カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

入門講座で何を学ぶのか(2)ー入信式の流れ

2020-05-26 10:48:49 | 教会


 やっと緊急事態宣言が解除された。これで公開ミサも視野に入ってきた。「三位一体の主日」くらいからは聖体拝領したいものだ。

3 入門講座と入信式

 考えてみると、われわれのカト研も入門講座のようなものだったのかもしれない。第二バチカン公会議以前だから入信準備のための儀式は
まだ制度化されていなかったと思われる(1)。入門講座という名称もなかった気がする。カト研では、信者も、まだ洗礼を受けていない
人も、一緒に部活動をしていた。部活動は「指導司祭」のもと、聖書の勉強が中心だった。やがて洗礼を受ける人もいた。召し出しがあって
司祭の道を選ぶ人も何人もいた。すでに神学部や哲学科に所属している年長の先輩たちもいた。なにか雑多な集まりであったとも言える。
「カトリック研究会」といっても、カトリックを宗教社会学のように「研究」するのではなく、カトリックに「入門」するための部活動
という性格が強かったと思う(2)。

 第二バチカン公会議のあと、カトリック入信の儀式が制度化されたようだ。『成人のキリスト教入信式』(カトリック中央協議会)だ。
それによると、受洗(入信)には、3つの「儀式」(段階)と4つの「期間」があるという。

3つの儀式(段階)とは、

①入門式
②洗礼志願式
③入信の秘跡(洗礼、堅信、聖体)

4つの期間とは、

①求道期前(福音の告知)
②求道期(入信準備期)
③洗礼準備期(狭義の入門講座)
④入信の秘跡直後の期間


 (入信の3段階)

 

 つまり、求道者のための入門講座は、この入門式、洗礼志願式、洗礼式をカバーするようだ。式といっても、入門式は皆の前で
挨拶する程度、洗礼志願式は、個別に小教区ごとになされるか、最近のように共同志願式で複数の教会の求道者が一堂に会して
おこなわれるようだ。

 洗礼式はミサの中でおこなわれることが多いようだ(3)。最近はこういう形式をきちんと踏む傾向が強くなってきている印象が強い。
洗礼を受けるのは大変なことだと改めて思う。

4 誰が入門講座を開くのか

 入門講座で教えているのは誰なのだろう。神父や牧師は当然仕事の一つになっているのだろう。カトリック教会では実際には信徒が
カテキスタ(4)として講師役を務めていることが多いらしい。カテキスタは人格高潔・博学宏遠の長老格の人がなるらしく、
信徒の鏡として敬われる人が多いようだ。かならずしも年配者とは限らないようだ。知識よりは人格が問われるらしい(5)。
 

(カテキスタ認定証)

 

 入門講座を要理教師が担当するというのがルール化されているのかどうか私にはわからない。要理教師には1級、2級と資格の階級が
ある司教区もあるようなので、おそらくルール化されているのであろう。この資格は、カテキスタ養成講座とか信仰養成講座とかの名称の
講座で勉強した上で司教から与えられるらしい。これらの講座が開催される教会は限定されているようで、しかも小教区の主任司祭の
推薦がないと受講できないという。しかもこの資格には有効期間の限定があるようで、大学の卒業証書のように一旦もらったら生涯有効と
いうものでもないらしい(6)。自動車の運転免許証のように書き換えが必要なようだ。一応3年毎らしい。いずれにせよ、
資格条件はかなり厳しいと思われる。実際には主任司祭がこの人と見込んだ信徒に頼んで資格を取ってもらい、入門講座を開いてもらって
いるようだ。

5 入門講座の回数

 洗礼の準備としては普通一年間の勉強があり、洗礼志願式を経て、復活徹夜祭での洗礼となるようだ。講座は、毎週一回、隔週ごと、
月1回などいろいろあるようだ。月1回の講座出席としても、年間52週のうち少なくとも12回はあるようだ。時間も、1時間半から
2時間あるという。「分かち合い」もあるので、講義ばかりというわけでもないようだ。

 入門講座を開催する場所も気を使うと言う。曜日や時間がコースによって異なるのだから、会議室がいつも用意できるわけではない。
ポストコロナのこれからはテーブルを囲んで対面式でというわけにも行くまい。教室での講義のような一方的なものになるのかもしれない。

 アジアの諸外国と較べても、日本での準備は、回数も多いし、時間も長いという。アジアの諸外国では半年で数回講座にでて洗礼を受け、
あとで勉強を続けるというパターンが多いと聞く。

 日本では、長い経験と紆余曲折があってこういうパターンが定着したのだろう。私は個人的には1年は長すぎると思うが、
こういうパターンがいつ頃定着したのか詳しくはわからない。



1 第二バチカン公会議が大きな転機になっているようだ。教会では洗礼志願者が急増した時期もあったが、それはこの入門講座が
制度化されたせいかもしれない。とはいえ、この 『成人のキリスト教入信式 儀式書』 はなかなか普及しなかったようだ。
 そこで、例えば横浜教区では、『信仰の道を、求道者とともに歩むために』(横浜教区典礼委員会)を発行して普及を図っているという。
この儀式書の解説書だという。私はまだ手にしたことはない。
2 「カトリック研究会」という名称が使われるようになったのは、岩下壮一師の(現在の)真生会館、「カトリック研究社」時代に
遡る。当時は「研究」という言葉がもっと広い意味を持っていたのか、岩下師が時代の中であえて選んだ用語だったのかはわからない。
 なお、カト研は、基本的には信者だけから構成される「カト学連」(旧カトリック学生連盟など)とは、その成立の経緯や、活動、
性格が異なっていた。
3 「求道者」という言葉もこういう過程の中で定着していったようだ。求道者は、「きゅうどうしゃ」と読んだり、「ぐどうしゃ」と
読んだり、読みも一定ではなかった。私などは当時はこれはプロテスタントの用語でカトリックではあまり使われないと思っていた。
現在は、「きゅうどうしゃ」はキリスト教用語、「ぐどうしゃ」は仏教用語として使い分けが定着している印象がある。といっても
教会の中で、会話や文書で実際に使われているのを現在でもあまり見たり聞いたりしたことはない。
 なお、入門講座で勉強したいと思う人を求道者と呼ぶなら、かれらは必ずしも自分の住まいに近いの教会の門をたたくわけでは
ないらしい。たとえそうであっても他の教会の入門講座を紹介されることもあるようだ。こういう場合、洗礼を受けた後、所属教会をどこに
するかという難問が生まれるらしい。
 また、教会にすでに友人・知人がいる場合が多いようだが、まったく知っている人がいない教会の門をたたくこともあるだろう。
求道者といってもいろいろな形があるようだ。また、求道者の視点から入門講座を見たとき何が見えてくるのか、これは改めて
考えてみたい。
4 入門講座の担当者がかならずしもカテキスタの資格を持っているとは限らないようだ。だが、いちいち区別するのも面倒なので、
ここでは入門講座の担当者をカテキスタと一括して呼んでおきたい。
 カテキスタとは「要理教師」と訳されているらしい。「カテキズムを教える人」という意味のようで、昔風に言えば公教要理の先生や
シスターか。カテキスタは司教から許される資格・任務の一つで、だれでもなれるわけではなさそうだし、希望する人も少ないようだ。
入門講座の担当者でカテキスタの資格がある人は、養成講座をきちんと受けて「修了証」をもらっているようだ。繰り返すが、入門講座の
担当者がかならずしも資格を認定されたカテキスタであるとはかぎらないようだ。といっても、すべての教区がカテキスタの養成講座を
開いているのかどうかはわからない。入門講座の担当者は奉仕の精神にあふれる人格者と思える。
5 実際にはカテキスタと呼吸があわない受講者もいるようで、他の講座に変わることもあるようだ。実際に成人洗礼を受けた人に受洗の
動機を尋ねると、なんとか神父様に出合ったからとか、何々さんの影響でとか、友人や配偶者が信者だからとか、人との出会いを挙げる人が
多い。本を読んでとか、ネットでとか、教会が近いからとかいう知的・地理的理由をあげる人もいるが、印象としては数は少ない。
教義よりは人格が重要なようだ。
 こういうことは出会いの問題なので一般論は難しい。とはいえ、教会ではこの受洗の契機の話題は結構微妙な話題らしく、誰からもいつも
聞けるわけではない。「入り口」よりは「出口」が大事ということであろう。つまり、どういうキッカケで受洗したにせよ、現在どのように
信仰を守っているのかということのほうがもっと大事なことだからだろう。
6 大卒という資格のようにこういう努力して獲得された属性が、いわば生得的な属性のように(性別や年齢のように)生涯変化しない
というのも不思議といえば不思議だ。大学教育が単に知識や技術の獲得だけではないという歴史的経緯が反映されているのかもしれない。
使徒職にも事効説と人効説があるとか、秘跡は聖務者(聖職者)が行えば、破門された司祭が行ったものでも、「有効」だという「教会法」
の規定も、同じような考え方に基づいているのかもしれない。

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