増田師の講演の第5節「第二バチカン公会議」は時間切れで省略されてしまった。実はレジュメのこの部分は『カトリック教会論への招き』の第6章からの抜粋で4頁にも及ぶ。ここではレジュメを要約するよりは本の第6章そのものを要約してみたい。
第6章は「第二バチカン公会議ー適応・刷新・対話・混乱」と題され、5節から成る。第1節 公会議招集 第二節 教会論 第三節 変化と転換 第四節 評価 第五節 新たな旅路へ:第二バチカン公会議からの出発、となっている。
序 ここでは増田師は20世紀を「暗黒の世紀」と呼ぶ。教会の教えではなく、理性が人類に幸福をもたらしてくれると信じてきた近代社会が新たな問題に直面して制御不能になってきているという。例えば、人口爆発・食糧問題・環境問題などをあげている。教会の自己理解はすべて歴史的現実と結びついており、現代では第二バチカン公会議が教会の自己理解の規範となっているという。
1節 公会議招集
増田師は、「カトリック・リベラリズムの断罪、第一バチカン公会議での教皇不可謬権の決定、「近代主義」の拒否といった教会の自己防衛時代が19世紀と20世紀前半ばまで続いた」と書き出す。かなり思い切った表現である。増田師の思想的立場性がはっきりとわかる。ヨハネ23世による第二バチカン公会議の招集と、リュバック・コンガール・ラーナー・キュンクらの公会議での役割を高く評価する。つまり、今までの公会議のようにある思想を断罪したり排斥したりするのではなく、また、新しい教義や神学体系を提示するのではなく、「教会とは何か」について徹底的に自己追求行った。歴史上初めての「教会論の公会議」が第二バチカン公会議だったという。
2節 教会論
公会議は16の公文書を交付した(4つの憲章・9つの教令・3つの宣言)。なかでも教会論として最も大事なのは、『教会憲章』と『現代世界憲章』だという。この二つは我々にも容易に手に入るもので、カテキスタの人たちには必須の文書なのであろう。その特徴を増田師は以下のようにまとめている。
①教会の組織 教会は組織としては二つの次元を持つという。信仰共同体と制度だという。具体的には位階制が原理であり、教皇・司教・司祭・信徒・修道者のヒエラルヒーを持っている。
②教会所属 キリストの教会の構成員は誰なのか。誰が教会を作っているのか。第二バチカン公会議以前の回勅『キリストの神秘体』には「キリストの教会はローマ・カトリック教会」と書かれている。プロテスタントや仏教など他宗派、他宗教はキリストの教会に所属しているとは考えられていなかった。第二バチカン公会議は「神の民」という概念を持ち込むことで、カトリック教会以外にもキリストの教会が存在する可能性をカトリック教会として歴史上初めて認めた。考えてみれば、「神の民」とは遠くルターの言葉である。こういっては言い過ぎかもしれないが、キリストの教会はカトリック信者だけの教会ではない、と宣言したのだ。
③信教の自由 驚くべきことにカトリック教会は公会議まで信教の自由を認めていなかった。「公会議直前まで歴代の教皇は唯一の宗教であるキリスト教、唯一のキリストの教会であるローマ・カトリック教会という主張を固持していた」(198頁)。増田師はピオ9世の「誤謬表」の例などをあげている。だが、信教の自由が基本的人権に属し、人格の尊厳に属するという理解が共通理解となり、政教分離の統治原則が多くの国で採用されるに従い、カトリック教会は自らの姿勢を明確に宣言する必要がでてきた。第二バチカン公会議は、「人格が信教の自由に対する権利を持っていることを宣言する」と述べた。高らかな宣言であった。それまでの教皇文書は信教の自由を認めていなかった。だがついにカトリック教会が信教の自由を認めたのだ。これがいかに革命的な宣言であったか、われわれはベルリンの壁崩壊のなかで知ることになる。
④教会の一致 公会議は、カトリック教会以外にも「聖化と真理の要素が数多く見いだされる」とキリスト教他宗派の教会論的価値を認めただけではない。さらに一歩踏み出して教会一致を推進する「エキュメニズム」への積極的姿勢を示したのだ。増田師は、「一致は、片方が相手を吸収することでも合併することでもない。双方が歴史的に培ってきた伝統・規律・習慣や慣例、霊性を尊重した上での<交わりの回復>である」(200頁)と説明する。だが、「諸教理との比較に際しては、それら諸真理の間に秩序すなわち<順位>が存在することを忘れてはならない」とも述べる。「真理に順位がある」、という神学的命題は、「事実はひとつだが真理は複数ある」という哲学の命題と共に、神学と哲学の違いを際ださせてくれる。わたしにはすぐにはピントこないが、カト研の皆さんはいかがでしょうか。
⑤他宗教との関係 第二バチカン公会議の時点では(1960年代前半、日本で言えば安保闘争のあと)、公会議参加者はほとんどキリスト教圏からであり、アジア・アフリカなど非キリスト教圏の問題に光をあてることはできなかった。「ユダヤ教とイスラム教については親近感を示すが、それら以外の伝統的諸宗教に対しては人間本性に普遍的に備わっている宗教性にもとづくものとして、尊敬の念を表明するにとどまる」(201頁)。それほど強い関心をはらってはいなかったということだ。だが、諸宗教との関係は、グローバル化した現代では問題状況がまったく異なる。仏教的環境が支配的な現代日本で、外国人労働者が増大する将来の日本で、われわれカトリックが他宗教とどのような関係を創っていくのかは、第二バチカン公会議の公文書のなか答えを探しても見つからないだろう。これはわれわれの課題だからだ。
3節 変化と転換
ここでは増田師はまとめをかねて以下の三点を強調する。
①教会観が変わった: 「制度としての教会」観から「秘跡としての教会」・「神の民である教会」・「交わりの教会」観への変化。「仕えられる教会」観から「奉仕する教会」・「連帯する教会」観への変化。「完全な社会である教会」観から「旅する教会」観への変化。「永遠不変の教会」観から「たえず刷新される教会」観への変化。
②教会統治: 司教の団体性指導原理が確認される。(つまり、教皇権主義と公会議主義とのせめぎ合いは今でも続いているということ)。
③教会の本質と使命: 「信仰の遺産」に含まれる「諸真理の順位」の識別の必要性と重要性。キリスト教会内にもカトリック教会内にもみられる「多様性の積極的評価」。カトリック教会だけが救いの道ではなく、聖霊による聖化と恵みは教会の外にも働いているという認識。
ここで指摘された三点は議論しだしたらキリの無い論点を含むだろうが、増田師の教会論がよくわかるところである。
最後に師は次のように述べる。これが彼の結論だろう。「450年以上前にルターによって唱えられたテーゼの多くが第二バチカン公会議では受容されている。逆に言えば、ルターによって現代のカトリック教会は活気づけられたというべきであろう・・・それでも一致が難しい問題がある。一つは教皇、つまりペトロ座の理解である。それは位階制の理解とも関係する。さらに、この位階制の中での女性についての立場である。カトリック教会は女性叙階を認めない。しかし、その根拠となるとそれほど明確ではない」。
このあと質疑応答が30分もたれた。質問ではなく自分の意見を繰り返すだけの人もいたが、大方の質問はまじめで、増田師もにこにこしながら答えておられた。秋の日の良き講演会であった。