よもやま解体新書

山下和也の制作、見聞記. 北へ西へ南へ。

自然に学ぶ

2010-08-31 23:35:34 | Weblog
鹿児島初日。台風が3つも発生しているためか、雲の流れが速い。岩肌が露出し、見慣れない姿をした山並みが展開する。風が強くて樹々がダンスしている。開けた空が光の饗宴を繰り広げている。
自然に眼を開かれ、描いてみたいもの観てみたいものが拡がっていくのを感じます。

山水画

2010-08-22 21:27:49 | Weblog
以前からよく「山水画は描かないのですか?」と聞かれることがあった。
これは作品ファイルに北宗画の模写を掲載しているためであると思われる。
山水画の筆法は中国絵画および日本画の線を考えるうえで本当に勉強になった。
日本の古典絵画には様々な分類分けがされているが、それぞれ求める側の需要と作者側の受容の変遷は興味深い。
ところで、僕が山水画を初めて見た時の印象は嘘っぽさでした。どの作品も同じ様に見えてあまり違いがわからないと思いました。ただただ勉強不足と見聞の少なさが招いたものだったのですが、風景画が実景の面影を少なからず残しているのに、山水画には記号化された岩や松が反復されているように見えて、写真や空気遠近法に見馴れた初心のものにはつくりものに見えたのでした。

そう、この山水画というものはとりわけつくりものなのです。いくつもの景色を取り合わせてつくり、時には樹や山を、いや時空を含めて全ては筆によりつくられるアナザーワールドだったりするのです。
それは一見風景画のようにみえる山水画においても周到につくられるものなのです。山水画と風景画という観点から言えば、小野竹きょうは風景画と山水画を往環していて面白い。自然に対する深い洞察とデザイン力は素晴らしいです。
しかし、近代以前の山水画をみてみると、そのような深い洞察力から生み出す美とは別の美質を感じます。先達は何を観ていて何を描いたのでしょう。例えば雪村やしょう白のあの奇態な山、蕪村や大雅、浦上玉堂の文人画。あの山水達は一体何なのかということなのです。
風景画ではなく山水画を描こうと思う時、中国だけではなく日本の山水画をあらためて見直してみたいと思っています。

湖西在住

2010-08-22 20:53:47 | Weblog
湖西(滋賀の西側)に住んで良いなと感じる事は湖と空のうつろいがいつも眼に映ること。電車にのれば、比良と琵琶湖に挟まれて、しばし景色を眺めいります。大気と水のグラデーションに色彩を学びます。僕がみる時の空と水は割合穏やかなことが多い。神々しくドラマチックな姿も何度かみているが、なぜか湖東の沖からの方がそうした景色を見ている機会があるように思う。あくまで個人的な体験だけど。
九州に行くと緑の色が違って見える。群生の仕方も少し違う。
これは日本よりも海外だとよりコントラストを感じるが、日本の中でのこの妙なる違いはなかなか観ていて興味深い。

夏の休暇

2010-08-11 19:50:47 | Weblog
毎年夏になると団扇に一枚は絵を描いている。
普段使いに藍に墨など少し混ぜて描くだけでなんだか涼しい気分になる。
今年も波に千鳥を描いたが、この千鳥のかたちは描く度に不思議なデザインだと思う。初心の人にはこの有機的なかたちは捉えにくく描きにくいらしい。
今年は例年になく家にいない。九州と往復を繰り返し、一ヶ月ほぼ帰らない時もある。
お盆に入り少し休みがとれるのでここぞとばかりに家にいることにした。今日は絹を5枚枠張りしてドーサ引き。草稿も随時進行中。自宅帰省以外はもうひたすら涼しいところで絵を描くのみですか。
行けるならば船幸祭の花火ぐらいはみたいものです。