晴天の冬至の日に開かれた岩島師教会論は終盤に入った。コロナのせいで出席者は少ない。とはいえ教会に集まれるだけでも良しとしなければならない。
今回は第19章「第一バチカン公会議」で、制度としての教会論が完成したという話だ。論点は教皇の不可謬権と教皇首位権。では、教皇は不可謬だとは何のことなのか。
だが、教皇不可謬論を中心とするこの制度的教会論は、続く第二バチカン公会議で修正発展を余儀なくされる。岩島師はこの難しい問題にはっきりとご自分の評価を下す。少し丁寧に見ていきたい。
第19章 第一バチカン公会議 ー 制度としての教会論の完成
カトリック教会が「制度として」完成するとは独特の意味を持つ。東方教会やプロテスタント教会には見られない独特の制度ができあがったという意味になる。
①教皇不可謬権
②教皇首位権
③中央集権的体制
これらはカトリック教会の組織としての特徴と言ってもよいのかもしれない。
Ⅰ 背景
1 宗教改革から第一バチカン公会議までの約350年間の推移
①ヨーロッパの政治的変遷
ここでは、絶対主義→フランス革命→ナポレオン→市民革命→国民国家の成立 という流れの中で、人間の自由が主張され、人間社会が神から切り離されてきたという変化が描写される。
②ヨーロッパの学問世界
ここでは、科学の自立性の確立とともに、人間理性が神から切り離されたと説明される。
2 ガリカニスムの精神 Gallicanisme
ガリカニスムとはフランスの国家教会主義(国民教会体制)のことをさす。国民国家が主権を持ち、各国の司教団がローマから自立していく(1)。
フランス教会の「ガリカニスム4箇条宣言」は以下のように整理される。
①王と政府の教会からの独立
②公会議至上主義
③教皇の首位権はフランス国王とフランス教令によって制約される
④教皇の信仰問題についての決定も教令により修正可能
フランスが国家としてローマから独立していく過程がはっきりとわかる(2)。
ドイツ、オーストリアも同様の傾向をとる。1870年にはイタリア統一運動により教皇領は崩壊する(3)。
3 ウルトラモンタニスム Ultramontansme
教会にも自由主義的姿勢もあったが、ローマ中心主義つまり教皇庁の至上権を主張するウルトラモンタニスムの思想が生まれる(4)。ガリカニスムとは正反対の思想だ。ラムネ(フランス)、ウオード(英国)などが教皇の絶対的権威と不可謬性を主張したという(5)。1864年に「シラブス syllabus (近代主義者の誤謬表)」が発表され、80項目の近代思想の命題が排斥された(6)。
ガリカニスムに対抗するためにウルトラモンタニスムの路線で第一バチカン公会議が招集される。トリエント公会議(1545-63)以来実に300年ぶりに開催された第一バチカン公会議はガリカニスム思想に対抗するためであった(7)。
トリエント公会議は宗教改革に対抗するために開かれた。第一バチカン公会議は教会がガリカニスムに対抗するために開かれたことを忘れてはならないようだ。
4 第一バチカン公会議(1869)
1869年にピウス9世により招集されたこの会議(第20回公会議)は、独仏戦争、イタリア統一戦争などのためわずか1年足らずで中止となる。再開されるのは約100年後である(1962年第二バチカン公会議)。したがってわずか2つの憲章が採択されただけで終わる。だが大きな歴史的意味を持つ憲章の採択があった。
①ディ・フィリウス(Dei Filius)
文字通りには神の子だが、信仰憲章と訳されるらしい。理性の自律が信仰の危機をもたらしたことへの対処という性格を持っていたようだ。
②パストウール・エレルヌス(Pastor Aeternus)
ローマ教皇の全教会に対する権限の宣言で、教義憲章と呼ばれるようだ。いわゆる教皇不可謬説(無謬説)を宣言した歴史的な憲章である。
この憲章は1870年の7月18日に採択されるが、翌日には独仏戦争が勃発する。9月20日にはイタリア統一戦争でローマが占領される。ヴァチカンは公会議どころではないので、公会議は10月20日に中止される。
(第一バチカン公会議)
教義憲章は教皇不可謬論の骨格なので次回に詳しく見てみたい。
注
1 ガリアとはフランスの古名。ガリカニスムは司教主義(episcopalismusu)とも呼ばれる。
2 こういう説明は、これは「ガリカニスム」精神が「ライシテ」原理とどう異なるのかという問題を想起させる。ガリカニスムには国家による宗教の管理という側面があるのでライシテ精神とは異なるように思えるが、フランスが共和国であることを認めるという点では親和性もありそうだ。思想史の中でどう説明されているのか興味深い。
3 イタリアは、日本やドイツと同じように、近代国家として成立するのが遅かった。北イタリアは長くオーストリアの支配下にあった。イタリア統一運動(戦争)とは「リソルジメント運動」Risorgiment から始まり、1861年のイタリア王国成立までを指すようだ。日本史でいえば明治維新前後、大浦天主堂での信徒発見(隠れキリシタン)は1865年だ。この年、アメリカでは4年続いた南北戦争が北部の勝利で終わった。
4 ウルトラモンタニスムとは「山の向こう」というラテン語に由来する古い言葉のようだ。ローマから見てアルプスの北側にも教皇の権威が及ぶという考え方だ(フランスから見て山の向こうにローマがあるという意味ではないようだ)。
5 14世紀以来の「公会議至上主義」は「公会議の不可謬性」を主張していたが、教皇不可謬論は19世紀にピウス9世により開催された第一バチカン公会議に帰されることが多い。
6 例えば、汎神論・自然主義・合理主義などの思想だけではなく、政教分離説や出版の自由など世俗的事柄も含まれており、近代社会の科学や文化をごちゃ混ぜに糾弾しているようだ。さすが教会外部からは強い非難を浴びたようだ。にもかかわらず、教皇ピオ10世は1910年に自発教令「反近代主義者の誓約」をさらに出し、20世紀前半の教会を強く拘束した。この誓約は当時の神学者や神学生を苦しめたようだ。この誓約も「シラブス」の一部とみなされているらしい。今から見ればこの反動的な誓約は第二バチカン公会議後の1967年になってやっと廃止された。
7 わたしはいつも不思議に思うのだが、16世紀から19世紀まで300年もの長い間なぜ公会議は一度も開かれなかったのであろうか。近代社会の成立の中で教会は公会議を「開かなかった」のか「開けなかった」のか。公会議は、教義の制定や異端説の排除のために開くものであり、頻繁に開くものではないとはいえ、300年間も開催されなかったのは不思議と言えば不思議である。