カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

「集会祭儀」とは何か

2017-10-22 16:50:05 | 神学

 以下はカトリック教会の教区のなかの全くローカルな話題です。カト研の皆さんの中には一粒会で活躍なさっている方も多いと思いますが、特に宣教活動などに関わっておられない方にはあまり興味の湧かない話題でしょうから、読み飛ばしていただいて結構です。
 10月21日の土曜日、台風のなか「地区共同宣教司牧委員会」主催の研修会が開かれた。こういう宣教とか司牧とかあまり考えたことがなかったので、勉強のためと思って出席してみました。どうもカテキスタの方々向けの研修会のようで、大雨にもかかわらず30名くらいの方が来ておられました。研修会のテーマは「横浜教区の三部門を考える」と題され、講師はY教会のF神父様で、神奈川第四地区共同宣教司牧の第三部門の担当司祭とのことです。こういう責任ある神父様が宣教についてどのように考えておられるのか知りたくて出てみました。
 宣教といっても、キリスト教信徒数が日本の総人口のわずか1パーセント内外という現状で、どうしたら信徒を増やすことができるか、という話なのか。自分たちはマイノリティだという話なのか。それとも、日本文化におけるキリスト教の影響力は大きく、福音を伝える素地は十分あるという話なのか。たとえば、現代日本人の10%くらいは何らかのかたちでキリスト教系の学校を卒業しているという。聖書は常にベストセラーで上位から落ちることはないという。近代日本の思想や文学はキリスト教ぬきには語れないだろう。日本文化の中でキリスト教はマイノリティではないという話なのか。日本の司祭たちはどちらの側面に目を向けて宣教を考えているのだろうか、というのが私の素朴な疑問というか関心事だった。

 横浜教区には2007年から地区共同宣教司牧委員会に三つの部門が設置され、活動しているという。①祈る力を育てる部門 ②信仰を伝える力を育てる部門 ③神の愛を証する力を育てる部門。F神父様はこの各部門を順番に説明された。細かい話は別として、ポイントだけをふれてみる。
 ①の「祈る力」部門は、司祭不在の小教区が増えているので「ミサのない主日の集会祭儀」を開けるように、「司式者」と「奉仕者」を養成する部門のようだ。もちろん司祭がいないときの葬儀の執り行いとか震災時の集会のしかたとかも含まれるが、もっとも大事なのは主日の集会祭儀だろう。②の「信仰を伝える力」部門は、従来の教会学校、中高生会、キリスト教入門講座などは行き詰まっているので、新しい途を考えねばならないとしていろいろ話された。内容はもっともな話もあったが、私としては疑問に感じる話がいくつかあり、あとで少しふれてみたい。③「神の愛を明かしする力」部門では、地元自治体での市民活動に積極的に参加することが強調された。福祉活動はもちろん大事だが、たとえば市民祭りなどへの協力が求められるという。この部門が設置された10年、20年前には、「野宿者への支援、対日外国人への関わり」(変な表現だが、2007年4月8日付の司教教書で使われている)、青少年活動の強化、環境問題への取り組み、の4点が挙げられていたが、社会状況が変わったので現在は力点が変わってきているという話であった。
 どれも興味深い話で、カテキスタの方々のご苦労が思いやられる話題が多かった。私には個人的には三つの点が印象に残った。

 第一点は、集会祭儀の話だ。司祭がいれば主日のミサがあげられるわけだが、司祭がいない場合主日に集まった信徒はどうしたらよいのか。そもそも聖体拝領はどうなるのか。私は集会祭儀は話としては聞いていたが、実際に参加したことはないのでイメージがわかない。キリスト教2000年の長い歴史のスパンで考えれば司祭のいない教会や集会は多かったであろう。日本で言えばキリシタン弾圧の歴史が思い起こされる。だが現在は司祭不足は本当に深刻なようだ。日本では信者数に比べると小教区(教会)の数が多すぎるという議論もあるようだが、司祭不足で集会祭儀が実際に行われているところもあるようだ。ではどういう風におこなうのか。そもそも聖体拝領をどうするのか。F神父様は主日のミサと集会祭儀の「比較表」を使って説明された。基本的には流れとしても(時間的にも)あまり違いはないようだが、それでも集会祭儀では感謝の祈り(叙唱・賛歌・奉献文)と聖体拝領がない。聖体拝領ができないのは困るので、実際には聖変化をすませたパンを「聖体奉仕者」が配る、というケースが多く、聖体拝領なしの集会祭儀は少ないらしい。問題は誰が「司式者」「奉仕者」で、どういう資格が必要なのか、司教の任命なのだろうがいつどのようにするのか、など細かい説明はなかった。カテキスタやシスターたちの仕事になってくるのだろうか。ミサの代わりの集会祭儀が現実のものとなってくるのだと私もなにか時代の変化を感じた。

 第二点は、F神父様が力説しておられた、「教会は神父ではない」説だ。司祭の個性で教会が左右されてはならない。あの神父がいいの、悪いのはよくない。主任司祭が変わるごとに教会のあり方が変わるのは良くない。教会は信徒のものであり、司祭のものではない。なんでも司祭に頼りがちな今の日本の教会の現状はよくない、などなど現状をかなり強い言葉で批判された。もっともなお話である。だから信徒だけで集会祭儀ができるような力をつけなさいということであろう。でも、と私は思う。司祭の人格に、人柄にひかれて、教会に足を踏み入れる人というのはいまでもいるのではないか。その人格や人柄の背後に強い信仰があることに気づいたとき、宣教が始まるのではないか。われわれは無個性な司祭を望んでいるのだろうか。わたしは祈らない司祭をみたくない。

 三点目はF神父様が「信仰を伝える部門」の説明で使われた議論だ。この部門はかっては「侍者のやり方」を学ぶ部門みたいに思われていたがそれは違うという。信徒はいままでの考え方を改めねばならないという。神父様は、「死後の救いのための個人的な罪のゆるし、倫理、道徳が教会教義の中心となってきました・・・・・が、こうした個人的な善・徳・罪・悪・倫理について祈り考えることは、もちろん大事なことですが、その結果として社会の、公の、善・徳・罪・悪・理想について祈り考えることが、なおざりにされてはならない」(『ひびき』2017年438号)、と述べる。つまり、神父様は突然「個人と社会」というディコトミーを使って話し始め、自分のことだけではなく、社会のことに関心を払わなければならない、と強調された。言われていることはもっともなのだが、これが「宣教」の趣旨なのだろうか。「社会」は「善悪罪徳」などの倫理的判断で語るものなのか。「善い社会」という言葉で神父様は何を言いたいのだろう
 。私も社会学者の一人として言えば、せっかく「個人と社会」という問題の立て方をされるのなら、どうして「共同体」論に話を展開しないのか。教会は共同体だといつも言われているのではないだろうか。というよりいまどき「個人と社会」という問題の立て方自体意味をなさないが、なにか特別な意味があるのだろうか。これは社会学の話なのでここで深入りしても致し方ない。神父様は言う。「日本の社会の行方(教育法、憲法の改正など)を考える」ことが大事だという(『教区報54号』)。総選挙の投票日を明日にひかえてこう言われると、「神父様、ちょっと」と思った。

 講演のあと知人と挨拶した。そして神父様の文章を読み返した。「個人の罪や悪だけではなく、社会の罪・矛盾・不条理・不公平にも目をとめ、その被害者と悲しむ者、および、それを正そうとする社会の良心的な目、理性的な働きから、あてにされる教会になりたい」(同上『ひびき』)。文章としてはきれいだ。だが、「(東日本大震災の)福島の被害者に救いの手をさしのべなさい。自分はどうなっても、被害者が喜べばそれでいいではないですか。自分のことはどうなってもいいんです。助けることが大事なのです」と言われた。「善きサマリア人」(ルカ10:30~35)の話を使って強調された。この話のとき私は思った。横浜・鎌倉・逗子などに住み、豊かな生活をしているエリートに支えられた教会が多いところで、本当にこういうメッセージがとどくのだろうか。言葉の綾、比喩ですといわれればそれまでだが、豊かな教会にはそれにあったメッセージが望まれるのではないか。実際の援助活動に熱心に取り組み、エキュメニズム活動で仏教各宗派とも交流のあるF神父様にしてこの言葉を語るのだから、私も考え込んだ。この地域の小教区は社会経済的に見てかなり特殊なのかもしれない。
 そして、少し考えた。司祭はカテキスタを前にするとこういうスタンスで話をするのだろうか。ごミサでの説教ではさすがここまで踏み込んだ話はないだろう。「個人の救済」ではなく「社会に関心」を持て。カテキスタの人たちは私のような一般信徒を前にして、そういうことを言いたいのだろうか。むしろ、普通の信徒は、不安だらけの自分の信仰を強め、深め、後押ししてくれるひとを求めているのではないか。カテキスタにもとめられているのはともに信仰を深める姿勢だ。「個人と社会」という19世紀社会学風の問題の立て方をするから、こういう議論になってしまうのだと思った。若いF神父様の熱意はわかったが、宣教司牧委員会が考えている宣教とは、どうも私が考えていたものとはなにか方向が違うのではないか、という印象を持った。鈴木範久氏は近著『日本キリスト教史』(2017)でこう述べている。「日本のキリスト教は、たとえ信徒の数の増減とは直結しなくとも、日本の文化、社会において、どのように向き合い、どのように関わるか、このことが大きな課題になるといえる」(371頁)。宣教とは単に信徒の数を増やせば良いというものではない。といって、独りよがりの福音を述べ伝え、実践すれば良い、というものでもないだろう。カテキスタの方々が担う課題は大きい。こういう人たちがこれからの教会を豊かにしていってくれるのであろう。

 

コメント
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