この最後の第3節は「学術と知恵」と題されている。結局神学は単に学術であるだけではなく、知恵そのものであり、他の学問を知恵へと招くものであるというのが主旨のようだ。
神学は知恵である。英知である(1)。
あまり聞き慣れない表現だろうが、よくかみしめてみよう。人間は部分的な諸真理に満足できない。究極的な真理を理解したいと望む。そして神学は究極の真理は「超越的」であると主張する(2)。
イエスがヨハネ福音書で最初に語った言葉が繰り返される。
「何を求めているのか」(ヨハネ1・38)
あなたは何を求めているのか(3)。それは知恵ではないですか、というのが本文書の主張のようだ。
第3節 学術と知恵
[旧約での知恵]
旧約の知恵文学(4)は知恵を天的・女性的に擬人化して知恵神話を語る。知恵は実践知だけを意味するのではない。旧約の人々は、自然には秩序があるという不思議さに知恵をもって対処し、現実生活の不条理に立ち向かった。旧約では知恵文学の中心的メッセージは「主をおそれることは知恵の初め」だといわれる。これは3度現れるという(詩篇111・10,箴言1・7と9・10)。
[新約での知恵]
イエスは知恵文学の伝統の中に立っていた。福音書によればイエスは知恵文学をよく知っていたようだ。「知恵ある者には隠して・・・幼子のような者にお示しになる」(マタイ11:25)とのイエスのことばは、旧約での知恵概念が新たに「転換された」ことを示している。
パウロは、イエスの十字架上での死を「愚かさ」としてしか見ない「世の知恵」を批判した。パウロは、それは「神の力、神の知恵」だと述べた(コリントⅠ:18-25)。知恵の逆説性を説いたわけだ。
[ギリシャ的な知恵]
教会は、知識のみで救いが得られると考えるグノーシス主義は認めないが、知恵は知識を統一する見方だというギリシャ哲学の知恵概念と出会う。そして新たな知恵概念を神学の中に組み込んでいく。学術は個別的な諸原理に光を当てるが、現実全体を示すことはできない。現実全体の統一された眺めを与えるのは知恵である。教父たちにとり、賢者とは神と永遠の真理に照らして万事を判断する人のことであった。
[哲学的な知恵]
哲学は文字通り、愛 philos と 知 sophia の二語からなるギリシャ語の訳語で、知を愛すること、すなわち 愛知 を意味する(5)。特に形而上学 metaphysics は、人間の感覚を超える超越的存在への哲学的問いとして存在してきた(6)。形而上学はやがて中世のおいて神学と出会うことにより、人間の知識をより高い知恵へと高める道を求め始める。
[キリスト教的な知恵]
キリスト教的な知恵は、哲学のような純粋に人間的な知恵を超越する。それは大きく見て二つの形式をとる。
一つは神学的知恵で、信仰によって照らされた理性の働きをさす。それは獲得された知恵だという。もう一つは神秘的知恵とよばれるもので、それは聖霊のたまものである。「聖人たちの知」とも呼ばれる。神は、霊的な人間に神的な事柄を知り、それを「被る」(かぶる)ことを許すという(7)。
[神学的知恵と神秘的知恵]
キリスト教の知恵はこの二つの形式をとるが、両者は混同されてはならない。霊性を求める知恵は神学を避けたりはしない。逆に霊性を求める熱心な霊的生活は神聖な神学を必要とする。アヴィラの聖テレジアは修道女たちが神学者に助言を求めることを繰り返し望んだという(8)。
[知恵としての神学]
信仰は、経験され、研究される。知恵としての神学は信仰のこういう多様性を「統合する」。知恵とは統合する力のことである。この知恵としての神学は、現代神学が直面している二つの大きな課題の解決に役立つ。一つは、信じる者たちと神学的省察との間のギャップ、つまり、信徒と神学者との間のギャップを橋渡しする方法を提供する。 もう一つは、非キリスト教文化において宣教を促進する方法を提供する。教会の宣教活動を助ける。知恵としての神学はこの二つの課題に応えることができる。
[神秘と否定神学]
神の神秘を論じると(9)、神学的知識には限界があることがすぐにわかる。理性は、信仰によって照らされ、啓示によって導かれると、自らのうち限界があることにすぐに気づく。だからキリスト教神学は否定神学の形式をとることがある。
否定神学は、神の神秘への知的なアプローチは無意味だといっているわけではない。知的なアプローチには限界があると言っている。神学的議論はいつも以下のような道をたどる:
肯定の道 → 否定の道 → 卓越性の道
肯定の道とは原因結果論など被造物の中に完全性があることを示し、否定の道とは神の完全性が被造物の中には不完全な形でしか存在しないことを示し、卓越性の道とはそれらの完全性は神の内にあると述べる。
神学は神の神秘を語る。だが神学は自らの知識は真実であっても神の実在の前では不十分であることを知っている。神を完全に把握することはできない。アウグスティヌスは言っている。「もしあなたが把握しているならば、それは神ではありません」。
カトリック神学の基準は、聖書の知恵伝承に根ざしながら、神の神秘を研究するなかで真の知恵を求める。神学は、所有することではなく、神に所有されることを求める。
【結び】
本文書は、カトリック神学を特徴づける展望と原理を示し、神学の基準を提示してきた。神学が考察するのは、啓示された栄光・恵み・真理である。神学は、創造されたものより、むしろ神のうちにある希望を説明しようとする。だから神学は基本的に栄唱的であり(10)、賛美と感謝にによって特徴づけられる。
注
1 繰り返しになるが、知恵も英知もwisdomの訳語だ。ギリシャ語で言えば ソフィア sophia だ。知恵という言葉は、知恵文学とか知恵の書(旧約続編)という言葉で日本人にもなじみ深い。知恵の意味は、「問題を解決する良い考え」(『新明解』)という普通の意味だけではない。新約聖書では結局は知恵とは歴史的存在としてのイエスそのひとをさす。「知恵」はやがて「ことば」(ロゴス)に置き換えられていくが、知恵とはイエスのことを指すことを忘れてはならない。
2 「超越」 transcendence という概念も難物だ。わかったようでよくわからない概念だ。そもそも神学と哲学で定義や用法が異なるようだ。普通は「日常的なものを超えているもの」(『新明解』)という程度の意味だが、『広辞苑第7版』は一言では説明しないで、神学・中世哲学・カント哲学・現象学・実存哲学の定義を個別に紹介している。よほど多義的な概念なのであろう。哲学で用いられる絶対者・超越者という言葉は神概念の代替物のようだが、超越概念と同一ではない。
哲学では日常という現実・現状を外へ・上へ超えて真理を求めようとする人間の普遍的経験をさすが、それは「内在への回帰」(自分の内部に立ち帰る)と不可分なので常に「現状批判」という機能を持つようだ。神学ではトマス・アクィナスの「存在の類比」論のように「神をいかに理解し・説明し・表現するか」という問いへの答えとして超越概念が用いられた。否定神学も同じく、神の絶対的超越性と人間の受動性を表現しようとした。現代哲学ではキルケゴールやハイデッガーの超越概念が支配的なようだが、神学では神の超越性とは結局はイエスの受難と復活のことをさしているようだ。
3 「何を求めているのか」という日本語ではそのコノテーションが明らかではないが、日本語で理解してなにか形あるものを欲望しているという意味にとるとそれは間違いに近いようだ。英語だと What are you seeking ? という訳の聖書が多いようだし、ドイツ語だとほぼ Was sucht ihr ? だ。seek も suchen もなにか内面的なものを求めるというニュアンスがあるらしい。何か形あるものではなく、内的なものを探し求めるという意味のようだ。
4 知恵文学とは旧約聖書のなかで、啓示ではなく知恵について語る諸文書のこと。ヨブ記・箴言・コヘレトの言葉・続編(外典)の知恵の書とシラ書(集会の書)を指すことが多いようだ。。
5 哲学という訳語は教科書的には西周がフィロソフィーの訳語として明治7年に造語したものとされるが、窮理学、理学などという訳語も用いられたようだ。
6 形而上学とは結局は超越的存在への哲学的問いであり、中世の神学を支えていくが、近代に入ると主観性・実証性の思想の中で解体され、近代科学に取って代わられる。中世の形而上学は終焉したが、経験的な知覚を超えるものを対象とする学問・学知としては今後も消えることなく存在し続けるのであろう。
7 あまりなじみのない用語だが、pati divina の訳語らしい。神学の専門用語なのかもしれない。「平安と沈黙の中で、観想し、神と個人的につながること」を意味しているようだ。
8 アヴィラのテレジア『完徳の道』
(アヴィラの聖テレジア 大テレジア 1515-1582)
9 神秘 mystery という言葉もよく使われるが、正確に理解しようとするとやっかいな言葉だ。ギリシャ語では神秘とは目や耳を閉じることを意味したらしいが、現在は普通は神の隠れた意思・計画のことを意味する。特にキリスト教では「秘跡」概念との区別が難しい。キリスト教の文脈では神秘とは信仰に属する秘められた事柄、啓示に示された真理のことをさす。具体的には「聖体の秘跡」のことをさすので、三位一体の神は「神秘的」とされる。要は、いくら頭で考えてもわかりませんよということのようだ。
10 栄唱 doxology とは、ギリシャ語のdoxa(栄光)とlogos(言葉)という言葉の合成語。プロテスタントでは「頌栄」(しょうえい)と訳される。神に栄光を帰する祈りのことで、三位一体の神を讃える内容からなる。栄唱には様々な形式があるようだが、ミサでは賛歌がなじみ深い。