よもやま解体新書

山下和也の制作、見聞記. 北へ西へ南へ。

向かうところの向こう側

2009-10-31 10:34:05 | Weblog
先週、アサヒビール大山崎山荘美術館の「民芸と仏教」、大阪市立美術館の「道教の美術」と国立国際美術館の「長澤英俊 オーロラの向かうところ」を観にいく。

アサヒビール大山崎山荘美術館は自身の病み上がりもあってゆっくりと過ごしたいと思って庭の散歩、大きな革のソファに座って読書と実にゆっくりと過ごさせていただいた。モネの睡蓮の部屋もジョー・ナカジマ?らしき椅子に座りボーッと眺めているのもいい。病み上がりの身体が見せる景色はどこかいつもの景色とは違うように感受性を働かせているようだ。普段は行かない山崎聖天さんにもお参りに。普段は掛け持ちで他のところへ行くのでなかなか行くことがなかったのである。
美術館から見える三重塔のあるのがそこである。
閻魔堂には鎌倉期の立派な閻魔などの像がある。これは閻魔堂ができるまで京博にあったもので、指定文化財でもある立派な像である。
また本堂には見事な十一面観音立像があり、脇の毘沙門天も若々しいお顔だが、古格がありなかなか素晴らしい。思わぬ立派な御像にであえて嬉しく帰宅。

翌日は大阪市立美術館の「道教の美術」へ。道教と仏教の影響関係とそれらが日本に与えたものが俯瞰できる。内容が濃く、あまり見ることのないものも多くみることが出来、充実していた。また、常設に中国絵画の水墨山水図巻が3点でていたが、これもなかなか良かった。
国立国際美術館の「長澤英俊 オーロラの向かうところ」は立体造形作家らしく空間の使い方が特に興味深かった。そして暗闇を歩き体感する「オーロラの向かうところ」はとても静かで瞑想的な時間を体感できる。大理石柱のあいだを鑑賞者のシルエットがゆっくりと動く。何もない空間へと足を誘い、静かな闇の持つ力を再認識させる。その中を歩くことは歩きながら瞑想するその儀式に近いものがある。外界がほぼシャットアウトされた闇の中を歩くことは、みることよりも体感することがまず迫ってくるのだろう。
みること、体感すること、思うこと。これらはすべてその対象がもつ向こう側への導線である。思考を促す作品が占めるなか、この体感する空間は作家の意図よりも個々の豊かな体験を鑑賞者に与えるものとなっている。
向こう側にあるものは、おそらく不可視の気配として、感じられたのではないだろうか。





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