よもやま解体新書

山下和也の制作、見聞記. 北へ西へ南へ。

千円の石

2014-05-12 20:44:35 | Weblog
まさか千円で石を買うとは思わなかった。福岡の古道具屋さんで、私は石を買った。正真正銘、ただの石にしか見た目には見えない。でも、私は、この石に魅力を感じ納得して買って帰った。
私は、はじめて行くその店でとても素敵な石の手を見つけた。手触りや大きさも心地よく、おそらくは赤子の手であろう。店主によるとギリシャ時代の大理石の石だそうだ。次に形のよい銅製の水汲みを見つけた。これは漢時代だという。次に弥生時代の朱塗り土器とアフリカの赤土の土器を見た。弥生の壺は柔らかい形と色でなんともやさしい肌をしている。アフリカの壺はマサイ族の肌のように絞まってとても力強い。いろいろと面白いものを見せていただきながら、私は赤く柔らかい石を手にした。これが千円の石である。楕円形の真ん中に丁度親指がフィットする窪みがある。石肌はツルツルまではいかないが2000番のヤスリよりすこしさらっとしていらくらいである。これは縄文の石ですと店主は言う。これが何故縄文時代なのか?さっぱりわからなかったが、この石は石器だったのではないかとふと思った。窪みに親指をあてながら石の肌を眺めているうちに、このフォルムと肌と色が気になってきてついぞ買ってしまった。
つげ義春の無能の人が頭をよぎりながら、やきものを愛でる眼差しで私はその石を愛でていた。

ある店で「私、つい石を買ってしまいました。」と披露すると、「これはいいねぇ!これを見ながら、酒が呑める」と盛り上がった。不思議な世界である。

4月、醍醐寺宝物館へ

2014-05-12 20:09:47 | Weblog
今年は平安神宮の紅垂れと醍醐の桜を見に行きました。醍醐寺宝物館には立派な桜があります。

今回は宗達の舞楽図と等伯の柳の襖絵がお目当て。舞楽図は総金地であり、踊る身体空間である。金地という余白、踊る身体。私のもうりょう画に何かしらの示唆を与えてくれるに違いない!と、妄想する。描かれた当初、まばゆいばかりの金地の屏風は、どのような場所で使われたのだろう。音楽とともに今にも動きだしそうである。この金地は大地であり、空気であり、時間であり、光である。無限の光は闇であると、誰かの言葉を思い出す。等伯の柳はシャープでしなやか。損傷が著しいのに今もってその繊細な美しさが伝わってくる。この絵のオマージュである山口華揚の柳の絵も素敵です。

そういえば暫く円山の桜を見ていないなぁ。