Ⅱ 教義憲章 Pastor Aeternus
これは、グレゴリウス7世(在位1073-85)(1)以来の教皇の「裁治首位権」についての初めての正確な規定をしたものである。教皇不可謬説もこの憲章が根拠とされることが多い。
1 この憲章の内容
①プロローグ
教会の目的はキリストの救いのわざの継続であり、そのためには信徒の一致が必要だ。この一致は使徒とその継承者によってのみ保たれる。司教団・司祭・信徒の一致は「ペテロの座」の上に基礎づけられる。つまり教皇だ。これは教会を職制の面からみた規定である。
②第1章 ペテロにおける使徒座の首位権の制定
ペテロの裁治権の根拠は聖書に求められる:ヨハネ1・42(最初の弟子たち),マタイ16:16-19(ペテロの信仰表明),ヨハネ21:15-19(イエスとペテロ)
「キリストはペテロにだけ託された」点が強調され、ガリカニスムへの対抗が明確に提示される。われわれも聖書のこれらの箇所を読み合わせて味わった。
③第2章 ペテロの首位権は教皇において継承される
④第3章 首位権の内容と本質
教皇の裁治権の克明な規定が提示される。裁治権の性格が説明され、教会の構造を「ヒエラルヒー」(階等性)として提示する。教会がヒエラルヒーを持つのは西方教会の特徴であり、分権や平等が重視される東方教会ではヒエラルヒーは「未発達」とされる。
この思想がもたらした帰結は重大であった。
a) 教皇は、世俗や国家権力によって規制されることはない
b) 教皇は教会のあらゆる事柄についての最終的な判断者である(公会議で修正されない)
明確な規定と言えば明確だが、その主張は激しく、厳しい。
この章のより詳しい説明は下記の注5に回してある
⑤第4章 教皇の不可謬教導権
2 経緯
①当初、ドイツとオーストリアの司教の大多数はこの憲章の採択に反対だった
第1回投票(7月13日) 賛成451 反対98 条件付き6
第2回投票(7月18日) 賛成533 反対1 条件付き1
このあと、重大事件が起こる。66名がローマを退出し、後に、ドイツとオーストリアの「古カトリック主義」(Altkathelizimusu)を形成する(2)。
3 反対派の意見
①反対の神学的理由:聖書に根拠がない
②反対の歴史的理由:引用された過去の公会議文書の内容は教皇不可謬権を示してはいない
③反対の政治的理由:不可謬権が正しいか否かは別として、現時点でこの宣言は教会の利益にならない
4 伝承からの証明と不可謬教導権の詳細な説明(3)
①伝承からの証明
これは、第4コンスタンチノープル公会議(569-70)、第2リヨン公会議(1274)、フィレンツェ公会議(1439-45) に求められる(4)。
②教皇不可謬権の証明
a) 信仰の宣布と保持は教皇のものであった
b) 信仰の危機に際して、司教たちは教皇に依存した
c) 教皇が教えを決定してきた。教皇のカリスマは、教皇個人のペルソナではなく、教皇職という職務に基づいている
③「不可謬の主体であるローマ教皇が、信仰と道徳に関する事柄について、公的な人物としてその最高の牧者の立場から(ec cathedra)最終的決定を下すとき、不可謬であり、その宣言は全教会を拘束する」
教皇不可謬権に関するあまりにも有名な文言である。「信仰と道徳に関する事柄」は時には説明よりも弁解のように使われることもある。より詳しい説明を川中師がしているので、注で紹介しておきたい(5)。
5 Pastor Aerternus についての神学的反省
①法的な観点
反宗教改革的な制度的教会理解に基づいている。教会を形式的な法的側面から規定し、裁治権の問題に集中している。この点は第二バチカン公会議の観点とは対照的である。司教の使命は支配よりも奉仕と信仰の証にあるのであって、法的側面は霊的本質から出る二次的なものにすぎない。ただし、制度は教会維持のためには必要不可欠である。
②ヒエラルヒーの意義と限界
ヒエラルヒーは必要ではあるが、使徒(司教)との相互補完的な制度と考えるべきである。
③一面性
会議が中断されたため、教会全体を取り扱うことが出来ていない。教皇の裁治権と不可謬権という特殊な局部的問題に終始した一面性を持っている。
岩島師の「神学的反省」は手厳しい。岩島師は次いで、教皇の不可謬教導権をどう理解すべきかという難問に対して自説を展開する。長くなるので次回に回したい。
注
* 前東京大司教、ペトロ岡田武夫名誉大司教様の訃報を知る。12月18日(金)午後1時22分、頸部食道がんに伴う出血性ショックのため東京医科歯科大学付属病院にて帰天。享年79歳。ジョンストン神父様から「洗礼」を受けられたのは1963年のクリスマスで22歳の学生の時だった。今は無き上智会館のお御堂での受洗だった。すでにプロテスタントとしてクリスチャンであった岡田師は洗礼ではなく改宗だった(少し正確に言うと堅信を受けて堅信名をもらう)。師は当時東大カト研(駒場 本郷はエルリンハーゲン師)の指導司祭であったジョンストン師から学んでおられた。当時のカトリック教会は寛容だったので、あらたな水による洗礼を求めなかったようだ(現在はケースにより判断されるようだ)。岡田師は上智カト研にとっても大事な方であった。ご兄弟の方もカト研に所属しておられると聞いている。
大司教としてみれば、師は第二バチカン公会議以降の現在の日本の教会の基本路線を敷いた方と言ってよいであろう。ローマとの関係の取り方、日本の他宗教との関係の取り方、日本の習俗や文化との関係の取り方など、師の姿勢が反映していたように見える。その路線が教勢拡大という意味で適合的であったかどうかの判断は後の歴史にまかすほかはない。東大卒のエリート大司教というイメージとは異なって人間的にも思想的にも穏やかな方だった。同じ時代を生きた者の一人として安らかな平安と永遠の安息を祈りたい。われわれも同じジョンストン師の指導を受けたカト研の仲間として祈りたい。
写真(岡田大司教)
1 グレゴリウス7世は、教皇は至高の裁治権(立法権・裁判権)を持つと主張して、聖職者の妻帯や聖職売買を禁止した。これは後に「グレゴリウス改革」と呼ばれる。
2 復古カトリック教会 Old Catholic Church ともいう。かれらは教皇の首位権や不可謬権を認めない「ユトレヒト・ユニオン」を作り、カトリック教会を離れた。なお、第二バチカン公会議以降の教皇を認めない「教皇聖座空位論(sedevacantism)」とは異なるようだ。ブログをみると日本にも古カトリック教会信徒や教皇座空位論者がいるようだ。
3 カトリック教会は「伝承」と「聖書」を同程度に重視する。何を伝承と見なすかは議論のあるところだが、伝承を認めないプロテスタント教会との大きな違いだ。
4 大シスマ時代(3人の教皇が並立する大分裂時代)(1378-1417)以後、公会議が教皇の上に立つと言う公会議至上主義(condiliarismus)が登場して、教皇至上主義(papalismus)と対立するようになる。フィレンツェ公会議では最終的に後者が勝利する。
5 これは川中師が2014年の日本カテキスタ会信仰養成講座で行った講義の一部である。タイトルは、第二バチカン公会議の「教会憲章」第3章「教会の位階的構成、とくに司教職について」の「背景」となっている。かなり専門的な内容で、不可謬論をより広い視野の中で捉える視点を与えてくれている。
5・1 第一バチカン公会議(1869/12/08~1870/10/20)
①第一バチカン公会議の教義憲章 Constituitio dogmatica)
a)デイ・フィリウス(1870/04/24):カトリックの信仰に関する憲章
b)パストール・テルヌス(1870/07/18):キリストの教会に関する憲章
②パストール・テルヌス(DH3050-3074)の構造
教会の設立と基礎
第1章 聖ペテロにおける使徒座のの首位権の制定
第2章 聖ペテロの首位権はローマ教皇において継続される
第3章 教皇の首位権の本質と権能
第4章 教皇の不可謬教導職について
③不可謬性 infallibilitas (DH3065-3074)
ここでは、第4章(DH3074)の訳文が紹介される。
「すなわち、教皇が教皇座から宣言する時、言い換えれば全キリスト者の牧者として教師として、その最高の使徒伝承の権威によって全教会が守るべき信仰と道徳についての教義を決定する時、救い主である神は、自分の教会が信仰と道徳についての教義を決定するときに望んだ聖ペテロに約束した神の助力によって、不可謬性が与えられている。そのため、教皇の定義は、教会の同意によってではなく、それ自体で、改正できないものである」
・不可謬性とは教皇の指導職の不可謬性のことであり、教皇個人の不可謬性のことではない
・不可謬性条項の前段と後段に矛盾があるのではないか
①前段では、「教皇座から宣言するとき」:これは教会全体における教皇の決定
②後段では、「教会の同意によってではなく、それ自体で」とある
この ex cahedra(教皇座から) と ex sese (それ自体で) は内容的に矛盾した表現だという。
5・2 第二バチカン公会議の審議(1962-64)
①第二バチカン公会議における少数派と多数派の対立
・保守派 the conservatives は少数派で、オッタビアーニ枢機卿(1890-1979)に代表される
・進歩派 the progressives は多数派で、ブリュッセルの大司教スーネンス枢機卿(1904-96)に代表される
②第三会期における教会草案の審議(1964/・9/14~11/21)
a) 「予備解説的注釈」(1964/11/16)が出される
「さらに、教会憲章要綱の第3章に関する修正意見について、上位の権威筋から予備解説的な覚え書きが諸教父に交付された。同第3章に述べられている教えは、この覚え書きの精神と見解に従って説明され、理解されるべきである」
パウロ6世はこの注釈に沿って「全会一致」の意向を示されたという
b) 教会草案の最終採決(1964/11/21)
賛成2151票 反対5票
ここに「教会憲章」が成立した。
教会憲章第3章の審議の焦点は、ローマ教皇の「首位性」(primatus)と 司教団の「団体制」(collegialitas)にあった。
第二バチカン公会議の教会憲章の第3章をただ読むと何のことを問題にしているかがよくわからないが、川中師の背景説明のおかげでより深く理解できる。