以前からよく「山水画は描かないのですか?」と聞かれることがあった。
これは作品ファイルに北宗画の模写を掲載しているためであると思われる。
山水画の筆法は中国絵画および日本画の線を考えるうえで本当に勉強になった。
日本の古典絵画には様々な分類分けがされているが、それぞれ求める側の需要と作者側の受容の変遷は興味深い。
ところで、僕が山水画を初めて見た時の印象は嘘っぽさでした。どの作品も同じ様に見えてあまり違いがわからないと思いました。ただただ勉強不足と見聞の少なさが招いたものだったのですが、風景画が実景の面影を少なからず残しているのに、山水画には記号化された岩や松が反復されているように見えて、写真や空気遠近法に見馴れた初心のものにはつくりものに見えたのでした。
そう、この山水画というものはとりわけつくりものなのです。いくつもの景色を取り合わせてつくり、時には樹や山を、いや時空を含めて全ては筆によりつくられるアナザーワールドだったりするのです。
それは一見風景画のようにみえる山水画においても周到につくられるものなのです。山水画と風景画という観点から言えば、小野竹きょうは風景画と山水画を往環していて面白い。自然に対する深い洞察とデザイン力は素晴らしいです。
しかし、近代以前の山水画をみてみると、そのような深い洞察力から生み出す美とは別の美質を感じます。先達は何を観ていて何を描いたのでしょう。例えば雪村やしょう白のあの奇態な山、蕪村や大雅、浦上玉堂の文人画。あの山水達は一体何なのかということなのです。
風景画ではなく山水画を描こうと思う時、中国だけではなく日本の山水画をあらためて見直してみたいと思っています。