カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

罪は人間の内にあるのか ー 原罪論2(学び合いの会)

2022-06-29 09:19:43 | 神学

 

Ⅱ 旧約聖書における罪の理解

1 人祖の物語 創世記第2・3章

 創世記は人類の発生をアダムとエバのドラマとして描く。神の計画により恵まれた原初の至福の状態と、堕罪後の神から見放された状態とを比較する(1)。
 人間は神の似姿として造られたが、すべてを許される自由が与えられたわけではなく、有限な存在である。しかし、人間は神のようになろうする欲求を持ち、自己の絶対性・全能性を求める。「禁断の木の実」は実は人間の有限性にもとづく制約のシンボルであり、「」は悪の誘惑を表す。
 創世記の記述は、本来神により頼むべき人間の限界を踏み越えようとした人間の試みが、世界のすべての悪の根源であることを示す。創世記は、すべての人間にある罪への傾きとその結果を、人祖が自らの罪によって神との交わりを失ったことによって説明しようとする。神が創造された、本来良きものである世界に多くの悪が存在するのはなぜなのか、という大問題をテーマとする。この問題の責任は、神にではなく、人間にある、と主張している(2)。

2 カインとアベルの物語 創世記第4章

 これは人類初の兄弟殺しの話である(3)。義人アベルと罪人カインの宗教的・道徳的対立を描く。神はアベルの捧げ物に目をとめられる。アベルという名前は、無意味・無価値・はかない小さい存在という意味のようで、神は無力な者・小さな者を愛するという意味が込められているという。当時のイスラエルは小さな無力な存在に過ぎなかった。
 カインは弟への妬みの感情から弟を殺す。神のカインへの審問、刑(呪い)の宣告がある。しかし神は刑を軽減し、カインを赦す。


 【カインとアベル】


3 洪水物語 創世記第6章

 4つの章にまたがる洪水物語はJ資料とP資料が入り交じっており、複雑化しているという。旧約聖書の中で最も神話的であるという。古代世界には同様のモチーフの神話が多いという(ギルガメッシュの水神話など)。人類の罪、堕落がテーマである。神は世界と人間を造ったことを後悔し、すべてを地上から拭い去ろうとする。しかしノアは神の好意を得る。箱船によってノアとその一族と生き物が救われる。神はノアと契約を立てる。

4 バベルの塔の物語 創世記第11章

 これもJ資料だという。人類が全地に拡散し、人類の言語が混乱していることの話である。天に届く塔を建てるという人間の高慢の罪が描かれる。

5 旧約聖書の罪理解(4)

① 罪の問題は常に共同体的視点から捉えられている
② 罪は神の怒りを招き、神と人との間を引き裂く
③ 罪の償いについては、律法に様々な償いのための犠牲が定められている
④ 預言者は、倫理的・宗教的罪を厳しく批判する
⑤ 父祖たちの罪が子孫に及ぶという古い教えは、個人の責任を追及する考えによって退けられた
⑥ 集団的責任から個人的責任への転換がある(預言者たちの立場)罪の倫理的側面が強調された

⑦ 旧約には、罪の普遍性の表明はあっても、原罪の教えはない

 確かに、旧約は人間の罪への傾向を認めるが、それは人間が罪に運命づけられているという教義とは全く異なる。
 アダムの罪が子孫に伝わるという原罪の教えに旧約は言及していない。カインの罪は父アダムにさかのぼらない。洪水の世代の罪もアダムとは無関係だ。人間の自由が強調され、罪の起源は人間の内にあるというのが旧約の一貫した考えである(5)。



1 この部分はJ資料とされる。J資料とはヤーヴェスト資料のこと。モーセ5書にはいくつかの資料的背景があり、J資料はその一つで国家分裂以前のダビデ・ソロモン体制の時代のもの。例えば、創世記の1章と2章は関連性は見られないが、重複が多いのはそのせいだとされる。二つの章をまとめて一つの章にするということはなされなかった。資料的背景が違うからであろう。この件は前回の旧約聖書の成立過程を論じたところですでに紹介している。
2 ネオトミズムの立場に立つと言われる岩下壮一師はその著『カトリックの信仰』のなかで、第6章を「原罪」と題して、昔の古典的な公教要理の原罪論を詳しく説明している。現在のカトリック要理での説明とー基本は同じでもー説明の仕方の違いに驚く。師はこの章をロマ書第5章12節の引用から始めている。「一人により罪この世に入り、また罪によりて死のこの世に入りしごとく、人罪を犯したるが故に死すべての人の上に及べるなり」。人祖の堕落とその結果の話から始めているわけだ。3 おなじくJ資料によるという。
4 旧約では罪を表す多くのことばの中で、ハーター(的を外す)・アーオーン(曲げる)・ペシャ(背き)ということばが代表的だという。どれもゆがんだ人間関係を表す言葉をもって神との負の関係を言い表そうとしているという(小笠原優師)。つまり、今日の普通の日本語では、「罪を犯す」という表現からわかるように、罪とは何か規則や掟を破ることを意味しているようだ。そのため「自分は法は犯していないから罪はない」と考える。だから、「わたしは思い・ことば・行い・怠りによってたびたび罪を犯しました」というミサの祈り(回心の祈り)は、なんのことをいっているのかわからなくなる。自分は何も悪いことはしていないのに、ということになる。罪の観念が違うのだ。
5 こういう説明の仕方はプロテスタントの説明の仕方を強く意識したもののように聞こえる。違いを強調しているともいえる。たとえば、大木英夫牧師(プロテスタント)は「罪の聖書的語義は・・・単なる内的良心的罪責感や道徳的・社会的不正義などと同一視され得ない」と述べている(『キリスト教組織神学事典』「罪」267頁)。大木先生ですらこう言うのだから、違いは大きいのであろう。

 

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