カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

『愛と英知の道-霊性神学-』(3)(神学講座)

2017-12-04 11:04:17 | 神学

 待降節が始まった。もともとはキリストの誕生を待つ、クリスマスの準備という意味なのだろうが、いつしか終末(再臨)の到来に備えて準備していなさいという意味が強くなったようだ。やはり四旬節のほうが古いから、大事だからだろうか。マルコ13:33のように、「気をつけて、目を覚ましていろ」と言われると身構えてしまうが、 Keep awake とか Seid wachsam なら、まぁいいかと思わなくもない。勉強不足のせいだが、同時に言葉は不思議なものだとも思う。アドヴェント・クランツの習慣をまもっている教会や家庭がまだあるのかもしれない。希望と期待の期間である。毎月第一月曜日は神学講座の日だが、今月もお休みであった。

第4章 神秘主義と愛

 中世に神秘的体験がヨーロッパで流行する。祈りは素晴らしいが、神秘的体験は同時に誤りや偽物と区別をつけることが難しい。どうしても神学として整備する必要があった。神秘神学は中世、特に12・13世紀に発展し、14世紀に開花し、16世紀に神学としてほぼ完成する。神秘主義は教父時代に砂漠で生まれ、やがて中世には郊外の修道院で発展する。ついで16世紀には都市のなかに入り込んでくる。だが、神秘神学としては「14世紀から第二バチカン公会議にいたるまで、基本的にはは変わらないままであった」(123頁)という。本章はこの時代を扱う。

 神秘神学は愛に根ざしている、と言うと余りに当たり前に聞こえるが、神秘神学がいう愛とは何のことなのか。愛とは「愛徳」のことだ。原文は charity となっている。ギリシャ語ではagape アガペー, ラテン語では caritas カリタス。愛にはアガペ-とエロスの二つの意味が含まれるが(ストリゲー、フィリアを含む人もいる)、アガペ-は三対神徳(信德・望徳・愛徳)の一つだ。愛徳とは神に対する人間の愛のことで、人間を神に近づける、統合させる徳として、信・望・愛のなかで最も大事なものとされてきた。ジョンストン師は、第二バチカン公会議以前、自分が神学校にいた頃、「修徳神秘神学」(Ascetical and Mystical Theology)が神学校の必須科目で、キリスト教徒の完成(perfection 訳語は完徳)は「愛徳」にあると教えられていたという。現在はもちろんこんな科目はカリキュラムには存在しないようだ。神秘神学がいう愛とは愛徳のことだが、神秘神学には、このアガペー(神愛)をエロス(肉的な愛)とどう区別し、併存させるか、という問いが常につきまとっている。ジョンストン師は中世の主要な神学者たちがこの問にどう答えたかを論じていく。

 まず、クレルヴォーのベルナルド(1090-1153)(ベルナールとも)がくる。雅歌の注釈者として著名らしく、また、シトー会として多くの修道院をつくり、第二回十字軍を推進するなど、「活躍」したという。ヨハネの手紙Ⅰを中心に、肉体的な愛 carnal loveが神秘的であると共に受肉的である(incarnational)と述べたという。こういう考え方は「西洋の霊性に途方もなく大きな衝撃を与え」(108頁)たという。
 師は次に霊性学派として、ベネディクト会とフランシスコ会をとりあげ、これら修道会には固有の神秘主義があったという。ベネディクト会の三つの実践項目はどれも神秘的だ。
①労働は祈りなり Laborare est Orare
②聖書を読め Lectio Divina
③聖務日課の祈り

 ここで師は自分の訳書『不可知の雲』を引用して、聖体と神秘体験の密接な関係を説いていく。この本は著者不明の14世紀英国のものだが、少し長いが、ジョンストン師が好んでいたきれいな祈りなので、少し引用してみよう。

私が存在していること、また天性を授かり、
恩寵を受けて存在していることは、
主よ、すべてあなたからの賜物です。
主よ、あなたは「わたしはある」というお方です。(一部)


ジョンストン師自身の本(斉田靖子訳、エンデルレ書店、2011)ではこうなっている。(個人-[第3章)

わたしが存在していること、また天性や
恩寵というあらゆる賜を備えた
私の生きざまは、あなたが私に
お与えくださったものであり、
主よ、これらすべての善きものの源は
あなたです。(一部)

英語の原文はこうだ。(現代英語ではないから文法がどうのとは言わない)

That that I am and how that I am
as in nature and in grace,
all I have it of thee, Lord, and thou art it.
And all I offer it unto thee
principally to the praising of thee,
for the help of all mine even Christians and of me

ベネディクト会は祈りの修道会で、典礼の分野で重要な貢献をしたという。
 
 フランシクコ会の偉大なスコラ学者はボナベントゥラ Vonaventura (1217か21-1274)だ。フランシスコ会は受肉を祈りの中心に置いた。(トマス主義のドミニコ会とは対照的だ)。ボナベントゥラはフランシスコ会の総長となり、「光の神学」を説いたが、聖母マリアの無原罪のおん宿りの教説には疑義を表明していたという。これが教義とされた現在ではボナヴェントゥラの評価は難しいのかもしれない。
 また、11世紀のフランスに突然登場した吟遊詩人や宮廷恋愛にはロマンチックな要素があって、これが西洋の霊性に流れ込んでいったという。ギリシャ正教やロシア正教にはこういうロマンチックな要素はないらしい。修道院のなかでも愛の本当の意味が、アガペーとエロスの統合が、探し求められていたわけだ。

 14世紀は神秘家の時代だった。シエナのカタリナとか、イギリスの『不可知の雲』の無名の著者とか、『キリストに倣いて』の著者(とされる)トマス・ア・ケンピスなどたくさんいる。だがなんといっても、ドミニコ会のマイスター・エックハルト Meister Eckhart (1260-1327)が最も重要らしい。ドイツのラインラント(西部のライン川両岸地帯)は多くの神秘家を排出したという。同時に論争の時代でもあった。エックハルトはスコラ学と神秘主義を結合させようとしたが、結局は異端の宣告を受けてしまう。ジョンストン師は「最も悲しい出来事」と言っている。
 エックハルトへの注目は、キリスト教と仏教との対話の先駆者だからだという。鈴木大拙、上田閑照はエックハルトを高く評価しているようだ。師は言う。「彼の名誉が回復されることを、ただ望むだけです」(117頁)

 このような神秘主義を巡る論争は結局、神秘神学を一般神学から独立させて、専門分野として発展させることとなった。一方では、汎神論 pantheism (宇宙と神を同一視し、神の人格性を認めない 神秘主義とは紙一重の違い)に陥らずに「神との一致」とは何かを明らかにしなければならないし、他方では、静寂主義 quietism(祈りによる沈潜を重視したキエティスムやヘシュカスム、次章で論じられる霊性運動、ともに異端視された)に対して「観想」とは何かを明白化する必要があった。神秘神学は体系化の道を歩み始めた。結局これは数世紀後、十字架の聖ヨハネに委ねられるのだが、その前にトマス・アクィナスの貢献が言及される。
アクィナスは認識には二種類あると述べた。理性による認識と、親和性による認識だ。これに対応して神秘神学は祈りには二種類あるとみなした。一つは習得された祈りで、「刻印された種」によって知性に伝達されるという。もう一つは、直接「注ぎ込まれた」認識で、「英知」wisdom と呼ばれ、聖霊からの贈り物とみなした。神秘主義の祈りが「注賦的観想」と呼ばれる理由だ。「神が直接人間に働きかけ、その心に知識や愛を注ぎ込む」(120頁)のだという。師はこう結論する。

「最初の忠告は、考えるな、です。内なる炎が燃え上がるままにさせなさい。なすがままに任せるのです! 聖霊に抵抗してはいけません。このようにして人は神秘の道に踏み出します」(121頁)。

 私には経験がないのでよくわからないが、ジョンストン師を目の前にした時、あぁ祈りは人を変えるのだな、とよく思ったものである。ジョンちゃんは本当によく祈る人だった。

第5章 東方のキリスト教

 第二バチカン公会議以後、スコラ学は崩壊した。聖書研究や史的イエス論に代表される新しい歴史批判の方法が現代のカトリック神学を支えている。ジョンストン師は、この方法論の重要性は十分認めながらも、同時に、東方教会から神秘神学の方法を学び、カトリック神学に組み込まねばならないと主張する。
 キリスト教が生まれてから千年間、東方のギリシャ教会と西方のローマ教会は、散発的に緊張が漂った時があったにしても、基本的には共通の信仰と遺産をもっていた。両者が分裂したシスマ(schisma)は一般的には1054年とされる。キリスト教会の大分裂は、この東西教会の分裂、および宗教改革によるカトリックとプロテスタントの分裂、と二度起こっているが、シスマは普通前者を指すことが多いようだ。
 西方教会ではスコラ神学が優位を占め、神秘神学は教義神学とは別立てで発展していく。他方、東方教会では、神秘神学は神学そのものであったから、ことさら神秘神学なるものは別個には存在しなかった。トマス・アクィナスはほとんど影響を与えなかったのであろう。では、東方教会の神秘神学の特徴とは何なのか。
 東方教会の神秘神学は ヘシュカスモス Hesychasm (ヘスカスムとも)と呼ばれる。あまり聞き慣れない言葉かもしれないが、神秘神学の理解にとってはキーとなる概念だ。「静寂主義」と訳されることが多い霊性運動のことだ。ジョンストン師は、新神学者聖シメオン(949-1023)にならって、ヘシュカスモスの特徴を三点に整理している。 第一は「神化」論だ。ヘシュカスモスでは、①考えることをせずに静寂状態に入る ②イエスの祈りを繰り返す ③呼吸を規則正しく整える ④神化をめざす。 神化 deification とは、人間が神になるということではなく、神の「エネルゲイア」に浴して、祈りによって、恵みによって、神を知ることを意味する。また、ヘシュカスモスは祈りでの姿勢や呼吸を重視する。禅やヨガとおなじように「臍の周りに」エネルギーの中心があると考えるという。
 第二の特徴は「火の神学・光の神学」だ。東方教会の神学は受肉を強調するので、祈ると、体内で火が燃えているような内なる暖かさを感じるという。また、この時本当に苦痛や恍惚を経験するという。また、祈っていると、光が降り注ぎ、一日中消えることがないという。火と光は神秘体験の中核を構成しているという。
 第三は「エネルゲイアの神学」だ。これも聞き慣れない言葉だろうが、エネルギーのことだ。グレゴリオ・パラマス(1296-1359)によると、人間は神が「存在」することは知っているが、神が「何であるか」(ウーシア・本質)は知ることはできない。けれども、「神のエネルゲイア(働き)」は知ることができる。タボル山で変容したキリストの姿を見た弟子たちに、神は、火として、光として、エネルギーとして現れた、という。また、ヘシュカスモスの頂点である「神化」に達すると、「霊魂と肉体はともに変容する」のだという(135頁)。
 この「造られざるエネルゲイア」論は、西方のスコラ神学からは、神の単一性を否定するもの、神を二分するもの、として徹底的に批判され、いまだ論争の的になっているようだ。しかし、東方教会ではこのパラマスの教義は正統神学として認められている。つまり、東方教会の神学はグレゴリオ・パラマスという聖人によって代表され、ジョンストン師は西方教会も学ばねばならないと主張する。

 西方教会にも神秘的な「光」を体験した神秘家がいたという。ジョンストン師は、アウグスチヌス、ベネディクト会のビンゲンのヒルデガルト(1098-11798)、アビラの聖テレジア(1518-1582)の三人をとりあげ、この人たちの光の体験は、ヘシュカストたちの体験と似ているという。とはいえ、現代のカトリック神学者たちはかれらから学ぼうとはしなかった。ジョンストン師は、シメオンやパラマスは「今日へのメッセージを携えています」(148頁)と本章を結んでいる。

第6章 愛を通して生まれる英知

 神秘神学は、14世紀には、トマスの影響を受けたドミニコ会士たちを中心に一つの独立した神学として成立してきた。そして16世紀にスペインのカルメル会の修道者たちによって完成される。本章では、神秘神学の二人の完成者、アビラの聖テレジア(1515-1582)と、彼女の協力者である十字架の聖ヨハネ(1542-1591)が取り上げられる。

 神秘神学は、第二バチカン公会議以前にも神学校で教えられていた。神学校の花形は教義神学だったとは言え、神秘神学は修得神秘神学とか霊性神学とよばれてそれなりに教えられていた。だがそれは、十字架の聖ヨハネたちが実践していた「愛から生まれる英知を求める祈り」である「伝統的な解釈よりも、ずっと視野が広いものでした」とジョンストン師は批判する。つまり、将来司祭になる神学生たちに祈り方や祈りの指導法を教える科目になってしまい、普通の現代人の祈りに役立つ実践的な教えではなかったという。もう一度聖ヨハネにに戻ってみようというわけだ。

 トマス・アクィナスは二種類の認識、祈りについて語った。実践的知識と、愛を通して得る親和的知識、との区別だ。スコラ学者は前者の知識についての研究は進めたが、後者の知識についての研究は神秘神学者にまかせられた。神秘神学者によれば、愛を通して得られる知識は「英知」wisdom とよばれ、「注ぎ込まれた知恵」であり、「聖霊の賜物」であり、それは「輪郭のはっきりした概念的知識をもたらしませんし、イメージや姿ともつながりません。それは不可知の雲の中にあるぼんやりとした知識です」(151頁)という。訳者たちはwisdomを英知と訳したり、知恵と訳したり、知識と訳したりしてフォローがなかなか難しいが、wisdom が祈りの頂点であるという理解では共通している。「祈り」は最初「推論的祈り」 discursive prayer として始まる。やがて聖霊の賜物の力が強くなると「観想」 contemplation の世界に入っていく。これが、「この先果てしなく続く神秘的な登攀の第一歩です」(152頁)という。愛という祈りを通して英知を獲得することが神秘的体験の目標だと言っているように読めるが、どうだろうか。カト研の皆さんの理解を教授願いたい。

Ⅰ 神秘神学者としてのテレジア

 アビラのテレサ、大テレジアのことである(リジューのテレーズ、幼きイエスのテレジアではない)。スペインの改革カルメル会の創始者。神学者というよりは神秘家というべきで、多くの神秘体験を書き残しているという。神秘体験を「体験すること」、「理解すること」、「説明すること」、は別のことだと語っているという。テレジアの神秘神学は受肉論が中心で、その著『霊魂の城』は花婿と花嫁の霊的婚姻について述べているという。祈る時は、黙想会のように聖書の場面を視覚的に観想したりしない方がよいと言っているようだ。イエスのイメージを考えるのではなく、なにか宇宙的なキリストとでも呼べるような力を感じていたという。日本でも上野毛教会はよく知られている。

Ⅱ 十字架の聖ヨハネの神秘神学

 十字架の聖ヨハネ Juan de la Cruz (1542-1591) はスペインの神秘家で、男子跣足カルメル修道会の創始者。ジョンストン師は中世神秘神学の完成者と考えているようだ。十字架のヨハネは修道名で、俗名は Juan de Yepes。英語では St.John of the Cross。神秘神学を「愛から生まれた秘められた英知」 the secret wisdom that comes from loveと定義した『霊の賛歌』 The Spiritual Canticle で知られる。神秘神学を「観想」、「暗夜」、「愛の生ける炎」から成るとして、この順番で、説明しているという。暗夜 dark night とは神秘体験では重要なもので、祈っている時に神が霊魂(訳者はthe soulを霊魂と訳したり、魂と訳したりして一貫していないが)に入ってきて感じる苦痛のことをいう。(第13章でさらに詳しく論じられる)。そして愛の生ける炎とは花婿の霊のこと、即ち聖霊のことをさす(婚姻論のことで、第15章でさらに論じられる)。そしてこの愛が英知へと導いてくれるという。ジョンストン師はこの英知を、wisdomを、「至高の悟り、目覚め」(a supreme enlightenment or awakening)と呼ぶ。英知とは聖霊の働きと言えそうだ。
 では、「秘められた」とはどういう意味なのか。師はそれを、「推論や思考を超え、明瞭明白な考えを超えた知識のことです。そのような知識は不可知の雲の中にある形のない知識です」(161頁)と説明している。不可知の雲とは a cloud of unknowing のことで(注1)、アリストテレス流の「無知の知」 knowing by not-knwowing からきているようだ(無知の自覚が知恵をもたらす)。なにか直感みたいなものを指しているのかもしれない。
 「神は秘められている。隠れた神 Deus Abscondius です。神は神秘の中の神秘で、霊魂には夜のようです」「理解しようとしてはいけません。神を待ちなさい。身を任せなさい。神の慈しみと愛を信頼しなさい」(162頁)。これが十字架の聖ヨハネの神秘神学なのだそうです。理解するな、と言われても・・・・と一言言いたくなりますが、凡俗の私はただ困惑するばかりです。
 この十字架の聖ヨハネの神秘神学は、ジョンストン師が習った修徳神秘神学とは違う。現代の神学校のカリキュラムからは消えてしまった霊性神学とは異なる。師は「神秘神学は書き直されなければならない」(166頁)と宣言する。
 書き直す前に、師は、カトリック神学が現在直面し、きちんとした答えを用意できていない現代世界の諸問題をいくつか取り上げて論じていく。神秘神学はその課題に応えうると考えていたようだ。第二部は現代社会との[対話」と題されている。

注1 ジョンストン師訳の『不可知の雲』(原題 The Cloud of Unknowing)の正式のタイトルは、『不可知の雲と呼ばれる観想の書-この雲の中で人は神と一体となる』と題されている。

 

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