展覧会が大津(滋賀)から東京に移動しました。
作品を描いていると、考えが整理されることもあれば、逆にシャッフルされることもあります。大津展で自分が取り組んだ「山水」をはじめて眺めてみた初日、「山水」に対する自分の捉え方がシャッフルされてしまいました。
展覧会によせて、僕は下記のような文章を寄稿していました。
・山水画という画題に取り組むということ
画題という括りをあえて使うのは、それをひとつのものさしとして日本画を検証し、可能性を探ることが目的です。古典的な画題にあえて取り組むのは、日本画を再構築するためのひとつの方法です。
山水画という画題は西洋にはありません。山水という言葉もなければ思想哲学もありません。山水画は東洋における世界観、宇宙観を表現しています。山水画は宗教芸術とは異なりながらも、世界をどうとらえるかという点において、どこか通じるものを感じます。そして、日本の山水画は、本流である中国とは別の個性を持った展開をしている点でも、興味深く感じています。今回の試みは、私にとって、現在における山水画の可能性に対する検証のはじまりとなるものです。
歴史的なことやその言葉のもつ意味を比較し、違いを認識することは大切なことだと思います。しかし、それとは別に、風景画と山水画との違いや中国と日本の山水画との違いを直感的にみて感じられるのは一体なぜなのでしょう。何をものさしとして、線引きするのでしょう。
会場に立ち、ただただ眺めていると、なんだかあらためてそう思いはじめたのです。
僕の描いた山水画は絵の中から生まれた山水です。手法としては私のこれまでの制作と同様に、いくつかの既存のイメージや古典技法を組み合わせてひとつの統一した画面をつくる。既存のイメージ(絵画や写真)の部分模写を行い、それらを融合させてあらたな作品を作るというものです。室町から近代までのイメージを組み合わせているので、山水から風景へと移行してゆく作品も含まれています。陳列している作品達のその幅で、見ていてふと思ったのです。これは、山水画なのか?
つづく
作品を描いていると、考えが整理されることもあれば、逆にシャッフルされることもあります。大津展で自分が取り組んだ「山水」をはじめて眺めてみた初日、「山水」に対する自分の捉え方がシャッフルされてしまいました。
展覧会によせて、僕は下記のような文章を寄稿していました。
・山水画という画題に取り組むということ
画題という括りをあえて使うのは、それをひとつのものさしとして日本画を検証し、可能性を探ることが目的です。古典的な画題にあえて取り組むのは、日本画を再構築するためのひとつの方法です。
山水画という画題は西洋にはありません。山水という言葉もなければ思想哲学もありません。山水画は東洋における世界観、宇宙観を表現しています。山水画は宗教芸術とは異なりながらも、世界をどうとらえるかという点において、どこか通じるものを感じます。そして、日本の山水画は、本流である中国とは別の個性を持った展開をしている点でも、興味深く感じています。今回の試みは、私にとって、現在における山水画の可能性に対する検証のはじまりとなるものです。
歴史的なことやその言葉のもつ意味を比較し、違いを認識することは大切なことだと思います。しかし、それとは別に、風景画と山水画との違いや中国と日本の山水画との違いを直感的にみて感じられるのは一体なぜなのでしょう。何をものさしとして、線引きするのでしょう。
会場に立ち、ただただ眺めていると、なんだかあらためてそう思いはじめたのです。
僕の描いた山水画は絵の中から生まれた山水です。手法としては私のこれまでの制作と同様に、いくつかの既存のイメージや古典技法を組み合わせてひとつの統一した画面をつくる。既存のイメージ(絵画や写真)の部分模写を行い、それらを融合させてあらたな作品を作るというものです。室町から近代までのイメージを組み合わせているので、山水から風景へと移行してゆく作品も含まれています。陳列している作品達のその幅で、見ていてふと思ったのです。これは、山水画なのか?
つづく