カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

『愛と英知の道-霊性神学-』(4)(神学講座)

2017-12-11 10:14:49 | 神学

 ブログ村のおかげだろうか、お読みいただいている方が思いがけず多いことに戸惑っている。ブログとは不思議なもので、多くの方に読んでいただきたいという思いと、私見の入った要約をご披露するのは気恥ずかしいという気持ちとが併存している。
 いよいよ第二部「対話」に入る。ここは4章から成る。基本的に、第一部で見てきた伝統的な神秘神学では現代社会の諸問題に対応しきれない、という批判的スタンスが根底にある。

第7章 科学と神秘神学

 宗教(キリスト教)と(自然)科学は両立できない、というのが日本の社会科教科書執筆者の暗黙の了解で、このため宗教は古くて悪いもの、科学は新しくてよいもの、という思考様式が戦後日本を支配している。世俗化した現代日本では、自然宗教は大事にしても啓示宗教は根づかない。ハロウィンやクリスマスは受け入れられているのにキリスト教が土着化できない理由のひとつは、この宗教と科学は対立するという考え方のせいではないだろうか。
 本章ではジョンストン師は、T・シャルダン(1881-1955)とB・ロナガン(1904-84)の二人を通して、キリスト教の(自然)科学観を検討し、両者が両立しうる神学的基盤を明らかにする。
  シャルダンは日本でも良く読まれ、ファンも多い。イエズス会士で、科学と宗教の対話を強調した神秘家だ。第二バチカン公会議前後に科学と宗教の対話の必要性を訴えた彼の功績をジョンストン師は高く評価しているようだ。公会議直後の都内各大学のカト研でもシャルダンを読書会で読んでいる部員がたくさんいたようだ。シャルダンは科学や宇宙の進歩を信じた。さらには、「人格神や精霊への信仰を失うことがあっても、宇宙世界は断固として信じ続ける」(175頁)とまで言っているようだ。つまり、かれの宇宙論は汎神論に無限に近く、批判する人も多いが、与えた影響力は大きかったようだ。

 さて、ロナガンである。アイルランド系カナダ人のイエズス会司祭。T・マートンとならんで、ジョンストン師に大きな影響を与えた神学者である。ともに友人でもあったようだ。ジョンストン師はロナガンが『洞察』や『神学の方法』で、科学は方法論に特徴があることを明らかにしたことを評価する。実験と検証だ。近代科学は経験科学だからデータを分析する。だがこの科学的方法を使って神へ赴くことはできないと主張した。神にたどり着くには別の途が必要だと考えていたようだ。ジョンストン師は、ロナガンの考え方に大きな影響を受けながらも、この後半の主張には反駁する。ロナガンは「科学的方法から愛と恩恵を除外し」ていると批判する。ニュートン、アインシュタイン、ボーアなど科学的探求をするうちに神の手に導かれていった人は多いというのがジョンストン師の主張だ。信仰を持つ科学者も増えている。
 ロナガンがジョンストン師に与えた影響は2点ある。ひとつはその「超越的方法」であり、もう一つは「Being-in-love」(愛の内にある存在としての人間)という考え方だ。ロナガンは、経験的・実証的方法では神にたどり着けないから、別の道が必要だ。それは自己超越の道、愛の道で、「超越的方法」と呼んだ。
 この方法は三つの教訓を含むという。

①注意深くあれ Be attentive
②知的であれ Be intelligent
③道理をわきまえよ Be reasonable
④責任をもて Be responsible

自己超越は知的で合理的であるだけではなく、道徳的で倫理的でなければならないという。抽象的表現だが、ジョンストン師の次の言葉はかれの本音がぽろりと出たものかもしれない。「例えば、原子力を扱う科学者は、自分の研究がどのように利用されるかに関心を寄せねばなりません」(180頁)。ジョンストン師の念頭にあるのは「原爆の父」V.ハイゼルベルグらしく、「自然界は不確定か」 (原文は Can nature be so absurd),
 そうではあるまい、と神秘家の道に導かれたようだ(172頁)。

 Being-in-love とは「神と恋に落ちる」という意味だ。神との恋愛、神が恋人とはなんのことか。ロナガンは言う。「愛はすべて自己放棄であるが、神と恋に落ちるのは、制約も資格も条件も留保もなしに愛のうちにあることである」(182頁)。ロナガンはトマス・アクイナスの恩恵論、認識論に革命的解釈を施して、第二バチカン公会議に大きな貢献をしたと評価されることが多いが、ジョンストン師はむしろ神秘神学への貢献こそ重要だったと言いたいようだ。この「愛」は抽象的な愛ではない。「男と女が愛し合っても、包み隠さず愛を告白しなければ、まだ愛し合っているとは言えない。ただ黙っているなら、二人の愛は自己放棄や自己献身の境地にまだ達していないということである」(183頁)。リアルな表現である。事実、マートンにもジョンストン師にも心を寄せる女性がいたらしい。

 つまり、ジョンストン師は、科学者は実験的な方法に従いながら真理を探究し、同時に、超越的な方法で真理を探究している。かれらは「愛のうちにある存在」となった。神秘神学はこの実験的方法と超越的方法を統合する途だと言っているわけだ。師はニュートンとアインシュタインの二人を検討しながら、科学と宗教が対立しないことを説明していく。そして、「未来の神秘神学は、科学者を無視することはできません」と本章を結んでいる。
 だが、一つ根本的な問題が残る。アインシュタインは「宇宙の合理性への深い確信」を抱いていた。宗教的感情をもっていた。だがかれは「人格神」という概念は否定していたという。こういう宇宙と神を同一視する思想を汎神論と呼ぶなら、これは汎神論ではないのか。ジョンストン師はなんと答えるのだろうか。


第8章 修徳主義とアジア

 本章は、神秘神学がアジアの神秘主義、特に禅から学ぶことが多いと主張する。本章のタイトルは修徳主義となっているが、原題は Aseticism and Asia だ。修徳とは askesis のことで、鍛錬とか訓練のことを意味するらしいが、たんなる肉体的鍛練ではなく、霊的に精進する、向上するという意味を持つ。このため、カトリックでは、日本語では、禁欲ではなく、修徳というよい訳語が与えられているようだ(注1)。
 まず、「修行」の意義が問われる。祈りと修行は切り離せない。修行はacetical practiceの訳だが、イグナチオ・ロヨラの「霊操」でも、修徳的実践、つまり、祈りの方法や、姿勢、呼吸法について述べられているという。ここでは神秘神学と修徳神学は区別され、前者は神からの賜物である霊魂の内的生活のことを指し、後者は、人間側からの努力をさす。いわば上からの賜物と下からの祈りともいえようか。そして20世紀に入って神秘神学は修徳神学に取って代わられた。中世の鞭打ちの苦行などは現代では意味を持たなくなった。だが、神秘的祈りを求める人はいつの時代にもいる。修徳神学に飽き足らない人々がアジアの実践的瞑想法に目を向け始めた。
 東洋の修徳的(禁欲的)伝統は、一方では「道」の世界では「行」として発達した(茶道・書道・柔道・剣道などの道、原書では ways)。他方、宗教のなかでは「修行」として発達した(原書では漢字で修行という文字がそのまま使われている もちろん shugyouと訳してもいる)。修行には三つの形態がある。①身体の鍛錬 ②呼吸の鍛錬 ③心の鍛錬。
 まず、身体の鍛錬では、「気」(中国ではchi)というエネルギーが流れる「経路」(meridians)、源である「肚 はら」と「丹田 たんでん」(臍下5センチくらい)などが説明される。武道でも瞑想でも丹田に気づき、意識を集中させることが大事なのだという。そのためには姿勢が大事で、「正座」の意味が説明される(訳者はさらに、結跏趺坐とか只管打坐などの用語を使って意訳しているのはすばらしい)。
 呼吸の鍛錬では腹式呼吸、丹田呼吸が説明される。「丹田呼吸は心身の調和をもたらし、宇宙全体と調和させ」るのだという(200頁)。
 心の鍛錬では、日本語の「精神統一」を「無心」や「無我」という言葉を使って説明する(注2)。気が散っても(distractions)、雑念とは戦わず、なるがままにする、しかし丹田には力を入れておく、のだそうです。こういう説明は、ジョンストン師は座禅を何十年とやってきましたから、力が入っています。わたしはこういう世界は不案内なので、学ぶことが多かった。
 修行には「道」と同じく身体・呼吸・心の鍛錬が必要だが、修行は宗教的行為、瞑想だからもう一つ信心(信仰)が入ってくる。仏教の修行では、仏陀・ダルマ・サンガという三宝への帰依が唱えられる。
 禅では四弘誓願が唱えられる。四弘誓願(しぐせいがんと読む)は誓いだが、完全に利他的な無私の行だという。

衆生無辺誓願度 (しゅじょう むへん せいがんど)
煩悩無尽誓願断 (ぼんのう むじん せいがんだん)
法門無量誓願学 (ほうもん むりょう せいがんがく)
仏道無上誓願成 (ぶつどう むじょう せいがんじょう)

 意味はなんとなくお分かりいただけるだろう。「数限り無い衆生を悟りの彼岸に渡すことを誓う」「尽きることの無い煩悩を滅することを誓う」「計り知ることのできない仏法の深い教えを学ぶことを誓う」「無上の悟りを成就することを誓う」。仏教は救済宗教ではないと言われることが多いが、ジョンストン師は仏教は救いの宗教だと断言している。
 この禅とキリスト教の観想を、第二バチカン公会議以前に、戦前から、すでに同時に実践していたイエズス会司祭がいた。日本での「禅キリスト教」の頂点に立つ人だ。ラサール師。フーゴ・ラサール(1898-1990)、日本国籍を取って「愛宮真備 えのみやまきび」となる。カト研ではエノミヤ神父さまと呼んでいたが、ラサール師という呼び名のほうが一般的だったのかもしれない。ヨーロッパのアジア的霊性の研究者は、禅やヨガの外面的特徴は取り入れたが、その根底に流れる英知、思想には触れようとしなかった。だが、ラサール師は、「悟り」を探究し、指導した。著書『禅-悟りへの途』は基本的にクリスチャン向けだったので、今でも教会の図書室では見つけられるかもしれない。かれは座禅を神学校にも導入しようとしたが、誰も賛同しなかったという。かれのユニークなところは、「禅」と「禅仏教」を区別したことだ。ラサール師は司祭であり、仏陀やダルマを信仰していたわけではない。だが、座禅はキリスト教だけではなく、ユダヤ教にもイスラム教にも統合できると考えていた。ラサール師を深く尊敬するジョンストン師は師の禅と禅仏教の区別を丁寧に説明していく。
 だが、こういうアプローチは教会からも仏教界からも批判されことが多かった。特に仏教側からの批判が強かったようだ。禅を仏教から切り離すことはできない、ラサールの禅は外道禅だ、というものです。現在はこういう批判はさすが減ってきているようだが消えることはなさそうだ。
 キリスト教ではむしろ禅と対話し、禅から学ぶ人が増えているという。20世紀には、伝統的な修徳神学は挫折した。だが21世紀に入り、新しい祈り方や新しい心身の鍛錬方法を模索するクリスチャンが増えている。十字架の聖ヨハネの神秘主義でもなく、白隠禅師の神秘主義でもない、新しい神秘主義が誕生しようとしているという。ジョンストン師はそれを「第三の方法」(teritum quid, a third way)と呼ぶ。師は例として、マインドフルネス(精神統一とでも訳せるか)、禅、ヨガ、マントラ、ヴィパッサナー瞑想をあげている。しかも昔はニュー・エイジ運動もその一つと考えていたようだ(注3)。ジョンストン師はこれらをそのまま神秘主義的祈りとはよべないが、「神秘主義へ通じる入り口となります」(211頁)と述べている。
 そして、以上見てきたような現代の神秘主義に向かう動きは、第二バチカン公会議の精神を活かす神学的意義を持っていると述べて、本章を結んでいる。

 注1 英語にはうまい訳語がないからasceticismだが、日本語でこれを禁欲と訳してしまうとおかしなことになる。日本語では禁欲というと何かを我慢するというニュアンスが強いが、元々は欲望を制御・統制して聖なるものを自分の中に取り入れるという意味だ。禁欲という訳語ではこのニュアンスがなかなか出てこない。M・ウエーバーのいう「世俗内禁欲」という概念は、この神との神秘的一体化が世俗に向かうことを意味する。修徳は霊性を強調する場合はよい訳だ。
注2 英文の原書の中では漢字を表記しながら説明される。ジョンストン師の日本語はそれほどでもなく、ましてや漢字は得意ではなかったが、英語の単語ではその意味が説明しきれないとわかっていたようだ。もちろん『沈黙』(遠藤周作)の英訳者だから、並の日本語力ではない。
注3 ニュー・エイジは70年代・80年代にはやったヒッピーから聖霊復興運動までさまざまなものを含む運動。現在のスピリチュアルにつながり、運動そのものは消滅していないが、教会は結局は認めていない(『ニューエイジについてのキリスト教的考察』2007)。現在、その評価はほぼ決着がついたといってよいだろう。


第9章 神秘主義と根源的エネルギー

 第9章はエネルギー論である。ジョンストン師が好んだテーマだ。だが、エネルギーってキリスト教と何の関係があるの、というのが第一印象だろう。ここでいうエネルギーは物理的エネルギーではなく、神秘的エネルギーだ(といっても心霊的なものpsychicは含まない)。エネルギー論は神秘主義神学を構成する重要な柱になるというのがジョンストン師の考えだ。人間的でかつ神聖なエネルギーはわれわれを健康と英知へと導いてくれるというのが、アジアの神秘主義の伝統であり、キリスト教はそれを学びつつある。キリスト教でも、新約聖書で聖霊とか異言とかで表現されていたもの、東方教会では「光と火の体験」とか「造られざるエネルゲイア」などと呼ばれていたものを、師は「根源的エネルギー」(vital energy)と呼ぶ。ジョンストン師は本章で、神秘神学のエネルギー論を構成するために、シャーマヌズム・仏教・ヒンズー教・キリスト教におけるエネルギーのとらえ方を比較・検討するする。難しい議論が続くが、ジョンストン師のアジア理解の深さがよくわかる章である。

 まず、シャーマニズムが論じられる。シャーマニズムは世界中に見られるが、厳密なシャーマニズムはシベリアや中央アジアにみられる。シャーマンは「脱魂の技法」(technique of ecstasy)を持つ者であり、トランス状態になると死者や悪魔や精霊(聖霊ではない)と交信できる特別な存在である(注1)。シャーマニズムから生まれたものに、すでにふれた「気」とか中国の「chi」とよばれる精神的なエネルギーがある。このエネルギーは漢方医学や「道」(武士道など)や東洋的瞑想(座禅など)の中核をなしている。姿勢や呼吸の仕方を鍛錬してこのエネルギーの制御するが、うまく制御できないと精神衰弱など身体に害を及ぼすことが知られている。


 次に、禅におけるエネルギー論は、白隠禅師(1685-17699 臨済宗の中興の祖)のなかによく現れているという。白隠が言った「足心と気海丹田」という言葉は聞かれたことがあるでしょうか。白隠は「禅病」にかかる。座禅修行をやり過ぎたためだ。そのため「気」(エネルギー)が身体の上部に上がってしまったのだ。これを治すには、身体の上部をほどよく冷やすために、「心火」(エネルギー)を「丹田」(臍のこと)および「足心」(土踏まずのこと)まで降下させねばならない。その方法は「軟酥の法」と呼ばれるらしい(なんそと読む the butter method が原文だがバター状の乳製品を頭上に置いておくイメージだという)。そうすると気が全身をめぐるという。この霊的エネルギーを伝授するための「公案」が「隻手の音声」(せきしゅのおんじょう)といわれるものだ。つまり、「片手で音を鳴らせ」、という公案だ。ジョンストン師は白隠がよほど気に入っているらしく、原書の中では、「隻手」は漢字でそのまま表記して説明している。

 つぎに「クンダリーニ・ヨガ」が検討される。Kundalini,つまり、ラヤ・ヨガのことだ。ヨガにはさまざまは種類があるようだが、ジョンストン師はラヤ・ヨガのエネルギー論をとりあげる。ヨガは、バラモン教・ヒンズー教・仏教で発達したようだが、一応ここではヒンズー教のクンダリーニのことを考える。ヒンズー教では人間の身体を3層(肉体・幽体・霊体)(または7層)から考え、幽体のなかに回路があってエネルギーが流れていて、その流れはチャクラ(輪)がコントロールしている。このエネルギーをクンダリーニと呼ぶようだ。クンダリーニは障害物にぶつかると苦しみが生まれ、頭頂部に達すれば新たな力と英知を得られるという。私はヨガは体験したことがないのでわからないが、幽体の問題は神秘体験と呼んでもよいようだ。だが、ジョンストン師はあくまでクンダリーニはモデルであり、仮説であると言っている。クンダリーニ研究は現在急速に進んでいるようで、クリスチャンの中にはクンダリーニとキリスト教的霊性の統合を試みる人も生まれているという。カト研の皆さんの中にもヨガを実践し、技法に詳しい方がおられることであろう。

注1 シャーマニズム shamanism は、宗教学では、脱魂で特徴付けるか、憑依で特徴付けるかで、議論が分かれてくるようだ。憑依も含ませるならば、旧約聖書の預言者や新興宗教の予言者も含まれてくる。社会学で言えば、集合表象(トーテムとか)や機能(社会的統合など)が議論の対象になる。


第10章 英知と「空」

 本章は、仏教の「空」の思想とキリスト教の「英知」の思想(全と無)は通ずるところがあり、双方の神秘主義が共通の基盤を持っていることを明らかにする。具体的には、「般若心経」と「観世音(菩薩)」の思想が説明され、ついで、十字架の聖ヨハネに「空」の思想がある(暗闇論)ことが強調される。仏教の説明はおもに阿部正雄と西谷啓治に依拠しているようだ(注1)。

 キリスト教の否定神学の伝統には「虚空」や「無」は英知の頂点であるという思想がある。無は全、暗闇は光、虚空は充満、という逆説的な考えだ。実は仏教にも似たような教義があるという。それは 般若波羅蜜多 (ブラジュニヤー・パーラミター prajna paramita)とよばれる38の文書で、紀元前100年から紀元後600年にかけてインドで編纂されたという。サンスクリット語で、プラジュニヤーは知恵、パーラミターは完全とか超越を意味するらしく、ブラジュニヤー・パーラミターとは救済へ導く知恵のことだという。しかも、この知恵には形がなく、おぼろげで、「空」なのだという。この空は、サンスクリット語のスニャータの訳で、英語では emptiness, 漢訳では空とか無になるという。つまり、空は仏教の知恵の特徴で、暗闇がキリスト教(否定神学)の英知(知恵)の特徴であるのと同じだという。ここから仏教における知恵の概念についての詳しい説明が始まる。

 まず、般若心経(はんにゃしんぎょう しんきょうではなく濁って発音する)は4世紀頃作られた短い経文だが、空における知恵への賛歌だという。般若心経は今でも中国・日本・チベット・モンゴルで唱えられている。原典はサンスクリット語で読誦も力強く、グレゴリオ聖歌に似ている。般若心経はジョンストン師は本書の付録としてThe Heart Sutraとしてそのまま英訳を載せている。日本でも最近は真言宗などは法事の際に般若心経のコピーを配って、一緒に唱えさせることが多いので、なじみ深い人も多いだろう(注2)。といっても梵語だから意味は前もって勉強しておかないとわからない。ネットで訳文も読経も聞くことができるが、念のため中村元訳の出だしをみておこう。

全知者である覚った人に礼したてまつる。
求道者にして聖なる観音は、深遠な知恵の完成を実践していた時に、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いていたのであった。

 この訳では「かれ」になっているが、アヴァロキテシュヴァラは男性でもあり、女性でもあり、「慈悲の菩薩」、観世音菩薩だという。
 師は次に 観世音 の説明に入る。英語で Kannon と書き、漢字そのものとイメージ(写真)をそのまま載せている(念のため文末に転載する)。観世音は文字通り、世の中全体の音に耳を傾ける。つまり、「悟りに達すれば、人は完全なる、<空>へと導く慈悲(compassion)を抱くようになる」のだという。観音は何も活動しない。ただ耳を傾けるだけで、「人々を悟りの彼岸に渡す」のだという(246頁)。
 悟りはenlightenmentと訳されている。観音は知恵を求めて深い瞑想に入り、五蘊(ごうん 注3)も空であり、観音の目は<無>という虚空にじっと注がれている。これを悟りという。師は悟りの意味を次の経文で説明する。

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
(しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき)

 舎利子とは釈迦の十大弟子のひとりで、釈迦が語りかける相手のこと。<色>は形で、空とは正反対のものだが、同じものだという。矛盾した理解であるが、これが般若心経の真髄なのだ。観音は空を見つめてそこに形を見る。空は形であり、形は空である。ならばダルマ(宇宙の法則)も空であり、四諦(四聖諦 注4)も否定される。観音の悟りとは、知性を使わず、坐して瞑想し、自我を放棄し、真言のなかに宇宙的自己を見いだす。般若心経の最後の文章が悟りを説明しているという。

往ける者よ、往ける者よ、
彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、
さとりよ、幸いあれ

 ジョンストン師は、仏教のこういう空の観念は、キリスト教の中にも見いだせるという。師は阿部正雄の「神の自己無化」論を紹介する。無化はキリスト教では<ケノーシス>(kenosis)とよばれる。フィリポの信徒への手紙が検討される。阿部正雄は、仏教のスニャータ(空)とキリスト教のケノーシス(無化)は、お互いの独自性を排除することなく、共通の基盤を持っているという。師は、阿倍のこういう説明に対するカトリック側からの批判、H・キュンクの批判を紹介する。「神は無化」であるという阿倍の理解はあまりにも行き過ぎだという批判だ。だが、師はこういう批判を意に介さない。師は次に十字架の聖ヨハネの<空>の観念を検討することで、阿倍の議論に近づいていく。
 聖ヨハネは<ナダ>論を展開する。聖ヨハネは「ナダの博士」とよばれ、進む道は暗闇の道、無の道だが、ゴールは<全>(all)だという。「無、無、無。そして頂上にたどりついても、無」、と言って、持ち物すべてを、物質的・非物質的な持ち物すべてを、捨て去る(ルカ14・33)。

 でも私は思わなくもない。、本当に「神は無である」といってよいのだろうか。三位一体の神はペルソナだ。では、空や無はペルソナなのだろうか。
 ジョンストン師はこういう疑問や批判は百も承知である。十字架の聖ヨハネの『霊の賛歌』にある言葉、神ご自身は「円形とか球形で示される。神には初めも終わりもないのだから」を取り上げ、自説を展開する。文中に丸い円の形を大きく書く。そして言う。「円は神の象徴であり、無の象徴です。全と無 todo y nada の象徴です」(263頁)。つまり、師の結論は明解である。「仏教徒とキリスト教徒は手を携えて、超越的な英知へと互いに導きあうことができるのではないでしょうか」。 ジョンストン師の神秘神学の高らかな宣言である。だが当然批判が来る。師はこの批判に応えていかなければならない。第三部の課題である。

注1 阿部正雄は『禅と西洋思想』(1985 英文)、西谷啓治は『宗教とは何か』(1961)の英語訳(1982)を参照している。二人とも研究途上で思想的変化が見られるらしく、このジョンストン師の理解の妥当性は哲学史の専門家に任せるしかない。
注2 教会の葬儀でも式次第と一緒に「主の祈り」のコピーを参加者に配ったらどうかと思うが、どうだろう。
注3 人間を構成する要素のこと。色(しき)(=肉体)・受(=感覚)・想(=想像)・行(ぎょう)(=心の作用)・識(=意識)の五つ。
注4 四諦とは四つの真理のこと。苦諦、集諦、滅諦、道諦のこと。

 

            

 

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