日本聖書協会の「共同訳 続編付き・引照 注付き」を購入した。パラパラと読み始めた。サイズは中型(B6版)だ。持ってみると新共同訳より少し軽い感じだ。紙質が変わったのかもしれない。
新共同訳との違いは、小冊子「特徴と実例」に触れられているが、少しだけ印象を記しておきたい。
第一印象はやはり、なぜ「共同訳」という名称を使うかだ。どうしても「新共同訳」以前の「共同訳」を思い出してしまう。「新新共同訳」では収まりが悪かったのであろう。
第二印象は、とにかく読みやすい。「スコポス理論」を使って、「朗読用」の翻訳文だという。スコポスとは目的という意味らしく、朗読という目的に合わせて訳した、という意味らしい。ごミサでの聖書朗読は「聖書と典礼」を見ずに耳で聞くだけの人が増えているというが、これは朗報だ。これで、意訳だ直訳だという議論をしなくて済むようになる。
第三印象は、最近の聖書学の知見が反映されているという。細かいことは分からないが、これは訳文に面白い変化をもたらしているようだ。好きか嫌いかは評価はわかれるだろうがおもしろい。
たとえば、小冊子でも説明されているが、旧約では、創世記1:27は、「神のかたち」となっている。新共同訳やフランシスコ会訳では「自分にかたどって」と訳されていた。あれこれと考えが湧いてくる。
創世記と言えば出だしだが、この共同訳は「初めに神は天と地を創造された」だ。フランシスコ会訳と同じだが、「点、コンマ」がない。一気に読め、ということだろうか。新共同訳では「初めに、神は天地を創造された」だ。「天と地」ではなく、「天地」となっている。違いがあるのだろうか。
強烈な印象はやはり、神の名前だ。神は名前を持たない。だが、出エジプト記3:13で、神は名乗る。ここは、今回の訳は、「わたしはいる、という者である」。フランシスコ会訳では「わたしは『ある』ものである」だ。新共同訳では、「わたしはあるという者だ」だ。「ある」から「いる」に変わった。「いる」とはどういうことなのだろう、と考え始めたらキリが無い。
新訳では多くの変更があるようで、「特徴と実例」にも例示されている。わたしが印象深かったのは、「イエス・キリストへの信仰」(ロマ書3:22)だ。これはフランシスコ会訳だ。新共同訳では「イエス・キリストを信じる」となっている。これが、今回の共同訳では、「イエス・キリストの真実」となっている。「信仰」と「真実」。違いはよく分からないが、よほど神学的な意味がこめられているのであろう。
興味深かったのは真福八端(マタイ5-7)だ。同じともいえるし、違うともいえる。たとえば、「柔和な人々」(新共同訳)は複数形だし、「柔和な人」(フランシスコ会訳)は単数形だ。これが今回の共同訳では、「へりくだった人々」となっている。聞いてわかりやすいと言えばわかりやすい表現だ。
そのほか、「嗣業」から「相続」へとか、動植物の名前とか、色々変わったようだ。また、さすが「イエズス」は出てこないが、わたしが一つ分からなかったのは、「規定の病」だ。たとえば、マタイ8:2だ。新共同訳でもフランシスコ会訳でも「皮膚病」と訳されていた部分だ。バルバロ訳ではかって「らい病人」と訳されていたところだ。英語の聖書ではleperと訳されることが多いらしく、文字通りの病名のようだ。今回の「規定」とは、どうもこの病は明白ではないので、「旧約聖書に規定されている病」という意味で「規定」という言葉を使っているように見える。わたしにはピンとこないが、聖書の翻訳にもポリティカル・コレクトネスの思想が入ってきているのであろう。この訳語がどう定着していくか、見守っていきたい。
まだ購入されていない方は「続編付き」をお求めください。あまり読む機会が無いとは言え、無ければ困ることも多い。