カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

「聖書協会共同訳」を購入し、驚く

2018-12-15 12:25:29 | 教会


 日本聖書協会の「共同訳 続編付き・引照 注付き」を購入した。パラパラと読み始めた。サイズは中型(B6版)だ。持ってみると新共同訳より少し軽い感じだ。紙質が変わったのかもしれない。

 新共同訳との違いは、小冊子「特徴と実例」に触れられているが、少しだけ印象を記しておきたい。
 第一印象はやはり、なぜ「共同訳」という名称を使うかだ。どうしても「新共同訳」以前の「共同訳」を思い出してしまう。「新新共同訳」では収まりが悪かったのであろう。

 第二印象は、とにかく読みやすい。「スコポス理論」を使って、「朗読用」の翻訳文だという。スコポスとは目的という意味らしく、朗読という目的に合わせて訳した、という意味らしい。ごミサでの聖書朗読は「聖書と典礼」を見ずに耳で聞くだけの人が増えているというが、これは朗報だ。これで、意訳だ直訳だという議論をしなくて済むようになる。

 第三印象は、最近の聖書学の知見が反映されているという。細かいことは分からないが、これは訳文に面白い変化をもたらしているようだ。好きか嫌いかは評価はわかれるだろうがおもしろい。
 たとえば、小冊子でも説明されているが、旧約では、創世記1:27は、「神のかたち」となっている。新共同訳やフランシスコ会訳では「自分にかたどって」と訳されていた。あれこれと考えが湧いてくる。
 創世記と言えば出だしだが、この共同訳は「初めに神は天と地を創造された」だ。フランシスコ会訳と同じだが、「点、コンマ」がない。一気に読め、ということだろうか。新共同訳では「初めに、神は天地を創造された」だ。「天と地」ではなく、「天地」となっている。違いがあるのだろうか。
 強烈な印象はやはり、神の名前だ。神は名前を持たない。だが、出エジプト記3:13で、神は名乗る。ここは、今回の訳は、「わたしはいる、という者である」。フランシスコ会訳では「わたしは『ある』ものである」だ。新共同訳では、「わたしはあるという者だ」だ。「ある」から「いる」に変わった。「いる」とはどういうことなのだろう、と考え始めたらキリが無い。

 新訳では多くの変更があるようで、「特徴と実例」にも例示されている。わたしが印象深かったのは、「イエス・キリストへの信仰」(ロマ書3:22)だ。これはフランシスコ会訳だ。新共同訳では「イエス・キリストを信じる」となっている。これが、今回の共同訳では、「イエス・キリストの真実」となっている。「信仰」と「真実」。違いはよく分からないが、よほど神学的な意味がこめられているのであろう。

  興味深かったのは真福八端(マタイ5-7)だ。同じともいえるし、違うともいえる。たとえば、「柔和な人々」(新共同訳)は複数形だし、「柔和な人」(フランシスコ会訳)は単数形だ。これが今回の共同訳では、「へりくだった人々」となっている。聞いてわかりやすいと言えばわかりやすい表現だ。
 そのほか、「嗣業」から「相続」へとか、動植物の名前とか、色々変わったようだ。また、さすが「イエズス」は出てこないが、わたしが一つ分からなかったのは、「規定の病」だ。たとえば、マタイ8:2だ。新共同訳でもフランシスコ会訳でも「皮膚病」と訳されていた部分だ。バルバロ訳ではかって「らい病人」と訳されていたところだ。英語の聖書ではleperと訳されることが多いらしく、文字通りの病名のようだ。今回の「規定」とは、どうもこの病は明白ではないので、「旧約聖書に規定されている病」という意味で「規定」という言葉を使っているように見える。わたしにはピンとこないが、聖書の翻訳にもポリティカル・コレクトネスの思想が入ってきているのであろう。この訳語がどう定着していくか、見守っていきたい。
 まだ購入されていない方は「続編付き」をお求めください。あまり読む機会が無いとは言え、無ければ困ることも多い。

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