カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

トリエント公会議と反宗教改革 (学びあいの会)

2017-12-18 23:13:25 | 神学

 12月の学びあいの会では、「宗教改革後のカトリック教会の刷新ートリエント公会議と反宗教改革」というタイトルで報告があった。この学びあいの会ではここ数回連続して宗教改革について学んできた。この間浮かび上がってきたのは、宗教改革に対するカトリック教会側の対応が必ずしも十分には論究されていないという点であった。教会はどう対応したのか。カトリックサイドから少し整理しておこうということである。

 本題に入る前に少し前提の議論をしておこう。まず、「反」宗教改革という言葉だ。これは Counterreformation, Gegenreformationen の訳だ(注1)。Reformation を宗教改革と訳すことも議論の余地があるだろうが、ここでは Counter の訳として「反」が妥当かどうかだ、。岩波のキリスト教辞典では「対抗宗教改革」が見出しで、角川世界史辞典は「反宗教改革」が見だしだ。山川の世界史ではなんと「反動宗教改革ともいう」と説明している。カトリックから見れば、ルターの95ヶ条の論題(1517)以後、教会は、一方では、「カトリック改革」と呼ばれる自らの改革に乗り出し、他方、「反宗教改革」と呼ばれうる後ろ向きの改革もあった。「宗教改革 対 反宗教改革」という図式は教会史のなかではもはや一般的ではないと思われる。

 つぎに、反宗教改革とはいつの時期のことを指すのかという問題だ。運動だからいつからいつまでとは決めがたいのは当然だが、宗教改革を95ヶ条の論題(1517)からアウグスブルクの和議(1555)までと考えるなら、反宗教改革は、カトリック教会のルターへの反撃がヴォルムス勅令 Wormer Edikt (1521 ルターの破門宣告)からはじまったと考えるなら、終わりは30年戦争(1618-48)後のウエストファリア条約(1648)と考えられそうだ。ここでカルビニズムは公認され、ドイツの分立が確定し、「主権」をもったいわゆる「近代国家」の萌芽が芽生えてくる。教科書風に「カトリックの反撃」と評するなら、スイス、ドイツの半分はカトリックに戻った。反宗教改革はトリエント公会議を中心に16世紀後半の出来事として議論されることが多いが、17世紀前半までを含むと考えておこう。もちろん宗教改革は現在も続いているという議論もあるが、それは別の話である。

 

 さて、報告の本題に入ろう。報告は3部に別れている。

[1] ルターの神学

 S氏はルターの神学の原理を3点に要約している。第一に、①後期唯名論をとった(エルフルト大学の主流の立場 注2)。恩恵論により自由意志論から神学を解放した 恩恵は人間側から見れば信仰義認となる。贖宥を疑問視し、修道制を批判した。だがツゥイングリの急進主義には反対した ②聖伝を否定し、聖書のみとした ③キリストのみ論で、救いにおけるキリストの働きに集中した。
 第二にサクラメントは洗礼と聖餐のみとした(カトリックは七つ)。しかし聖体の象徴主義には与しなかった(ご聖体の一時的聖変化)。また、教会の位階制を福音との関係でのみ認め、説教中心の聖餐式となる。
 第三に、倫理面では罪との戦いが必要とし、一般信徒にも修道者にならった訓練と節制を要求した。
 第四に「二王国論」をとった。霊的統治様式と世俗的統治様式とを区別した。カルビニズムのような政教一致論をとらなかった。


[2] トリエント公会議 Council of Trento(1545-63)

 トリエントは地名で、英語読みならトレント。宗教改革に対応してなされたカトリック教会の抜本的改革。19世紀のバチカン公会議までのカトリック教会の基本的姿勢を規定した。第二バチカン公会議でさらに改革される。

(1)公会議招集までの経緯
 ルターの95ヶ条の論題は1517年。ルターは公会議開催を要望していたが、カトリック教会は実に18年近く神学上の対応策を放置していた。トリエントはドイツ帝国領内で、カール5世の提案。クレメンス7世は公会議首位主義を警戒し渋っていたが、1532年に皇帝と会見し、公会議開催を約束する。しかし13年過ぎる。パウルス3世は1542年5月22日開催の大勅書を発した。当初マントヴァでの開催を予定していた(ここは教会領、皇帝は口出しできないから当然怒る。結局皇帝領のトリエントになる)。
 トリエント公会議は開始から終了まで実に18年近くかかっている。3会期、25総会がもたれたが、通常、時期的には二段階に別れるらしい。第一段階はカトリックとプロテスタントの和解が追求された段階で、カール5世が主役だ。第二段階は第3会期(1562-63)でピウス4世が中心で、教会改革に力が注がれたという。この公会議の時期には基本的には教会は宗教改革を異端視する傾向があったが、現在は宗教改革からは学ぶべき点があるとしてその評価を変化させている(注3)。

(2)第一会期(1545-49) 8総会25会議が開かれたという。第3総会ではニケア・コンスタンティノポリス信条が確認され、第4総会では聖書と聖伝についての教令が出され、聖書のみは異端とされ、ヴァルガダ訳聖書が認められる。第5総会で原罪についての教令、第6総会では義化についての教令がだされる。第7総会では秘跡についての教令がだされ、七つの秘跡が確定し、「事効性」(エクス・オペレ・オベラート 注4)が確認される。また、司教の教区在住という義務を中心とした教会改革がなされる。やがてチフスの流行を理由に開催地をボローニャに移すがカール5世は激怒する。ボローニャは教皇領だったからだ。やがて第一会議は中断される。

(3)第二会期(1551-52)第9~14総会。第13総会では聖体についての教令が出され、聖変化の実体変化が確認される。第14総会ではゆるしの秘跡と病者の塗油についての教令が出されるが、ザクセン大公の襲撃のため会議は中断される。中断は10年におよぶ。

(4)第3会期 教会改革が中心となる。第21総会では両形態の聖体拝領と幼児の聖体拝領についての教令が決まる。両形態聖体拝領は先送りされ、第二バチカン公会議で承認される。私見では、現在でも葡萄酒については不安定、不確定のままのように思える。第22総会ではミサの犠牲についての教令で、母国語のミサは否定される(注5)。また、教皇と司教の関係についての問題も討議されるが、決着はつかなかったようだ(注6)。第23総会は叙階、結婚の秘跡についての教令が出された。最後の第25総会では、3つの懸案を急遽解決するとともに(注7)、修道会の大々的な改革が行われた(注8)。

(5)トリエント公会議の評価
①プロテスタントとの再合同は実現できなかった ②教皇首位権については決着がつかなかった ③カトリックの教理の再確認がなされた ④優れた教皇、司教(カルロ・ボロメオは著名)、イエズス会やカルメル会など修道会の努力により教会の悪弊を除去し、宣教に乗り出す ⑤聖伝、原罪、義化、秘跡、ミサなどの教理に就いての宣言は歴史的な業績。だが限界も明らかだった。プロテスタントのなかの正しい要素に無理解だったし、教理でも、聖霊論・恩恵論・教会論・神の民論などの整理は不十分で、第二バチカン公会議まで待たねばならなかった。

[3]トリエント公会議後の教会の刷新と反宗教改革

(1)公会議後の教会 その後の教皇はトリエント公会議の決議をすべて積極的に全教会規模で実行し、教皇庁自体と、教会全体の改革に成功した。優れた高位聖職者と修道会の努力で教皇庁の尊厳は回復された。
(2)ピウス4世とカルロ・ボロメオ ピウス4世(1560-65)は枢機卿による委員会を設置(この制度は現在まで続いている)、禁書目録の改訂(異端審問の強化)、神学校を創設。カルロ・ボロメオは質素な生活を送った枢機卿として著名。ボロメオ家は現在まで続いているようだ。
(3)改革教皇ピウス5世(1566-72) ドミニコ会士。プロテスタントに奪われた地方や教区を政治的・軍事的に奪回した。
(4)教皇グレゴリゥス13世(1572-85) 優れた法律家で教会法を改訂。グレゴリゥス歴を制定した(以前はユリゥス歴)。
(5)教皇シクシトゥス5世(1585-90) フランシスコ会士。教皇庁に15聖省創設(9省は現存)。枢機卿を70名に確定(ヨハネ23世まで維持される)。
(6) ペトロ・カニジウスとイエズス会教育制度 イエズス会士のペトロ・カニジウスはイグナチオによりドイツに派遣された。日本に派遣されたザビエルと同じだ。9つの神学院を設立し、スイスをふくむドイツ語圏のカトリックを復興させる。イエズス会の功績は教育面で大きく、16世紀のヨーロッパのカトリックの男子高等教育はほとんどイエズス会の学校だった。
(7)積極的反撃 バイエルンではバイエルン大公アルブレヒト5世(ヴィッテルスバッハ家)のカトリック政策で反宗教改革が始まる。オーストリアではハプスブルグ家が、一時プロテスタントの牙城であったオーストリアでカール大公を追放して、カトリック政策を進める。
(8)スイスの情勢 スイスはカルロ・ボロメオが関心を持ち、積極的に奪回を図る。
(9)フランスとベルギー フランスはドイツとは異なり、司教に権限がなく、統一国家勢力(国王)が全権を握っていた。ユグノーは弾圧される。ベルギーは宗教戦争で引き裂かれていたが、賢明な司教たちの努力でカトリックがマジョリティーの国となる。

 以上が今日の報告の要約である。碩学のS氏の報告は詳細をきわめた。話は、氏が詳しいドイツ中心であり、また、少し護教的なところもあったが、興味深い逸話がいくつか紹介され、学ぶところが多かった。

注1 カテキスタである報告者のS氏は Kontrareformationen という言葉を使っていた。Kontra という言葉がどれだけ一般的かは私にはわからない。
注2 唯名論とは普遍論争で実在論(トマス・アクイナスやドウンス・スコトゥスら)に対抗して登場した立場。 普遍(類とか種のこと 普遍・特殊・個別の普遍のこと 例えば犬一般とジョンという名前の犬との違い)は「言語」で、実在しないというのが唯名論。唯名論を前期・後期とわけるならオッカムにならって「概念」の話になる。
注3 もちろん、第二バチカン公会議に否定的な態度をとり、第一バチカン公会議に戻りたい、さらにはトリエント公会議にまで戻りたいと主張する勢力が教会内に存在することを無視しているわけではない。
注4 事効性とは、秘跡は言葉とわざによるのであり、人に依存しないということ。例えば、罪を犯した司祭による秘跡も有効だという考え方。「人効性」とは反対の概念。
注5 第二バチカン公会議で母国語ミサが確定する。だが、現在でもラテン語ミサに固執する人は多い。現在のイスラム教ではクルアーンの自国語翻訳は許されないようだし、仏教でもサンスクリットでのみお経を唱える宗派が多いという。母国語ミサがいかに革命的な出来事かはもっと注目されても良い。
注6 司教の権限は神から与えられるのか、そてとも教皇から与えられるのか、という問題。教皇は司教のひとりなのか、それとも上位なのか、ともいえる。教皇至上主義と公会議至上主義の対立にもつながる論点。現在は教皇優位に傾いている時代だろうが、結局は神学的には決着のつかない論点で、社会情勢に依存する対立なのかもしれない。
注7 教会の免償権・煉獄の存在(諸聖人の通功)・聖人の崇敬という教理
注8 例えば修道者以外の修道院院長就任の禁止とか、内縁関係を持つ修道者の処罰とか、質素な生き方の奨励など。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする