カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ルター派神学は保守的か ー ルターの宗教改革(4)(学び合いの会)

2023-03-03 12:35:18 | 神学


Ⅳ 教会改革運動の分裂

1 霊的熱狂主義の出現

 ルターには両側に敵がいた。右側にはローマに従う伝統主義者たち、そして左側には霊的熱狂主義者たちである。特に左側の敵は危険な存在であった。すでに1522年にヴィッテンベルクで熱狂主義的な混乱、騒乱、画像破壊運動がルターの名前を引き合いに出して広がり始めていた。熱狂的な宗教的主観主義、個人的啓示、聖霊体験(内的な声・内的な光)などの過激な運動が起こった。それらはルターにとって危険な存在であった。やがてルターのライバルとなっていく司祭トマス・ミュンツアー(1489−1525)(1)は教会改革が社会改革の理念と結合し、必要とあれば暴力で改革を貫徹すべきだと主張した。

2 上からの改革

 政治的にはルターは「上からの改革」という展望に囚われていた。ミュンツアーにかぎらずエンゲルスもブロッホもこの点でルターを批判している。キュンクによれば、ルターには農民が貴族や領主に対して突きつけた要求を正当なものとして支持する「心の準備がなかった」(229頁)。貴族たちの搾取による農民たちの経済的困窮から、農民たちはルターの「キリスト者の自由」の考えに励まされて各地で一揆を起こし、革命の実現に走り始めた。ルターは農民戦争の勃発をみて農民たちの要求の正当性を理解できなかった。ルターは権力者の側に身を置き、農民たちを残忍に弾圧することを正当化してしまった。ルターは1525年に、「盗み殺す農民暴徒に対して」という悪名高き文書を出し、領主たちに農民の徹底的弾圧を呼びかけた。

3 30年戦争という悲劇

 30年戦争はドイツにおける最大かつ最後の宗教戦争(1618−48)であった。30年戦争とは、バイエルン公らのカトリック諸侯がボヘミアおよびファルツに侵攻し、これに対抗するプロテスタント側には、イングランド・オランダ・デンマーク・スウェーデン、さらにはフランスが加勢し、国際的紛争になったものである。
 戦場となったドイツでは人口の3分の1(600万から700万人)が犠牲となり、悲惨な結果を招来した。1648年にウエストファリア条約で終結した。これによりオランダとスイスが独立した。スウェーデンとフランスは領土を拡大した。神聖ローマ皇帝の力は有名無実となり、ドイツの領邦国家体制が強化された。


Ⅴ ルターの「自由な教会」の行方

1 司教・修道院長からの民衆の解放

 宗教改革は、世俗化した宗教勢力(貴族による司教や修道院長の独占)の支配から民衆を開放した。世俗の領主たちは司教・修道院長から資産を奪う。ルターは理想を実現するために世俗権力をあてにした。

2 国家と宗教:二王国論

 ルターは国家と宗教を2つの異なる王国とみなし、両者にまたがる統率者を求めた(2)。その理想像は自分を保護・支持してくれたザクセン選帝候フリードリッヒ三世であった。しかし相ふさわしい統率者は見当たらず、ルターが目指した人民による教会改革ではなく、権力者による上からの教会改革となった。さらに、君主による絶対主義と専制政治の道を開いてしまった。結局、ルターの目指した「自由なキリスト教会」は実現せず、むしろ領主による教会支配をもたらした。これはドイツにおいては、第一次大戦後のワイマール憲法(1919)によってようやく終焉を迎える。

3 ルターのユダヤ人憎悪

 ルターは自分の教会にいるユダヤ人のキリスト教への改宗(転会ではない)を期待したが、30年経っても実現しなかった。ルターは一変してユダヤ人を憎悪するようになる。冊子「ユダヤ人とその虚偽について」(1543)においてユダヤ人を罵倒した。1543年のザクセンからのユダヤ人追放はルターの著書によるものである。ルターのユダヤ人に対する態度は、カトリック教会の見解より遥かに厳しく、これが後にヒットラーに利用されてしまう。

Ⅵ ルター派神学の確立(3)

1 メランヒトンによる体系化

 ルターは聖書注解者であったため、体系的な教義学は書かず、代わってメランヒトンが「義認論」を体系化した(4)。しかし両者にはズレがある。救いの問題についてはメランヒトンは「人間の意志が神の恵みと共働する」ことを唱え、善い行いの必要性を強調した。両者の相違は正統ルター派とフィリップ派の対立となる(5)。1577年に「和協信条」により妥協が図られた(6)。「善い行い」については中間的な立場を取る。
 1580年に「一致信条」が作成される。それは、古代の信条および「アウグスブルク信仰告白」から「和協信条」に至るまでの信条や教理問答を編纂したもので、ルター派信仰の正統性の主張を意図したものである。しかしルターの「聖書のみ」の主張に反する教義学的主張であるとして、17世紀には敬虔主義者(7)から批判され、ルター派内部の深刻な対立となる。

2 宗教改革以降のルターの神学

 ルター派はカトリック教会と他の改革派教会とのあいだに神学論争を引き起こす。ルター派内部では、スコラ学を用いて自分たちの教義を弁護しようとする「正統主義神学」が生まれる。ルターの言葉を教義学的命題の典拠とするルターの言葉の絶対化がおこる。この「正統主義」を敬虔主義者が批判し、個人的な清い生活を強調する。ルターの信仰体験を前面に出してルターの信仰を継承しようとした。その後ルターはカトリック教会からの自由を獲得した英雄とされた。聖書重視や生活重視の立場は歓迎されたが、その教理の保守性や人間の自由意志の否定は嫌われた。
 19世紀に始まった「ルター・ルネッサンス」はルターの神学をそれ自体として検討する道を開いた。それは単に教派的神学としてだけではなく、エキュメニカルな視野のもとに研究され、プロテスタント圏ばかりではなく、ローマ・カトリック教会においても再検討されるようになった。

 

【日本キリスト教団滝野川教会】(8)

 


1 ミュンツアー Thomas Muentzer 1489頃-1525 急進的な宗教改革者。ドイツ農民戦争の指導者。ドイツ神秘主義の強い影響を受けルターの推薦を受けるがやがて離反する。フスの影響もあり、同盟(ブント)による急進的社会変革を目指す。結局フランケンハウゼンの戦いで諸侯連合軍に破れ、斬首刑に処せられる。
2 二王国論では、ルターは教会を国家の権威の下に位置づけ、世俗的事柄については市民は国家に従順であるべきだと強調していた。二王国論は結局ルター派を保守的な権力追従を可能にする教義だとして批判する論者も多いようだ。
3 ここからはキュンクのルター論の紹介ではない。
4 メランヒトンPhilipp Melanchthon 1497−1560 ルターの影響を受けたドイツの宗教改革者。「アウグスブルク信仰告白」を執筆した。義認論を中心にロマ書(ローマの信徒への手紙)に即してプロテスタントの神学を初めて体系化した。宗教改革と人文主義、カトリックとプロテスタント、ルター派と改革派など対立者の調停に努めるが、晩年はルター死後の神学論争に翻弄されたという。メランヒトンはルター派の正統主義の出発点で、弟子の中から生まれた「クリプト・カルヴィニズム(隠れカルヴィニズム)」のフィリップ派と対立した。「厳格ルター派」ではない。
5 1546年のルターの死後、ルター派ないで激しい神学論争が起きる。厳格な正統派と、メランヒトン的傾向のフィリップ派(クリプト・カルヴィニズム)との対立である。善き業、聖餐におけるキリストの現臨、回心における神人共働など様々な論点で対立した。この論争は結局1577年の「和協信条」によって終わり、1580年の「一致信条」によってルター派教会は確立する。17世紀には敬虔主義運動から、18世紀には啓蒙思想からの批判と挑戦を受ける。20世紀にはK・ホルらの「ルター・ルネッサンス」が起こる。ルター派は16世紀以降は北欧で国教会(領邦教会)として広がり、北米ではより保守的な自由教会として発展し、現在はアジア・アフリカでも拡大しているという。
6 和協信条 Konkordienformal とはルターの信条の一つである。フィリップ派と厳格ルター派の間で激化した神学論争が1577年に決着がついた。1580年には「一致信条書」(和協信条書)」が出版され、ルター派の基本的教理が集大成された。
7 敬虔主義 Pietismus とは17世紀後半のドイツで起こった信仰覚醒運動をさす。ルター派教会が領邦教会として制度化されると堕落していく。人々の関心は制度から個人の信仰に移っていく。原始キリスト教的な愛に基づく道徳的な完成ー「再生」ーをめざす。ドイツ敬虔主義は近代思想史のなかで重要な位置を占めているようだ。
8 ルター派はルーテル教会、福音教会とも言うようだ。世界的には信者数ではプロテスタント最大の宗派といわれる。繰り返しになるが、教義では、カトリックとは異なり、聖書のみで、伝承(聖伝)を認めない。信仰義認・万人祭司をとる。秘跡では7つのうち洗礼と聖餐のみ認める。組織では使徒継承を認めず、長老制・会衆制・会議制など様々なようだ。国家との関係では法定教会・領邦教会のみではなく、独立教会もある。歴史的にはカトリックおよび改革派(カルヴィン派)と対立してきた。1999年にはルーテル世界連盟とローマ・カトリック教会は「義認の教義に関する共同宣言」に調印して、歴史的な和解をはたした。
 日本では日本ルーテル教団と日本福音ルーテル教会があるようだが違いはよくわからない。日本には日本基督教団という合同教会があり、長く複雑な歴史を持つ。この写真は昨年亡くなった、学校法人聖学院の元理事長で東京神学大学元学長だった大木英夫師(ディサイプル派)の母教会である日本基督教団滝野川教会である。わたしが知っているのはこの教会ではなく、建て替え前の教会である。

 

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