第2章 教会の交わりのうちにとどまること
第3節 「信仰者の感覚」への配慮
信仰者の感覚とはわかりづらい日本語訳だが(1)、要は、一般信徒の考え方、思想、運動という意味だ。
神学者は、聖書と教導権(教皇・司教・司祭)に耳を傾けるだけでは不十分だ。神学者は「信仰者の感覚」にこそ耳を傾けねばならない。「信仰者の感覚への配慮はカトリック神学の基準」だという(37頁)。
信仰者の感覚といっても、なにも特定の時代・地域・文化の多数意見のことではないし、また、司教や司祭から教えられたことをオーム返しに「後追いで肯定する」ものでもない。信仰者の感覚は、「教会内で神のことばを受け取り、理解し、生きる神の民のうちに深く根づいている信仰の感覚」のことを意味するという。
具体的に言えば、それは、大衆の経験や表現、教会内の新しい思想や運動の諸潮流のことだ。神学者はそういう新しい動きを「使徒伝承への忠実性」という視点から吟味し、評価する責務を負っている。そしてその評価はいつも建設的でなければならない。なぜならその評価は謙虚さと愛に裏づけれている必要があるからだという。
(バチカンと解放の神学)
第4節 責任を持って教導権に依拠すること
教導権は神学の不可欠の構成要素である。教導権は神学に優るのだが、司教と神学者は別個の召し出しを持っているので、互いを必要とする。特に教導権は神学を必要とする。
教導権はしばしば神学に「介入する」者として捉えられがちだが、神学はいくら精緻であっても司教たちの判断に取って代わることはできない。教導権は神学に優る。だが、教導権には「異なったレベル」があり、教導権の教えがすべて同じ重みを持つわけではない。重要な教導権とそうでもないレベルの教導権があるという意味のようだ。
この不安定性、揺らぎは、神学では、「神学的資格ないし特徴」と呼ばれる。これも曖昧な表現だが、教導権が神学の動きと連動しているという意味で、神学では重要な用語のようだ(2)。
ここで、司教と神学者の関係が問題となってくる。大概はその関係は良好だが、時には緊張が生じることもある(3)。だがこの緊張は当たり前のことあり、嘆くことではない。国際神学委員会は、1975年にすでに、「真の生があるところにはどこにでもいつも緊張があります」と言っているという(41頁)。
ここで、登場するのが、「神学および神学者の自由」というテーマだ。神学者は教導権から「自由」なのか。教導権に依拠しない神学的主張があり得るのか。本文書は「そうだ」という。神学者の主張はは「真に知的な責任に由来します」という。神学者は自らの知性にのみ責任を持ち、教導権に左右されてはならないというわけだ(4)。
神学的探求の中で新たな論争が起こると教導権はしばしば抑圧的力ないしはブレーキとしてみなされる。そしてそういう問題を探求すること自体が神学の任務の一部となる。
(司教と神学者 ラッチンガーとK・ラーナー)
注
1 日本語として何かなじまない訳語だが、これは訳語の問題というわけではない。この用語は実は『教会憲章』でも使われており(第12条、「信仰の感覚とカリスマ」)、「信者の総体」と言い換えられている。
2 たとえば、解放の神学をめぐる過去数十年の動きは世界の動きと切り離しては理解できない。無視から批判、攻撃、黙認、受容とバチカンの眼は変わってきた。昔、知り合いの若いシスターがよく言っていた。「解放の神学って間違っているんでしょ、ネオカテクメナート(新求道共同体)って間違っているんでしょ」。いま、彼女は、世界が、バチカンが変わったことを知らずに、そのまま年老いてしまった。
3 司教は神学者たちをうさんくさく思うし、神学者は司教たちに「司教の団体性」についてあれこれ言う。F・カー『二十世紀のカトリック神学』(2011)。
4 聞きようによってはかなり断定的な言明だ。国際神学委員会の自信がうかがわれる。