今日はシルバーウィークに向けて買出し。
画材屋もきっと閉まっちゃうよね。
DMとプレスリリースも念のため持って京都へ。
ギャラリー射手座(渡邊さんは不在のようでした。残念。)→gallery shop collage(同時代ギャラリー)大野麻里展(実は大学の同級生でした!)→彩雲堂→楽紙館(京都文化博物館内)→橋本関雪展(京都大丸)→京都芸術センター→ニュートロン。
gallery shop collage(同時代ギャラリー)大野麻里さんは鳥展。ベニヤ板に直にペインティングした作品。白地に無数の赤丸が侵食し図と地が反転しながらその合間を線画の鳥が行き来して、シンプルだけど面白い視覚効果の作品でした。芳名帖脇の手製の鳥オブジェからも作家の鳥ハマリ度が感じられる。
そういえば、こないだ懐かしくて買ってしまったチョコエッグで雷鳥をGET!
たまたま電車の吊り広告で橋本関雪展を発見。姫路の巡回展だが、なんとなくまた見たくなり足を運ぶ。
前回見逃した作品が見れたり、制作の映像が見れたのは面白かった。
ただ、展示的には姫路展の方が導線がしっかりしていてわかり易かった。
同じ作品でも展示の仕方で展覧会として受ける印象は随分と違うものである。
双方では並べられる作品数での差はあるものの、特異な展示空間ではないから、これはまず導線の引き方の差とみてよいだろう。
個々の作品は自立し、完結していても、見せ方によって体験する方の記憶は変わってくる。展覧会で観客が持ち帰るのは体験と記憶である。どのような出会いをするかは、作品と観客の双方にとって重要である。
今回の展覧会で出品する内の普賢延命菩薩(復元模写)は実は5回目の展示となる。これは出品依頼者とのやりとりで気が付けばそうなっているのだが、ただ展示が各地で廻っているというわけではない。辿ってみると、1、単品での展示、2、制作による四季花譜屏風一双を左右に一隻ずつ配置した組み合わせによる展示、3、プライベート空間でのいけばな展にて床の間でいけばなと展示、4、対幅として制作した普賢新生菩薩との展示、5、mirror imageでのインスタレーションと毎回関係性の中での展示が試みられ、そこから得られる体験と記憶は一様ではない。
作品自体とじっくり向き合うなら、この中では1、単品での展示がもっとも集中してみられるのは言うまでもない。本来ならそれで展示して終わりでよかった。しかし、これが模写としてしかみられず、作品ではないという見方に対する反発が僕の中で起こった。性格にいえばこの作品は模写であり、模写ではない。むしろ仏画の制作プロセスを歴史的に辿れば、これは制作による新画の仏画となる。また、なにより本人が模写でしかない作品になる事を注意深く避けるように制作し、そのあわいの中での仏画制作をしているのだから、模写の一言で片付けることによって理解し、鮮やかな模写、よく描けた模写ではやはり不満が残る。
次に企画展で、模写の出品依頼があった。当初は水墨画の依頼だったが、こちらから自作による模写と制作の並列展示のプランを出した。それが2、制作による四季花譜屏風一双を左右に一隻ずつ配置した組み合わせによる展示である。仏画を写生からかきおろした淡い金地の四季の花で荘厳し、共存させ、3点による極楽空間を見立てた。
次は3、日本家屋のプライベート空間でのいけばな展にて床の間でいけばなと展示である。これは襖絵の依頼者の自宅で行われたいけばな展であり、襖絵のお披露目を兼ねての展覧会であった。床の間のお生花を前に座ってゆっくりと眺められる。依頼者には展覧会のひと月以上前に貸し出したのだが、毎日仏画の前に花をいけ、祈りを捧げていたという。また、お弟子さんがプライベートで仏画を参拝に来るということもあった。
2、での展示を観て制作と模写の並列展示の依頼があった。これも当初は水墨画の依頼だったが依頼者と話し合い、4、対幅として制作した普賢新生菩薩との展示を行なった。ほぼ同素材・同技法であえて似せながら図像は様々な仏画からアナログなコピー&ペーストし、仏画のルールを援用して制作。延命に対する新生はオマージュであり、異形の双子のようでもある。
そして今回のmirror image展での新作は仏画のルールの援用やコピー&ペーストを用いつつも、図像としての模写の要素はほぼ排除されている。普賢延命菩薩と普賢新生菩薩の再展示以来からはじまったが、空間ひとつをまるまる自由に使えるのだからこれはもう場の生成である。そしてそれらの関係性は作者、作品、観客、歴史に対してのmirror image(鏡像)である。
作品は完成すると作者の手からはなれて自立する。作品は体験や記憶の場を作り出すためのツールとして機能する。美食家の魯山人が体験や記憶の場を作り出すためのツールとしてうつわを作り出すように、また茶人が体験や記憶の場を作り出すために道具を取り合わせるように、花人がそこにある美を空間やうつわに掬い上げて気付かせるように、僕もそこにあるものたちと対話している。