今月の学びあいの会のテーマは、「奇跡物語伝承」についてであった。
今日では、「奇跡」について語ることは難しい。かっては、といっても第二ヴァチカン公会議前後までだが、奇跡物語は信仰への入口だった。洗礼への導きだった。だが現在は、マジックと同一視されるか非科学的だと無視されるかだ。「スピリッチアル」や「厄除け」への関心はあっても、奇跡への関心はない。川中師の講義を中心にあらためて奇跡についての教会の議論を整理しておきたい。
川中師によると、ゲーテはかって「奇跡は信仰の最愛の子」と語ったという。奇跡は信仰への入口だった。ところが、ラッチンガー(ベネディクト16世)は「奇跡は信仰の問題児」と述べて、非神話化論に言及したという。奇跡を、信ずるか否かと問うのではなく、現代の聖書学が新約聖書の奇跡物語をどのように分析しているかを見てみたい。
今日は聖書をかたわらに、奇跡物語を一字一句一緒に読み合わせながら共観福音書を比較した。少し細かい引用が入るので読みにくいが、ご勘弁いただきたい。考えてみれば、われわれカト研のメンバーもかまぼこ校舎の部室で同じようなことをしていたのを思い出す。
1 奇跡物語の分類
新約聖書中の奇跡物語は大きくみて三つに分類されるという(1)。この分類は奇跡を理解する上で重要なので、きちんと整理しておきたい。
①治癒奇跡
具体的には、病人の治癒と悪霊の追放だ。病人の治癒の話ははマルコに多く、1:40-45、2:1-12、5:25ー34,7:31-37,8:22-26などだ。悪霊の追放は同じくマルコ1:34,5:1-20などだ。「病」を治すことがいかに重要なことであったかを示している。「病気」と「貧困」、これがイエスが一貫して取り上げた論点だった。
②自然奇跡
自然奇跡とは「嵐鎮め」と「湖上歩行」の物語のことだ。嵐鎮めはマルコ4:35-41だが、そこでのイエスの言葉は福音書ごとに違う。なぜ異なるのか。聖書学者はいろいろ議論しているようだ。湖上歩行は一番有名な物語だろう。マルコ6:45-52だ。自然奇跡は病気を治すこととは違う。同じ奇跡でも対象が異なる。
③供食奇跡
供食奇跡とは、パンを増やした話だ。マルコ6:30-44が有名だが、共観福音書すべてに出てくる話だ。しかもマタイとマルコは二回もこの話を記している。よほど伝承に残るほど重要な出来事であったのであろう。
2 奇跡物語の発展
奇跡物語は最初の出来事の伝承から発展していく。元々の伝承は「史的核」とか「最古層」とか呼ばれるが、やがて編集が入っていわゆる「様式化」が始まる。様式化とは物語の「構成」が作られ、やがて「拡大・発展」させられていくプロセスのことを意味するようだ。
①史的核(最古層)
これは一番最初の出来事だ。イエスが人々を「癒やす」出来事だ。
「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ4:23)。
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた(」マタイ9:35)。
これは、イエスが実際に病人たちと接触したことを示している。恐らくは不可蝕の病人たちであっただろう。イエスは病人にさわる。癒やすとは触ることから始まったのであろう。
②様式化
まず、奇跡物語が構成されてくる。病人の治癒や悪霊の追放の話が口伝えに広まる。そして文字で記されていく。マルコ1:34や、マタイ8:16などだ。
やがて、奇跡物語は拡大発展させられ、イエスは偉大な奇跡行為者として描かれていく。
荒井献氏は著『イエス・キリスト』(下)で次の4点を挙げているという。①奇跡行為におけるイエスの主導権の拡大②奇跡行為の誇張③治癒された者への関心の喪失④奇跡行為者イエスの偉大さの強調。この特徴づけの妥当性はわたしにはわからないが、川中師の視点でもあるようだ。
3 治癒奇跡物語
ここは、マルコ1:40-44を各行ごとに分析することで説明される。
「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来て」・・・これは「出会い」の場面という
「ひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになりますように」と言った」・・・これは「懇願」と呼ばれる
「イエスは深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、」・・・ここは中心部分で、治癒の行為・活動を描いている 「深く憐れんで」が重要な表現らしい
「よろしい。清くなれ」と言われると、」・・・これはイエスの「言葉」だ。治癒の行為と並んで中心部分となっている
「たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」・・・これは治癒行為の確認である
「イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーゼが定めたものを清めのために捧げて、人々に証明しなさい。」・・・これは治癒行為の実証であり、終結場面となる
「出会い・懇願・行為・言葉・確認・実証」という構成だ。こういう文章の作り方は聖書にはよく見られるらしい。
ここは史的核(最古層)はどのようなものだったかを想起させる。このマルコを、マタイ8:1-4、ルカ5:12-16と較べてみよう。同じ病人の癒やしの話でも、「深く憐れんで」はマルコにのみ見られる。マルコを下敷きにしたマタイやルカはなぜこの表現を省いたのか。マルコは奇跡を救いの徴(サイン)と見ていたのかもしれない。
川中師はここから、二つの論点を取り出す。
①まず、「イエスが深く憐れんで」を、イエスが貧しい者の側にたっていることの証とみる考え方だ。この視点は佐藤研『聖書時代史』(2003)のような徹底した非神話化論者に特徴的な視点のようだ(2)。
②他方、イエスによる癒やしの体験は、つまり奇跡は、単なる超常現象ではない。それは、人々がイエスと出会ったことで知った根本的な「解放体験」を示しているという理解だ。
川中師はこの二つを対比的に論じておられて断定的な評価はしておられない。私は印象的に言えば、治癒行為を、科学的には説明できない超常現象とみるかどうかは重要なことではないと思う。イエスが人々と深くかかわり、憐れみを受けた人々が「変化した」、「解放された」と思ったこと、その体験が重要なのだと思う。福音書はそれを伝えたかったのだと理解したい。
自然奇跡の物語は次稿にまわしたい。
注1 旧約聖書の奇跡物語はモーゼのエジプト脱出が中心となる(出エジプト記7-18章)が、これは別のテーマである。
注2 非神話化論をどう評価するかは難しいが、あまりに極端な非神話化論もあるので注意が必要だ。ちなみに佐藤研氏は、聖書研究は信仰とは関係ない古文書研究の一つと考える立場のようだ。