カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

教会の交わりのうちにとどまること ー 『今日のカトリック神学』の要約(3)

2021-09-17 12:33:05 | 神学

 このような表題はなにかすごく護教的に聞こえる。護教的であることが悪いことではないが、無教会主義(1)にだって集会があり人間の交わりがある。だから交わりの中身が問題となる。国際神学委員会は教会の社会会関係、相互作用をどのようにみているのか

 この章は長い。6節からなり、翻訳で27頁に及ぶ。
この章では、具体的には、神学者と司教との関係、つまり、神学と教導権の関係、が議論の焦点となっている。いろいろ細かく論じられるが、結局は教導権は神学に優るが神学を必要とする、という言明に修練していくようだ。

 本章のまず始めに、「神学は教会的性格を持っている」と述べられる。なぜなら、信仰は神学に基づき、信仰は個人的であると同時に教会的だからだという(2)。


第1節 神学のいのちとしての聖書研究

 聖書研究は神学のいのちそのものだという。神学が真理に達しうるのは聖書を探求する場合のみだという(3)。
 この節は主に『啓示憲章』に基づいて「釈義」の細かい説明をしている。聖書テキストの意味を理解し、説明する「釈義」には三つの方法がある。文献学的方法・歴史学的方法・文学的法、の三つである(4)。どれも目的は同じで、聖書を、「それ自体のコンテキストと時代において」明確に理解することである(5)。

 啓示憲章第12条(6)は、神学的な聖書解釈は「三つの基本的基準」を達成していなければならないという。すなわち、「聖書の統一性、聖伝のあかし、信仰の類比」である(7)。
 釈義は、「歴史的・批判的方法と、神学的方法という方法論的なレベル」を考慮しなければならないという(8)。
 『啓示憲章』が聖書研究は神学のいのちだと述べるとき、強調されているのは「聖書注解におけるエキュメニカルな協力の可能性」だという。回りくどい言い方だが、聖書研究はプロテスタントや正教と協力し合って進めていくべきだと言っているようだ。

(啓示憲章)

 

 

 

 


第2節 使徒伝承への忠実さ

 この節は主に聖伝の重要性を論じている。教会の教導権は聖書と聖伝に依拠するため、この三者の不可分性が強調される(9)。
 聖伝は「使徒伝承」であり、具体的には「使徒言行録」が中心となる。使徒言行録は初期のキリスト者共同体の姿を描いており、すべての時代の教会の基本とみなされている(10)。使徒伝承には「祈りの法・信仰の法・生活の法」が含まれており、多様な言語や文化の中に多様な形で現れてくる。信仰の唯一性が単一化し、形骸化してしまえば聖伝は死ぬ。聖伝は絶え間ない聖書研究によって絶えず刷新され続ける。

 使徒伝承は教会会議・公会議によって伝えられる。教父時代の教父の多くは司教であったし、教会会議に集まって物事を決めていた。当初は地域的なものであったがやがてエキュメニカルなものに発展していく。つまり公会議だ(ニケア・コンスタンチノープル・エフェゾ・カルケドン・第二コンスタンチノープル・第3コンスタンチノープル・第二ニケア)。これらの公会議の教えが使徒伝承を構成してきた。そして第二バチカン公会議ははじめて教父や司教の教導権に言及した(11)。

 第二バチカン公会議は、「聖伝」と「諸伝承」を区別している。諸伝承とは、特定の時代の伝承、特定の地域や教会や修道会の伝承のことだ。だが、この区別はいまだ未決着であり、ここ数十年の神学論争の的となっている。伝承が持つ教会の普遍性と、諸伝承が持つエキュメニカルな「含み」をともに重視する必要がある。そのためにも「諸伝承についてはいつも批判が可能でなければなりません」(33頁)(12)。

 

(靖国神社)

 

 

 



1 これはなにも無教会主義を擁護しているわけではない。無教会派、無教会主義をキリスト教と呼んで良いかどうかいろいろ議論があるようだし、この日本発のプロテスタント信仰のありかたが日本の思想界に与えた影響はあまりにも大きいと私が思っているに過ぎない。
2 信仰が教会的だというのは、自分だけの、一人だけの信仰というものはない、と言っていると理解したい。信仰は集団的だ、皆でお互いの信仰を支え合っているのだ、と言っていると理解したい。
3 最近こそあまり聞かれなくなったが、昔は、カトリックはプロテスタントに比べて聖書を読まないとよく批判されたものだ。「聖書と典礼」の利用や、「ペリコペー」(典礼の朗読部分になる聖書の抜き書き箇所、第1朗読、第2朗読、福音朗読などのこと)が誤解されていたのかもしれない。
4 これら三つの方法がどういうものであるか、どのようにお互いが異なるのか、などは釈義論の大問題だが、ここでは詳しい説明はなされていない。意味の違いがわからない方は聖書研究の入門書を紐解くしかない。
5 つまり、聖書は、字面を文字通り受け入れるのではなく、文言のコンテキストや時代背景の文脈の中において理解すべきだ、と言っているようだ。当たり前と言えばあたりまえだが、キリスト教でもイスラーム教でも、聖書やコーランの文言を文字通り受け取るべきだと主張する者は少なくない。そういう意味で、この国際神学委員会の主張は啓示憲章第12条(「聖書を解釈すべき方法」と題され、”文学類型”、”類比論”の重要性が強調されている)の重要性を強調している点が注目される。
6 章とか節とか書かれているわけではなく、ただ数字が順番に打たれているだけだが、わかりやすくするため一般には「~条」とか表記している。
7 これらも抽象的な表現で、説明も短い。特に神学にあまりなじみのない人は「信仰の類比」など聞いたことがない表現であろう。類比論も神学上の大問題で、神学論争の一大テーマのようだ。プロテスタント神学ではよく「関係論」と対比的に説明(批判)されることが多いようだ。
8 この「歴史的・批判的方法」とは何のことかわからない人も多いと思う。大雑把な説明はかえって誤解の元になるので、細かい議論はまた別稿に譲りたい。
9 聖書は認めても聖伝を認めない宗派・会派も存在するが、この節は必ずしもそういう人々への批判的論調で書かれている印象は受けない。
10 言うまでもなく使徒言行録はルカ福音書の続編だと言われる。ルカ福音書はイエスの生涯を復活・昇天まで描いているというなら、使徒言行録(使徒行伝)はイエスの昇天からパウロのローマでの宣教まで描いている(投獄・刑死は描かれていない)。両者は本来一冊(一文書)だったという説もあるが教会は認めていない。
11 教皇の公会議への優位性はすでにトリエント公会議や第一バチカン公会議で認められていたと言っているように聞こえる。
12 日本のようなカトリックがマイナーな集団で、宗教と習俗の区別が難しい社会にとっては、こういう表現は、「えっ、なんのこと。もう少し具体的に言ってみて。たとえば、信者は靖国神社にお参りしてはいけないの?」などということになる。靖国問題に関して言えば、カトリック中央協議会はたびたび首相の靖国神社参拝に抗議声明を出している。信徒にも靖国神社礼賛論批判も多い(たとえば、https://ameblo.jp/akemi-gid/entry-11942370590.html)。これらの議論は正平協の変質問題とも関係するので議論は複雑だ。ただ先の戦争で近親者を失い、戦後も米国への従属的姿勢でしか生きてこれなかった日本人は、信徒は、加藤典洋の言葉を借りれば、「どこに追悼の心を向ければよいのだろう」。わたしはフルブライト留学生として大学院時代をアメリカで過ごしたことがある。1ドル360円の時代だ。アメリカの素晴らしさを知らないわけではない。だからカトリック信徒はもっと時間をかけてこの問題を消化していく必要があると思っている。批判は大事だ。だが性急な否定はよくないと今のわたしは思っている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神のことばに聞くー『今日のカトリック神学』の要約(2)

2021-09-14 16:17:26 | 神学


【序】

 カトリック神学は第二バチカン公会議によって開かれた道を歩んできている(1)。だが、カトリック神学は保守的なものから急進的なものまで「ある種の断片化」がみられる。カトリック神学は「同一性の明確な感覚」を必要としている。
 では、同一性とは何か。ここでは、「神学の唯一性と多様性」のことだという。「カトリック神学のうちに唯一性における多様性、多様性における唯一性」が同定されることが求められているという。「国際神学委員会」の主張を具体的に見てみよう(2)。

【第1章 神のことばに聞くこと】

 神学とは、通常は、神の存在を証明する学問だといわれる(3)。本文書では、「神学は・・・神の啓示に関する知的な省察」と定義されている。「神の啓示」がキーワードだ。

  第1節 神のことばの重要性

 神のことばは、ヨハネ福音書の「プロローグ」で始まる。「始めにことばがあった。ことばは神とともあった。ことばは神であった」(ヨハネ1・1)。この賛歌は神の啓示の頂点を示している。だから教会は聖書に深い敬意を払っている。

 だが、キリスト教は「書物の宗教」ではない。キリスト教は「神のことばの宗教」である。ものいわない、書かれたことばではなく、受肉した生きたみことばの宗教である。つまり、「聖伝」を含むものである(4)

 すなわち、カトリック神学の基準は、神のことばの重要性を認識することにある。神のことばの重要性を認識しない言明はカトリック神学とはいえないということのようだ。

  第2節 信仰ー神のことばへの応答

 信仰は神のことばを聞くことから始まる。では、神のことばはどのようにして人間の耳に届くのか。人間の耳に届く方法とはなにか。それは、結局、「使徒」と「使徒継承」を通して届くという。そう言われてもよくわからない。何のことなのだろう。耳に届かない人もたくさんいる。耳が悪いわけではない。なぜ届かないのか。
 信仰は、信じるという行為と共に信じる内容そのものをも含む。両者は別々のものではない。信心という行為だけ、聖書という内容だけでは信仰にならないと言うことなのであろう。この行為と内容を一緒に持つことがカトリック神学の第二の基準になるのだという。

 第3節 神学 ー 信仰の理解

 神を信じる者は信仰を理解しようとする。誰でも、自分が信じているものは一体何物なのか、と問う。なぜ、ではない。何を信じているのか、と問う。これを本文書は「信仰の理解」と呼んでいる。信仰の理解とはなんのことか、「の」とはなにか。信仰「を」理解するという意味なのか、信仰「という」理解のことを指しているのか。日本語の「の」はあまりに多義的なのでよく意味がわからない(5)。
 原文は intellectus fidei だ。fideiは所有格なのだろうか。信仰と言うより「善意」とでも訳せるのだろうか。どちらにせよ、この信仰の理解という方法が信仰を成長させ、ひとを神学へと導いていく。神学は、神自身が持っている知識に人間が理性的に参与するという意味で、「神に関する学術」(scientia Dei)なのだという。
 つまり、神学は「理解を求める信仰」であり、常に「理性的な次元」を持っている。神学は、感情でも、無知蒙昧な同意でもない。それは「理性的」であること、このことがカトリック神学の基準なのだという。神学は、教会が何を信じているのか、なぜ信じているのか、を合理的に・体系的に・理性的に理解することを目指している、という。

 そう言われるとはいそうですかとしか言い様がないが、こういう理性的・合理的理解の強調が本文書の特徴のようだ(6)。


(トマス・アクィナス)

 


1 本文書で、特に断りがない限り、神学とはカトリック神学のことを指している。また、第二バチカン公会議を認めない人々が教会内にもいるようだが、この人々は別の道を歩んでいる、誤っている、と言っているように聞こえる。
2 国際神学委員会とは教皇庁の教理省の諮問委員会のことだという。教皇庁の組織は1988年に大幅に改組されている。たとえば、正邪省が教理省に名称変更されたりしている。組織形態は相変わらずわかりづらいが、一応予備知識として見ておこう。詳しくはカトリック中央協議会が説明してくれている。

 https://www.cbcj.catholic.jp/catholic/vatican/

 組織全体は Dicasteries とその他からなるが、Dicasteries は中央協議会は「部署」と訳している。Dicasteres(部署)には7つの下部組織があるようだ。

Dicasteries(部署)

1 事務局(国務省・経済事務局)
2 会衆(支持者:教理省・カトリック教育・など)
3 審判(法廷・恩赦院などの裁判所・使徒座署名院)
4 評議会(宗教間対話・正義と平和協議会など)
5 オフィス(教皇空位)
6 部門(平信徒・家庭・いのちの部門)
7 コミュニケション(バチカン情報サービス・バチカンメディアなど)

 事務局以外に、研究所・委員会・アカデミー・その他機関・その他組織・ローマ司教区が教皇庁の聖座(Holy See)を構成するという(下部組織となる)。聖座 Holy See とは、一般には、教皇と教皇庁(行政組織)の両者を含むようだが、教会内では「使徒座」とも呼ばれ、ペトロ由来の使徒継承教会のヘッドという側面が強調される。
 国際神学委員会の委員の構成は変化してきているようだ。K・ラーナーやJ・ラッチンガーなど思想性の異なる人々がいたこともあり、委員会の立場性は保守的とか革新的とか一概には言い切れないようだし、歴史的に一貫しているとも言い切れないようだ。従って本文書をあまりイデオロギー的にみることは生産的ではないように思う。
3 たとえば、「広辞苑」第7版は、「神学とは、啓示に基づき教義や歴史や信仰生活のありかたなどを組織的に研究する学問」と定義している。簡潔で要を得た素晴らしい説明だ。
4 聖伝 Holy Tradition とはよく使われる言葉だ。教会では「聖書と聖伝」と言い表し、聖伝の重要性は聖書と変わらない。意味は、使徒たちがイエスから受け、聖霊によって学んだ、使徒伝承のことをさす。具体的には、使徒伝承以外に、「諸伝承」(神学、おきて、典礼、さまざまな信心の伝統)を含むようだ。
5 どうも日本語の「の」の多義性は日本語の特徴の一つらしく、単なる所有格とか英語の of とかで説明できるものではないらしい。現在は国語学者とはいわず、日本語学者と呼ぶようなのでどうも国語の問題とは言い切れないようだ。大学文学部にある国語学科と日本語学科になにか違いがあるのだろうか。北原保雄編『明鏡国語辞典』(大修館書店)2002 など。
6 こういう神学の理性的性格の強調から、カトリックにおける神秘主義思想の発達をどう説明していくのか、後半の章に期待しよう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神学が哲学に基盤を求めているー『今日のカトリック神学』の要約(1)

2021-09-12 09:35:09 | 神学


 4回目の緊急事態宣言のもと当方の教会も完全に閉じられ、学び合いの会は全く開くことができない状態が続いている。そこで、勉強中の『今日のカトリック神学』を少しまとめてみた。私どもの教会は完全に立ち入り禁止で、信徒会館にすら足を踏み入れることができない(1)。司教の判断か、教区司祭の判断かはわからないが、当教区と東京教区との対応姿勢の違いを感じている。
 教会の中でも、地球規模のコロナ禍は近代文明に対する神の怒りだとか陰謀説のようなものが広まっていると言うが、ここは一歩踏みとどまって冷静に対応していきたいところだ。

 さて、この『今日のカトリック神学ー展望・原理・基準」(カトリック中央協議会)はほぼ10年前2013年に出版されたものである。これはヴァチカンの「国際神学委員会」が教皇庁に2011年に提出し、教皇庁教理省が2011年に出版を許可したものを日本語に翻訳したものである。
 10年前とはいえ、出版の背景と意義は変わってはいない。第二バチカン公会議以降の新しい課題ー平和・正義・解放・環境・生命倫理などーに対応するカトリック神学は、「哲学的基盤」をより強く求めるようになっている。「神学を基礎づける、強化する哲学」、これが本書の目標であるようだ(2)。平和や正義を求める教会の祈りが空回りして一人歩きしないためにも、また、逆に過激な行動の陥穽に陥らないためにも、「神学の哲学的基盤」をはっきりさせておく必要があるわけだ。

 本文書(本書)(3)の主張は明快だ。カトリック神学の原理は「神の言葉を聞くこと」(本文4)であるというものだ(4)。では、神の声を聞く、とはどういうことなのか。
 本文書は、ある主張が、命題が、カトリック神学と認められるためには、つぎの「12の基準」を満たしていなければならない、としている。では、その要件とはなにか。

1 神の言葉の重要性
2 信仰ー神の言葉への応答
3 神学ー信仰の理解
4 神学の命としての聖書研究
5 使徒伝承への忠実さ
6 「信仰者の感覚」への配慮
7 責任を持って教導権に依拠すること
8 神学者たちの交流
9 世界との対話
10 神の真理と神学の合理性
11 方法および専門的分野の多様性における神学の唯一性
12 学術と知恵

 以上の12の基準があげられている。実際にはこれらが各節の題名となっており、目次のように見える。実際には、1~3が第1章で「神のことばに聞くこと」、4~9が第2章「教会の交わりのうちにとどまること」、10~12が第3章「神の真理を説明すること」、と題されている。これに「序」と「結び」がつけられ、詳しい「注」がつけられている。これだけだと全体的に抽象的な印象を与えるが、具体的には、どのような「哲学的基盤」が求められているというのだろうか。
 それでは、各節を簡単に要約していってみよう。適宜私のコメント、印象を付け加えてみたい。

 

【本書】

 

 


1 ご葬儀もままならないようだ
2 これはなにも、「哲学は神学の婢」と言っているわけではない。哲学的基礎づけを欠いた神学は説得力に欠けると言っている。
3 本書は、委員会の報告書がベースになっているので、「文書」と呼ばれている。日本語訳は111ページにすぎない。
4 「神のことばに聞く」とはわたしにはあまりなじまない表現なので、「神のことばに耳を傾ける」と言い換えたいところだ。具体的には、預言者の、イエスの、聖書のことばに耳を傾けること、と理解したい。といっても、今話題のイスラーム教のように原理主義的に神の声を解釈せよと言っているわけではない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする