カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

原罪論はなぜ未熟な教義なのか ー 原罪論1(学び合いの会)

2022-06-27 20:58:28 | 神学


 6月の学び合いの会は猛暑の中で開かれた。まだ6月だというのに梅雨明け宣言が出たという。この暑さの中、出席者の数は当然少なかった。
 今回のテーマは原罪論である。何もよりによって原罪論を取り上げなくとも、と思わなくもなかったが、ロシアによるウクライナ侵攻を前にして、科学技術の発達が、社会制度の改革が、人間を悪から解放するという楽観主義が打ち砕かれ、もう一度「」の問題を神学的に問い直してみたいというのが趣旨のようであった(1)。
 神学的に問い直すと言っても、原罪論は「神学的人間論」の中ではもっとも評判の悪い、人気のないテーマのようだ(2)。キリスト教神学の中でキリスト論、三位一体論、教会論はそれなりに教義が整備され、体系化されているが、原罪論は未成熟である。特に古典的な(アウグスティヌス的な)原罪論はいわば袋小路にはまっており、現代的な(パウロ的な)原罪論の彫拓が進められているようだ。
 今回は次のような順番で議論が行われた。

1 概略
2 旧約聖書における罪理解
3 新約聖書における罪理解
4 教義史における古典的原罪論の展開
5 トリエント公会議の原罪の教義
6 公式教義への批判
7 原罪論の見直し
8 現代神学の「原罪の教義」の探求
9 現代日本人の罪理解

 あまり議論していて楽しいテーマではないし、ある程度の聖書の知識も必要なので、少しずつ紹介してみたい。

Ⅰ 概略

 原罪 peccatum originale(羅) original sin(英) Erbsunde(独) peche original(仏) 

カトリック教会の原罪に関する公式教義は次のようなものである(3)

① 旧約聖書 創世記第2・3章に記されているとおり、人祖は神に対して不従順の罪を犯したため、結果として原始善を失い、神から離れた不義の状態に陥った。理性と意思とが弱まり、悪に傾く存在となった。(失楽園)(4)。

② この罪の結果は、人祖の子孫である全人類に遺伝によって及ぶ。人類の中で原罪を免れた者は、イエス・キリストと聖母マリアの二人だけである。ただし、人間性が完全に破壊されたとは言えず、意思は善を選ぶ力を全く失ったわけではない。(5)

③ この原罪の状態は、イエス・キリストの救いの業によってのみ解消される。人類は神と和解する。具体的には、洗礼・血の洗礼(殉教)・望みの洗礼によってこの賜に与る。

 この公式教説はアウグスティヌスの思想が基本となり、カルタゴ教会会議(397)とオランジュ教会会議(441,529)によって成立し、トリエント公会議(1545)で確認された。以後、原罪と言えばアウグスティヌスの教説が主流となる。
 しかし、理性中心の啓蒙主義の時代になると、自然科学・社会科学・哲学・神学・聖書学の発展もあり、アダムとエバの物語に歴史性がないことや、人類多元説などを背景に、古典的原罪論への批判が高まった。現代神学では現代に適した原罪論の再構築が探求されている。

 

  アダムとエバ

 

 


1 「悪」 evil  の定義は難しそうだ。抽象的に一般論で言えば、つまり、「善」の反対概念と考えるのなら、「善の不在」と定義するのが普通の辞書的定義のようだ。だが、キリスト教では、そういう存在論的定義よりは、悪の実存論的定義がなされる。つまり、「律法違反」すなわち「神への不服従」を悪の出発点だと考える。そこから、社会的不正義や自然災害が生み出されてくると考える。ここから先の話は新約聖書から始まるキリスト教神学の話になるようだ。
2 神学的人間論は、そのなかに、神論・創造論・罪論・恩恵論または救済論などを含んでいるようだが、原罪論は神学校では最も不人気な研究分野らしい。教会の入門講座でも、カテキスタを一番悩ますのが原罪の説明だという。恥・汚れ・お祓いなどという日本の仏教的・儒教的罪悪感を持つ受講者にキリスト教的な罪の観念を伝えることは易しいことではないようだ。例えば、小笠原優師は『信仰の神秘』(2020)のなかで、第5章「カトリック信者のライフスタイル」の第1節を「罪とのたたかい」と題して特別に取り上げている。説明は懇切丁寧だが議論は多岐にわたり理解が難しい。
3 教義の要約の仕方はいろいろあるだろう。元々は、『カトリック教会のカテキズム』 第1編第2部第7節の3「原罪」 396から412まで (115~120頁)となる。
また、『カトリック教会のカテキズム要約』では、「罪とは永遠のおきてに反する、一つ一つのことばや行いや望みです(聖アウグスティヌス)」と説明されている(205頁)。罪を個人に引き寄せて説明しようとしているようだ。
4 教科書風に言えば、原罪とは人間と神との関係の破綻のことを言う。それは人間が自力によって全能化したい、神化したい(神になりたい)という倒錯した意思を持つことだ。創世記第3章の失楽園神話に描かれている事態だ。次節で検討してみたい。もう少し広義にとれば、人間や社会が調和を失い破綻した状態を指す。仏教の「無明」(むみょう)、実存主義の「非本来性」、マルクスの「疎外」概念などに近いと言えそうだ。
5 いわゆる自由意志の試練の問題らしい。宗教改革期の「自由意志論争」(恩恵論争)のなかでカトリックとプロテスタントとの大きな違いの一つとなっていく。

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