よもやま解体新書

山下和也の制作、見聞記. 北へ西へ南へ。

2009-10-14 20:21:55 | Weblog
数寄和 大津という滋賀のギャラリーのブログ「すきわ草子」に、ご縁があって、時折僕の作品についてコメントしてくれている人がいる。
会期中の-mirror image-にも、初日に加えて先日も御高覧戴いたようでそのコメントがブログに掲載されている。
ブログなので、展評というより個人の感想なのだが、1~3と3つの記事にわたる導線で-mirror image-の作品にリンクしていく(あ)さんのコメントをちょっとご紹介。(つづく)とあるので、4,5・・・と更新されるのだろう。

http://sukiwaotsu.exblog.jp/

「愛のある眼 谷川徹三著、谷川俊太郎 詩・編」この夏、読んだ。この中に、このような一文があった。
…仏像が肉体的に生活の中に入り込んでいる。これは人間三十をこえなければ、本当にはわからない感情であることを、その後私は知ったのであるが、しかしそれによって私は、美の秘密というものに大きく眼を開かれたのである。…

という文章から始まり、3で-mirror image-と双頭仏との(あ)さんの対話になっていく。

http://sukiwaotsu.exblog.jp/

作品と人が対話して、心の世界が拡張していく。
不可解な謎ではなく、深く豊かな森のような謎として人の心に響いていくとしたら、なんと素敵なことだろう。
ふと立ち寄った場所で出会った空間や絵に、何かが引き寄せられて、そこで体験すること。
森は成長する。人の心の中で。

母子像の姿を見たとコメントがあったが、下絵では誕生仏であったのを本画では稚児像へと変えている。この仏画を制作する中で、ある時から狩野芳崖の悲母観音について考えていた。近代日本画つまり「日本画」の出発点と言われるこの作品の制作背景やプロセスを作家自身の心理状態やその後の倣画作品なども含めて対話していた。悲母観音については東京藝術大学の美術館の狩野芳崖-悲母観音への軌跡-展の図録でいろいろと論考されているので参考にされたし。
 
さて、この双頭仏は会場のプレスを読まれた方はわかると思うが、双頭盧舎那仏と命名している。
盧舎那仏は東大寺の大仏の正式名称であり、世界をあまねく照らす太陽を人格化した存在に起源を持つ。
「光の仏」を意味し、密教の最高尊・大日如来ももとを辿れば同じ尊格。
華厳経では盧舎那仏は宇宙と同体、もしくは宇宙の支配者たる究極の仏として描き出している。
この仏画はその盧舎那仏を双頭四臂に描き、鉢からは新たないのちが誕生している。
この二つの顔は見る人にはそれぞれどのようにみえるのだろう。おそらく日日違って見えてくるのではないか。因みに稚児に向かう方の顔は、額に白毫ではなく金色の眼が静かに開き始めている。

何故、双頭なのかという問いは、確かにこの図像の核心であることに違いない。
作者としては、いましばらくこの仏画を眺めながら考えていただきたいところである。





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2 コメント

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Unknown (数寄和 大津 あ)
2009-10-16 11:55:00
拝読、致しました。
有難うございます。
対話(向き合う)することは、
苦しくもあり、楽しくもありますね。(笑)
見えたときは愉しく、見えないときは頭を抱えます!!もう一つ、頭があれば…と思います。(笑)
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ハスの花 (数寄和 あ)
2010-05-15 16:00:29
ブログすきわ草子に、少し蓮華に触れた記事を書いてから、名古屋で拝見した仏さまのことを思い出しました。
そして、よもやま解体新書の森の記事を探し、私のコメントの苦と楽という字をみて……苦笑しました…。
お時間ゆるすとき、すきわ草子もご覧くださいませ。
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