よもやま解体新書

山下和也の制作、見聞記. 北へ西へ南へ。

クリスマスを前2

2009-12-24 06:59:08 | Weblog
クリスマス気分の演出に、ちょっと落書きしてみた。
聖母子像って内容が明解なのかなぁ。慈愛のかたち。わかりやすく内容そのもの。
だからこそ、広がりがある。様々な聖母子像が作り出される。
まずはメモ紙にペンで簡単にドローイング。

クリスマスを前に☆

2009-12-20 21:06:25 | Weblog
恩師の林潤一先生のグループ展が高島屋で開かれていた。
先生は去年退官された。そのパーティーに出席した際の先生の教え子達に向けた一言が印象的だった。
「これからも皆さんに案内状を送り続けられるように、益々制作に励みます。」
ひと昔、日本画壇では何歳まで若手や新鋭なんだ?という冗談を言ったが、実に若々しいこの宣言は印象的だった。
お忙しいので展覧会でお会いした事はないが、年賀状やDMを送らせていただいている。先生の小品に普賢象桜という葉付きの桜が展示されていた。
そんな名前の桜があるのかと関心しながら、その白にピンクの紅がさした花びらを見る。八重桜のようだが、もしこの桜の花が咲いているなら、見てみたいものだと思った。

シカマファインアーツで聖歌譜を展示していた。13~19世紀のものだという。展示数は空間からしてすっきりとしたものだが、心地よさがあった。
その脇にいたビクトリア朝のワニの胡桃割りがかわいらしい。中国茶の喫茶、好日居でもクリスマス市をしてイコン等が出るらしいので見てみたいと思う。
画像は自宅に飾っている1653年ヴェニス判グレゴリオ聖歌譜のシンプルなもの。いづれ自作のイコンかマリア観音と併せてみたいと思っている。

その流れではないが、クリスマスライブにでも行くかな~、とビルボードライブへ大野さん率いるルパンティックというJAZZバンドを聴きに行く。
ライブの一体感や空気感っていいな~と馴染みのルパン三世の曲で愉しんだ。

なんだかんだ年末だな~と実感するのでした。

あるき、あるいて

2009-12-15 20:29:06 | Weblog
安土の考古博物館で琵琶湖文化館が過去に携わって来た文化財修理の展覧会が開かれていた。
本格的な修理から応急修理まで、陳列された作品のキャプションには作品解説の後、簡略にどのような処置をおこなったかが説明されていた。
なかなか面白い企画でシンポジウムもあり、指定文化財の修理報告や滋賀の文化財に係わる行政や博物館などの諸分野からの発表があり、面白い内容だった。
両界曼陀羅(版本を元に絹で制作)を制作している大学の後輩から連絡があり、制作中の作品を見る。何かアドバイスをと言われ、猪木風にアドバイスした。

「迷わず行けよ。行けばわかるさ!」

とても勇気付けられたとのことで、猪木はなんかスゴイと思うのでした。

壊れた眼鏡を新調し、出来上がった眼鏡をご満悦。
近くで開催中の表展(京表具の展覧会)も見る。
数寄和 大津でお会いした中原さんの作品もあった。
帰りに禅林寺 永観堂へ。紅葉は盛りを少し過ぎたが、見返り阿弥陀と二十五菩薩来迎図が見たくて立ち寄る。
小品の漆下地の扉絵や絹本など、なかなか良かった。ただ、永観堂の建造物の復元彩色には若干複雑な気持ちになり、数枚の紅葉狩りをして帰宅した。

次週には母校で韓国の通渡寺壁画模写事業のシンポジウムがあった。日本、韓国、台湾でそれぞれ復元、現状、古色復元の模写を数年かけて行い、その成果報告の展覧会とシンポジウムだった。
韓国も台湾も共に学生時代からの友人で、久々の再会となった。
模写も発表も韓国は充実度が高く、また朝鮮王朝の仏画のながれをとてもわかりやすく丁寧に解説いただき、とても勉強になった。
午後のディスカッションも興味深かったが用事で帰宅。聴衆には模写や修理関係者が多数参加されていた。
同、博物館ではインドミニアチュールとその大正時代の木版画展があり、畠中光享氏と西真氏のコレクションが展示。良いものがたくさん見れた。

修理、表具、模写、復元、古画となんだか濃い内容だった。
束の間の年末に向けての大掃除が、とても穏やかな時間に思えたのが不思議。

ほほえみ

2009-12-05 09:07:51 | Weblog
久々に家に帰って来た。
というと何だか不審な話だが、しばらくホテル暮らしが続いたので、遅くなっても家に帰れることの嬉しさをとても身に感じる。

過ぎてしまえば早いものだが、この期間になにか変わったのだろうか。
山のいろは変わった。空気もひんやりしてきた。滋賀は奈良や京都よりちと寒い。歳の瀬が近づいている・・・。
里山の景色は美しく、月もきれいに浮かんでいた。それでもやはり、長くなればちゃんと自炊できる家の方がいいなぁ。

父に頼まれ干支の色紙を10枚かく。自分の年賀状もまだ手をつけていないのに、虎を10パターンかくなんて、なぜに父は僕にこんな課題を・・・。

あいまに円空と木喰展へ。
庶民達に近い距離のこの仏像は、実はその時代の仏像の革新を担う生きた仏教である。白隠や仙崖もしかり。キャラクターのつよい、キャッチ-な仏像達は儀礼などに使うというより、見ることや在ることの愉悦を楽しむように思う。
例えば仙崖のユルさや脱力感。木喰の満面の笑み。円空のミニマムな造形。白隠のメヂカラ。これほど特徴的であるという事は、図像的なアイコンはほぼ最小限。あるいはないといってよいものもある。確かに円空や木喰の仏像は、言われなければ尊像の区別がつかないものが少なくない。
意味ではなく、意義が存在そのものにあるのだ。
意味を説いても広大無辺の仏教は庶民には理解は難しいだろう。もはやホトケというアイコンのみが伝わり、手をあわせている。仏像は庶民の日々のささやかな祈りの受け皿であり、ホトケであるという事、うやまう行為がそれをホトケにしているのだ。

円空、木喰の仏像は神仏習合の要素があり、どちらも神仏ともつくる。
どちらもたいした差はない。区別もほぼない。
そして実はどちらも経儀にはないオリジナルの図像を生み出している。
それは、素朴で素直な願いの反映により生み出されている。

庶民の日々の祈りに応えるべく、一点一点手作りで大量につくり続けてきた。
そしてその祈りへの応答は微笑みであったのだとあの仏像達を見て思うのです。

父からの課題の色紙は親しい人達に贈られ、新年の家家に飾られるのだろう。

笑うこと、笑わせること。どちらも豊かなことですね。