3・5 神の国の福音
では、神の国の福音とは何か。福音とは、ギリシャ語でエウアンゲリオン euaggelion で、エウ は「よい」、アンゲリオン は「知らせ」で、「よい知らせ」のことだ。 英語では、gospel , good news などというらしい。日本語では「福音」と訳される。この訳語に好き嫌いはあるだろうが、現在は定着しているとみてよさそうだ(注1)。
神の国の福音はマルコ1・15に凝縮されている。
イエスがガリラヤで伝道を始められたときの言葉だ。
14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、そして言われた。
15 a 「時は満ち、
b 神の国は近づいた。
c 悔い改めて
d 福音を信じなさい」
このマルコ1・15を、川中師は大貫隆説を援用して二つの側面、①神の呼びかけ、②人間の応答 、に分けて説明される。
1)神の呼びかけ
前半の「時は満ちた 神の国は近づいた」は神からの呼びかけだという。
(a 時は満ちた)
「時は満ちた」を大貫氏は「今この時は満ちている」と訳している。「時は満ちた」は「現在完了形」で「中動態」だからだという(注2)。これは、「時」(「時間」)の捉え方の変化を示しているようだ。つまり、「時間」には「クロノス」(直線的・水平的時間)だけではなく、「カイロス」(点的・垂直的時間)があり、イエスの登場によって時間がカイロスになった(注3)。
①クロノスとしての時間
これは我々が普通時間とよんでいるもので、直線的・水平的な時間のことだ。「時間が流れる」というときの時間だ。時計が連想される。
②カイロスとしての時間
点的・垂直的時間のことで、大貫隆氏は「全時的今」と訳しているという。イエスの登場がもたらした時間だ。
「この『今』は、過去から現在へ、現在から未来へと流れる線状的な時間(クロノス)の一コマではなく、それを垂直的に切断して現れている『今』である」(大貫隆『イエスという経験』88頁)。
わたしの言葉で言えば、クロノスは「縦断的」時間で、カイロスは「横断的」時間のことのようだ。「主」が「歴史」に直接「介入する」瞬間を思い起こさせる。われわれはクロノスの時間を生きながら同時にカイロスの時間も生きていることになる。
(b 神の国は近づいた)
これも現在完了形だという。このため、「神の国」の「現在性」を強調するか、「未来性」を強調するかで、考え方が分かれてくる。神の国の現在性を強調すれば、神の国は「もう(既に)」来ている、ことになる。その未来性を強調すれば、神の国は「まだ(未だ)」来ていない、待っている、ということになる。
・「現在性」(Gegenwart):現在における神の国の開始が強調される
「しかしわたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11・20)。
「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12・28)。
つまり、イエス・キリストの出来事は「神の国」の開示であり、神の国とイエスの存在が密接不可分な関係にあることが主張される(注4)。
・「未来性」(Zukunft):終末における「神の国」の最終的実現が強調される
「御国が来ますように」(ルカ11・2)
「御国が来ますように」(マタイ6・10)
これは明らかに未来のいつの日かに終末が来て神の国が実現されるという祈りだ。終末思想を見て取ることができる。
このように、神の国の実現を現在とみるか未来とみるかは大きな違いだろう。だが、専門家はこの違いを強調するよりは、むしろこの「神の国」概念の中にその両側面が含まれているという点を強調するようだ。川中師も、大貫隆氏にならって、「現在性と未来性の緊張関係」と説明している。「もうとまだの緊張 Spannung zwischen 'Schon' und 'Noch nicht'」と言われる(注5)。緊張関係といわれてもよくわからないが、イエスがどちらに比重を置いて理解し、説明していたかはわかりません、ということなのであろう。
2)人間の応答
上記マルコ1・15の福音の後半、「悔い改めて 福音を信じなさい」は人間の側からの応答だという。
(c 悔い改めなさい)
これを大貫隆氏は、「回心しなさい」と訳す。ギリシャ語のメタノイアを「悔い改め」ではなく「回心」と訳す。悔い改めも回心もともに自分の罪を認めて神に心を向け直すことを意味するが、回心の方がより行為の能動性が強調されるようだ(注6)。大貫氏は、回心は「イエス・キリストの出来事に対する人間の根本決断」と言っている。
(d 福音を信じなさい)
福音とはエウアンゲリオン(エヴァンゲリオン)のことだ。
マルコ福音書は衝撃的な言葉で始まる(注7)。マタイにもルカにもない書き出しだ。
「神の子イエス・キリストの福音の初め」(マルコ1・1)
これは二つの意味を持つ。
①イエス・キリストの福音とは、「宣べ伝える者」であるイエスの福音を指し、
②他方、イエス・キリストについての福音であって、「宣べ伝えられる者」としてのイエスの福音をも指す。
イエスは、宣べ伝える者であり、同時に、宣べ伝えられる者、でもある。福音はこの両方を語る。だから、福音とは結局イエス・キリストの出来事の全体を表す「総括概念」になるのだという。
川中師は、結論的に、「神の国とは、イエス・キリストの出来事において開示される超越的次元」のことだとまとめておられる(注8)。ちょっと抽象的でピンとこないが、その例として、師は、病人の癒やしと悪霊の追放(ルカ7・21)、徴税人や罪人との会食(マタイ9・10)、イエスによる癒やしの体験(ルカ7・22)、の三カ所をあげて詳しく説明されている。個別にフォローする紙幅はないが、要は神の国とは神の愛のことですよと言われているようだ。
注1 エウアンゲリオンは本来「福音」のみを意味していたようだが、2世紀以降正典福音書が4つに限定されてくると、書物としての「福音書」も意味するようになったようだ。英語のgospelも両方を意味しうるのだろうが、日本語では「福音」と「福音書」は別の単語を使わざるを得ない。
注2 日本語は時制があまりはっきりしないのでうまく訳せないようだ。「時は満ちた」という日本語の表現は、現在も満ちているのか、満ちた出来事はもう終わっているのか、区別が難しい。現在完了形がどこまでの過去と未来を含むかは言語によって異なるのかもしれない。
また、「中動態」(能動態でも受動態でもない態)もギリシャ語とともに滅びたようなのでわたしにはわからない。もちろん日本語にはない。再帰動詞がその名残という説もあるようだが、日本語には当てはまらないだろう。現在は主に哲学用語として用いられているらしい。
注3 クロノスという直線的な時間観念はキリスト教独特なのかもしれない。歴史とともに、時間とともに、世界は進歩発展する、という近代主義の思想はこういう時間観念がなければ出てこない。多くの日本人がもつ輪廻的世界観とは別の時間感覚である。他方、時間は空間の函数でしょと茶化されると困るが、時間をカイロスとして捉えるのもキリスト教独特の時間観念のようだ。
注4 イエスのおこなったかずかずの「奇跡」は、合理的・科学的な説明ができない荒唐無稽の出来事というより、既に神の国が始まったことの証しとして捉えることもできるのだろう。特にプロテスタント系聖書学者にはこういう説明をとる人が多いようだ。チャールズワースはこう断定している。「イエスは奇跡をおこなった」(『史的イエス』245頁)。
注5 わたしの素人考えで言えば、終末はいつまで待っても来なかった。2000年待っても来なかった。だが、イエスの言葉は重い。「その日、その時は、誰も知らない。天の使いたちも子も知らない。父だけが知っておられる。気をつけて目を覚ましていなさい」(マルコ13・32-33)。
注6 Metanoia。 英語ではconversion。ドイツ語でBekehrung。ただあまりに能動性を強調すると「悔改め」が神の恵みなのか、人間の意志なのかという大論争につながる。なお、発音だけを聞いていると、「回心」を「改心」と誤解する人もいるようだ。改心は悪い心がけを改めるだけで、別に神の存在を必要としない。日本語は難しい。
注7 「~の初め」は聖書によく出てくる。創世記の書き出しは 「初めに、神は天地を創造された」だ。初めは宇宙の初めでもあるし、聖書の初めのこともある。
注8 「超越」という言葉もよく聞くが実はわたしはよく分からない。 Transcenence と英語にされると、なにかものごとを「超えるもの」として人間の上にある、外にあるというニュアンスがつきまとい、例えば、神も仏も「超越者」だ、「絶対者」だと言われるとなんとなく分かった気分になる。でもこれは誤りだ。神学では、超越は、神が人間に恵みを与える内在的な働きをも同時に意味する。つまり、超越は「超越性」と「内在性」の両方を含んでいる。「存在」「善」「真」「一」などを超越概念というとき、この超越の内在性を忘れると意味がちんぷんかんぷんになる気がする。でも、神学ではなく、哲学の世界ではまた理解が異なるのかもしれない。