カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

スラーム法は神の掟だ ー イスラム教概論10(学び合いの会)

2021-06-30 21:38:52 | 神学


Ⅴ イスラーム法 ー シャリーア(Sharia)(聖法)

1 シャリーアの意味

 イスラム教にはいわゆる「近代法」はない(1)。かわりに「イスラム法」と呼ばれる「規範」が存在する。イスラム法とはシャリーアの訳語だ。「聖法」と訳すこともあるようだ。つまり、「神が定めた掟」という意味で、人間が定めた法・法律ではない。シャリーアは人定法ではない(2)。行為の正邪の判断、人間の従うべき規範は人間の「理性」ではなく神の「啓示」によるという考え方だ。つまり、コーランが判断の根拠になるという考え方だ(3)。

 シャリーアとは普通「水飲み場に通じる道」のことだと説明される。神の掟はそれをたどれば命の泉に連れて行ってくれるという意味のようだ。一般的にいえば人間の倫理規範・行為規範ということになるだろうか。
 シャリーアは具体的には「コーラン」(神の啓示の記録)と「ハディース」(ムハンマドの言行録)の両者の合わさったものを指すようだ(4)。「法源」と呼ばれる。これだけでは多様な個別事象に対応しきれないので、「イスラム法学者」が「解釈」を施していく(「キャース」や「イジュマー」)。これらもシャリーアに含まれるようだ。
 イスラム法の体系はいくつかの分類方法があるようだが、「行為の5分類」が一般的なようだ。
①義務行為 ②推奨行為 ③許可行為(いわゆるハラール) ④忌避行為 ⑤禁止行為
これは近代法の体系と比較するとその特徴がはっきりしてくる(5)。
 S氏は、シャリーアの内容を以下のように整理している。

2 シャリーアの内容

 シャリーアの内容は大別して7つになるという。こういう分類の仕方もあると言うことであろう。

①信仰行為:6信5行のこと
②道徳規範:衣・住・寝・美・徳・隣人との付き合い・作法
③私的関係法:家族法・私的身分に関する契約(結婚を含む)・個人の権利義務の規定
④社会関係法:商行為・債権・債務・共同事業・賃借・雇用・委託
⑤刑法:刑罰、主として身体刑
⑥国家構成法:憲法規定・税制・訴訟
⑦国際法:ジハード・条約・捕虜

 こういう分類に何の意味があるのかはよくは解らないが、シャリーアはいわゆる法律よりもカバーする範囲が広いということを示しているのかもしれない。
 現在イスラム諸国でも近代法が適用されている領域があるという。
上記の①は現在でも有効、②と④は一部残存、⑤はサウジアラビアなど一部の国にのみ残存、⑥と⑦はイランの試みはあるが実行されていない、という。

 

シャリーアの内容

 

 こういうイスラム法はムスリムにしか適応されないが、ここから先は、異教徒の場合、信仰の自由、無神論者、棄教、タブー、聖戦などの話になるので、ここでは取り上げない。

3 ハディース Hadith

 コーランに次ぐ第二の法源(法の根拠のこと)はハディースと呼ばれる。コーランは神からムハンマドに下された啓示だが、ムハンマド自身が書き留めたわけではなく(6)、22年間にわたって口述していたものを周囲の人々が復唱し、暗唱していたものだ。「口承」だった。632年にムハンマドが亡くなるとこの口承を文書化しようとする動きがあちこちで生まれ、いろいろな文書が作られたようだ。結局、ムハンマドの直弟子の第三代カリフ ウスマーンによって欽定コーランがつくられ(ムハンマド死後19年の651年)、これが現在のコーランの原本になっているようだ(7)。

3-1 ハディースとは何か

 原意は「新しいこと」(ニュース)を意味するという。転じて、「伝承」と呼ばれる。中身はムハンマドの言行録で、弟子たちが書き留めたものだという。多くはムハンマドの奥さん(後妻)が聞き伝えたものらしいが、そもそもいくつあるのか全体の数量もはっきりしないようだ。4000とか7000とかいうらしい。
 これは事実上のイスラム教の教義の体系らしいが、あくまで個人の収集記録の集合にすぎないという。イスラム教には、キリスト教のように公会議も無ければ、教皇もいない。つまり教義を決める機関が存在しないので、個人が作ったハディースが集積されていく形になっているようだ。これらを整理し、確定する者としてイスラム法学者が登場してくる。

 例えば、コーランには「礼拝せよ」と書いてある(8)。ではどう礼拝するのか、しなかったらどうなるのか、などなど具体的なことはさっぱり書かれていない。これらを明らかにしていくのがハディースであり、イスラム法学なのだという。

 ハディースには二つの部分・構成要素があるという。

①イスナード Isnad :伝承者の列記(系譜)(誰から聞いたか、その人は誰から聞いたのか、さらにその人は誰から聞いたのか・・・を延々と名前を列記する部分らしい)
②マトン Matn :伝承の本文

 内容も重複したりしているが、無数の個人が作ってきたハディースが大量に存在するらしい。イスラム法学が無ければ整理がつかないのであろう。したがって日本語への翻訳もいろいろあるようだ。

ハディース

 


3-2 ハディースの収集と成立

 ムハンマドの死後、ムハンマドについての種々の知識が伝承され、8世紀にズクリーによって初めて収集記録された。当然多くの偽作も出現した。ハディース学者の努力で集大成され、9世紀にはブハーリーというイスラム学者が集めた『ハディース』が生まれる。

 これはムハンマドの「スンナ」(範例、慣行)が具体的に確立したことを意味するという。スンナとはハディースに体現されたイスラームの行為基準のことをさすらしい。このムハンマドのスンナに従う者をスンナ(スンニー)という。スンナ派(スンニ派)のことである。これが正統とされ、これに従わないシーア派は異端とされていく。

 次回はイスラム法学にふれてみる。

 

 


1 近代法とは、「西欧」で発展した「近代市民社会」を支える法体系と考えておこう。市民社会の無いところに近代法は必要ない。市民社会の基盤としての契約観念、私有財産制、自由と人権の思想などがあげられる。権力分立(三権分立)も要求されるが、議会制や民主主義は近代的法秩序の構成要件とまでは言えないようだ。ムスリムから、なぜ憲法を持つ必要があるのか、なぜ議会が必要なのか、なぜ選挙が必要なのか、なぜ基本的人権が重要なのか、と問われたとき、われわれは答えを用意しておかなければならない。
 中田考氏は「法律はしょせん人の決めたものです・・・法律とは人による人の支配の道具です・・・これはイスラームの教えからは遠い」と述べている(『イスラーム・生と死と聖戦』34頁)
2 法(Recht)・法律(Gesetz)は「社会規範」の一つと説明されることが多いが、何が規範かは学問によって示す範囲が異なるようだ。「道徳」と「法」との区別を強調する学問が多いようだ。社会学では、行為理論からみれば、社会規範とは社会集団が要求する同調行動の当為命題のことをさす。価値観から規範の内面化まで広い範囲を含む幅広い概念なので、道徳と法以外にも慣習も含む用法が多い。法学では、特に実定法(人定法)の世界では、もっと狭い意味で使われるようだ。
3 判断や行為の根拠を人間の理性や意志では無く、神に置くべきだという思想が持つ意味は、宗教的・神学的問いと言うよりは哲学的な問いに近い。
4 「法源」論では、①コーラン(啓示) ②ハディース(言行録) ③キャース(判例) ④イジュマー(類推)、と区分することが多いようだ。法源としてのキャースやイジュマーの概念は興味深いので、別の機会にふれてみたい(「井筒俊彦全集」 第7巻 「イスラーム文化」所収  『コーランを読む』 2014(1983) 慶應義塾大学出版会)。イスラム研究の第一人者とも呼べる井筒氏はこの講演で、イスラム教が平和の宗教・愛の宗教であることを繰り返し強調している。井筒氏(1914-1993)はイスラム国を知らなかった。時代の変化を感じざるを得ない。
5 近代法の体系は、教科書風に言えば、①命令 ②禁止 ③授権 ④制裁 と言われるようだ。細かいことはわたしにはわからない。特に革新系の憲法学者の議論は難しすぎるし、一面的説明の印象を受ける(村上淳一『近代法の形成』2016、長谷部 恭男 『法とは何か』2015)。
6 ムハンマドは文盲だったと言う説がよく流される。文盲なのにモーセ5書も、詩篇も理解していたことになっている。文盲説はあまり当てにならないのかもしれない。
7 一番古い写本がいつごろのものかはわたしにはわからない。651年の「ウスマーン写本」は5本あるとも2本とも言われるようだ。マルコ福音書は紀元70年頃成立したと言われる。イエスの死後30数年後とすればコーランの成立は早い(時間が短い)。パウロのテサロニケの信徒への書簡は51年頃と言われるので、期間は同じくらいか(死後20年後くらい)。
8 コーランで最も重要とされる「開扉」の章(メッカ啓示・全7節)をみてみよう。井筒俊彦氏から引用する(『コーランを読む』第2講第4章)。キリスト教で言えば主祷文のような位置づけらしい。

慈悲ぶかく慈愛あまねきアッラーの御名において・・・・

1 讃えあれ、アッラー、万世(よろずよ)の主、
2 慈悲ふかく慈愛あまねき御神、
3 審きの日の主宰者。
4 汝をこそ我等はあがめまつる、汝にこそ救いを求めまつる。
5 願わくば我等を導いて正しき道を辿らしめ給え、
6 汝の御怒りを蒙る人々や、踏み迷う人々の道ではなく、
7 汝の嘉し給う人々の道を歩まし給え。

 韻が踏まれた、きれいな祈りで、井筒氏の訳文に感嘆する。祈りの内容も「主の祈り」を彷彿とさせる。

 

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