児童らの御霊に合掌!
日本大震災における人災の最たるものが「大川小の悲劇」である。
このブログでも当時再三にわたって書いてきたが,判決は拙の批判内容におおむね沿ったものであるといえよう。
この悲劇は避難先を巡る教職員の対立にある。
マニュアル通りに行動しようとする教頭と山に避難しようとした教務主任の意見の対立であるといっておこう。
結果は学校事情に通じていたであろう教務主任の意見が明らかに正しかったのである。
その意見を無視したのは教頭である。その教頭が亡くなってしまっているのでことの詳細はわからないだろうが,その教頭の判断によって,児童が亡くなったことをもってこの教頭がいかに無能であり,型通りにしか考えることしかできなかったが証明されよう。
以下は拙の予想である。
校内2位の職位の教頭は同3位の教務主任の意見を聞くことはできなかったのだろう。
学校でことの判断を最終執行するのは,校長がいないときは教頭である。管理職ではない教務主任は意見を言うだけである。
この教頭にすれば自分の判断こそが正しいと思うしかないのであるが,彼には教務主任の意見を聞き入れるだけの客観的判断力,度量がなかったのだろう。
ここで教務主任がその職位を越えて,教頭が判断する前に,児童に呼びかけ山への避難を実行していれば亡くなったのは教頭派の員数ですんでいただろう。
ここで問題になるのは学区に精通している教務主任の意見を無視する学校体制にあるのではないか?またそのような愚かな判断しかできない者を管理職にした県教委の選抜システムに問題があるのだということを指摘しておこう。
今後,別の被害者グループが裁判を起こすことがあれば,この無能管理職選抜システムも併せて問題にした方がいいのではないか?
ネットにはこの教頭の知人がとてもよい方であるとの意見を上げているが,誰しも極限に立たなければ,普段はよい方であろう。
しかし,管理職というのはすべての結果責任をおうのがすじなのだ。それができないのであればなるべきでないのである。
その意味で大川小の悲劇がこの教頭の判断ミスであるということができるのだ。そして私事を優先していた校長の責任も決して小さくはない。なぜなら,緊急時に備えて教頭に具体的指示をしていなかったのだから。
いかに管理職は無能かを証明してしまったのが大川小の悲劇の別の側面である。
もちろん当時適切な判断をされた校長がほとんどあったことは言うまでもないが。