民の財産です」というのものがあります。
まともに議論するのもばかばかしいとみんな思っているのでしょうが、少し頭の整理をしてみます。
市債は発行する地方自治体にとっては、将来に返済を約束した借金です。一方それが全部市民に購入されたとしたら、市債を持っている市民にとっては将来利子をつけて償還される財産です。
河村市長は確信犯だと思いますが、自分の都合のいいように途中の言葉を抜いています。
市債は発行する地方自治体にとっては借金ですが、市債を持っている)市民にとっては財産です。
財産となるのは直接あるいは間接(銀行預金から金融機関が購入しているとか)にしろ市債を保有している市民だけで、名古屋市に住所を有するほとんどの市民は市債などもっていないのですが、ここでは限定なしの「市民」と言っていて、ある種の目くらましになっています。
ちなみに公財政にとっては債権は絶対的な悪ではなく、長期に償還する必要のある施設整備などは減価償却という概念がないので債券を発行することによって負担を世代間で平準するという効果があります。いわゆる建設国債は赤字公債とは明確に区分する必要があると思いますが、問題はそうすると気楽にファイナンスできるので事業評価が大甘になりがちで、投資効果がないものが政治的理由だけで、あるいは誰かの功名心だけでできてしまい、しかも作ったはいいがあまり使われることもなく維持管理経費も賄うことができずにずるずると持ち出しだけ累積する羽目になって破たんしていくということです。
赤字国債についてもゼロにしなければいけない訳でもなく、依存度さえ一定の率に抑え込んであれば、特に問題ないという議論もあります。将来へのつけ回しになるのですが現役世代から取れないなら相続税で清算と言うこともありますしね。
しかし、財政は入りの制約がなければ費用対効果や持続可能性を考えることなく際限なく支出が膨らむのは民主政治のコスト。国債をどれだけ発行できるかという歳入の限界の問題と歳出の効果の評価は別の問題だと思うのですけど、そこにマネタリストの議論が必要になってくる余地が出てきます。民主政治における優れて政治経済学の課題なのです。
ちなみによく国債の累積が問題になっていますが、それが国内で消化されている限り問題ないと思われます。少子化で人口がどんどん減っていく日本ですが究極的に日本国民が最後の一人になった時、国債がそれまで全部国内消化されていたとすると、国の借金は累積してたとしても国民の財産としての国債も累積していて、それが一人だとすれば借金と財産は相殺される…
問題は最後の一人になる前のどこかの段階で国債の国内消化が難しくなるのということなのですが。
でもこれらの議論は通貨発行権も課税権も持っている国の議論で、債券発行も課税権も制限を受けている地方自治体にはあてはまりません。
加えてバランスシート不況に際して個別企業は傷んだバランスシートを修復するために投資を控えリストラに励んだのですが、結果、合成の誤謬に陥り国全体ではますます需要不足に陥る。そのため国としては国債を発行して需要不足を補わなければいけないのですが、ここでバランスシートを修復しようとする個別企業の行動は個別企業の判断としては必要であり合理的です。地方自治体でも制約がある以上、個別自治体としては債券発行を抑え収支を均衡させようとするのは必要かつ合理的な行動です。ここで国の需要不足を補うために国の裏付けもなしで市債を発行しようとすれば「ドン・キホーテ」です。自治体として破たんへの道をまっしぐら…
ところで河村市長は市債は市民の財産だからどんどん発行すればいいと言っていますが、名古屋市の市債の依存度はリーマンショック後の臨時財源対策債を除けば河村市政で順調に減っています。プライマリーバランスとか他都市の状況を見てみると、まだまだ市債を発行する余地はありそうですが、名古屋人らしい堅実な予算編成になっています。財政当局はあくまで市債の節度ある発行に努め、無駄な歳出がないか鵜の目鷹の目です。
市長はいろいろ目立とうとしても幸いなことにと言うか役人の壁は厚く言うとおりになっていません。それが怪しからんと真剣に変えていこうと努力している姿勢もないみたいです。目立たずに役人相手に地道な説得するとか関係する他方面との調整をするなんてことは私の仕事ではないということか。
コメント
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