カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ご復活祭おめでとうございます

2021-04-04 13:30:10 | 神学

 当地は天気にもなんとか恵まれ、春らしいご復活祭を迎えることができました。
といっても、今年も昨年同様分散ミサのままです。私どもの班はたまたま今日の10時のごミサにあたりましたが、出席者は3~40人くらいでした。イースターエッグはおろかごミサ後のパーティーもなく、なんとも気持ちの整理のつかないミサでした。

 

(オーストリア クロスターノイブルク修道院の祭壇画 1331年)


 それでも、神父様のお説教は良かった。普段は聖週間の後はどこの神父様でも疲れ果てていて、復活の主日にはその疲れは頂点に達していてお説教は決まり切ったものになりがちだが、今日の神父様のお説教はよく考えれていたものだった。お説教の中でも、今年はあまり疲れがたまらず、「すがすがしい気持ちでご復活祭を迎えられた」と言っておられた。
 S神父様は「福音川柳」(カトリック川柳)の達人だけあって普段のお説教はちょっとシニカルなトーンの入った独特のものだ。他方、神父様は個展を何度も開かれるほどの「油絵」の達人(一水会)だ。風景画が多いがその視点(視角)は個性的で、絵のトーンはどれもさわやかでサラリとしている。
 今日のお説教はヨハネ福音書20・1-9の解説で、「復活」の説明であった。いつものシニカルなトーンは消えて、サラリとした、絵のようなお話であった。神父様によると、聖書に出てくる復活の話はなかなか信じがたい。復活は蘇生でもないし、生き返りでもないことは頭ではわかっているがなかなか信じがたい。それでも心の片隅で復活を信じている自分に気づく。復活を信じるとはそういう信仰に希望を持つことではないだろうか。復活を信じなければ、今日互いに「おめでとうございます」と言い合うことはない。みなさん、ご復活おめでとうございます。
 という具合で良いお説教であった。ロナの話ばかりで憂鬱な毎日だが、こういう時こそ信仰の深さと強さが試されているのかもしれない。

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