よもやま解体新書

山下和也の制作、見聞記. 北へ西へ南へ。

骨描き

2008-12-30 17:18:37 | Weblog
骨描きを始める。今回の作品は紙本に描いている。
絹も良いが紙もまた良し。素材が変わればアウトプットされるものもかわる。紙は絹以上にいろいろな風合いがある。線も色彩も実はかなり影響を受ける。紙の持つ含みや色が描き進める内にじわじわと出てくる。勿論描き方によっては縁のない話なのだが。
昔は大きな紙がなかったから、襖にしても紙を継いで描いているが、その代わり紙質自体はよいものを使っている。
描く目的に合わせていろいろ使い分けていて、技術は素材により生み出されている事も実感する。

私の場合、線描をする前には必ずウォーミングアップに何枚か戯描きする。いきなり線描を画面に描くのは準備運動なしに全力で走るようなものだ。
戯描きしながら目と手と線が繋がるあたりになるとちょうどいい。

以前、線描を描くスピードを見せてくれという要望があり即座に試し描きしたが、やはり何にもそくさず準備運動なしに描くのは無謀かつ冒涜だとあらためて感じた事がある。
席画に於ける線描とこうした線描はまた違っている。線に対する身の委ね方が違う。

線描はいつも気が付けば時間が経っている。

ゆくとし

2008-12-29 09:08:31 | Weblog
丸太町での三瀬さんの個展終了後、忘年会をする。久々に会う人達ばかりで、それぞれの現場や観ているものの違いが言葉の端々に見えてくる。
日々思考は更新しどんどん変化する。言葉に編集するスピードに比べれば絵を描くことはなんと遅い事だろう。今年退官を迎える大学の恩師が「絵かきでなければものかきになりたい。どこでもかけるから。」と言っていた事をふと思い出す。
ものづくりの基本は、やはり観るという事に尽きるのだろうか。眼と手と脳の往復の中で何かがみえてくる。社会時間軸と自己時間軸との往復に揺らぎながら、確かな何かを積み重ねるしかない。手を動かすしかない。
いろいろと話は尽きないのだが時間は限りがある。限る時間で話が至らないのは自分の至らなさだな。ともあれ、飲みおさめは楽しかった。

遅ればせながら年賀状にもかからなければならない。昨年は作品を印刷したものにしたが、今年は例年通り手書きにした。墨を擦り2種の画仙紙に筆をしたためる。毎年ネタを決めて後は余技でじゃんじゃん描く。今年は70枚程度だからまだラクでした。
年末年始といえど予定は勝手に降り積もる。実家に帰り襖貼りもせなあかん。掃除すませたら後は絵を描くしかないでしょ。今日は天気もよいしね。

ではみなさん、よいお年を。来年もどうぞよろしく。

大学へ

2008-12-20 23:57:34 | Weblog
大学でお世話になった先生方も年々退官される。
久々に大学に行き、お世話になっている図書館員の方にお会いする。秋に数人で企画した会の写真とメッセージカードをアルバムにして持参する。
ついでに模写室にも顔を出す。制作展前の緊張感が高まる部屋に長居は無用なので差し入れだけしてさっとその場をあとにする。
今年は大作も何点か並ぶようで楽しみにしている。

ろさんじん ゆうじん

2008-12-20 17:10:29 | Weblog
平野雅章著のろさんじん業書三部作が文庫本であり、最近電車に乗る際にちょくちょく読んでいる。
食、やきもの、書についてのこの本はろさんじんの痛烈で真っ直ぐな物言いが実に面白い。文章からその天才と不器用さを感じる事は容易である。

まずはじめに読んだのは「ろさんじん陶説」。そして今読んでいるのは「ろさんじん味道」。
高校時代の友人が「俺はろさんじんを目指している」と言っていたのを思い出す。ろさんじんには到底なれるとは思わないまでも才能豊かで面白く人間的魅力のある友人だったが、不慮の事故にあった。時々、その友人を思い出し、その輝きに刹那を覚える。
ろさんじんも友人も刹那を輝きに返還する才能があった。その輝きに於いて刹那は見事に輝きに包まれて微塵も感じない。しかしその輝きの強度は刹那によって支えられているとは感じるのだ。

ろさんじんは強烈な自我を保持しながら同時に自分を捨ててもいるのだ。そしてつくづく彼を支えているのは愛と美の信仰であるとしみじみ感じてしまう。

ろさんじんの作陶は倣古に拠っている。文章や作品からも彼の美の基準は明瞭だ。用美は否定しないが職工的なものや民芸趣味に関して、否芸術のそなわらないものにはかなり手厳しい。
私の知り得る天才達はおおよそ知的好奇心に満ちた勉強家であり、直覚的経験を重ねている。この直覚的経験こそを知識という人もいるが、多くを見聞する事もやはり重要な事だと思う。多くの見聞の蓄積が新たな知を生むプログレスになる事を経験の世界に於いても体感します。
どちらにせよ、つくる以上は結果としてどのようにアウトプットできるかでしかないのだけど。

円珍の黄不動雑感

2008-12-14 20:59:51 | Weblog
三井寺展を観に行く。
まずは秘仏の黄不動を観る。部屋に円珍像2体と仏像、仏画の黄不動が並ぶ。黄不動の仏像は仏画をモデルに作り、リアルな存在感と一流の手により造られている。しかし仏画の方がより円珍の観た姿に近いのだろうと直覚できた。黄不動は青蓮院の青不動、高野山の赤不動と共に三不動として知られている。しかし、この黄不動に於いては他の不動とは異形である。
例えば一人虚空に立っていること、不動の表現状欠かせないカルラ炎がない事、異様な筋肉質、そしてあの眼力である。
シンプルで無駄が無い研ぎ澄まされた造形である。25歳の円珍がどういう状態でこの像を観想し、作り出すに至ったのか興味深い。
勿論、この像はただただ夢で観ました、こんな姿でしたというものを描きましたという単純なものではない。そんな単純さで現れるものではない。また、複雑怪奇でもない。真っ直ぐなのだ。

密教画とは何かを考えた時、この黄不動は見事に立ち現れたとあらためて感じる。
造像するには人の手を介さねばならぬ以上、作為は免れない。しかし免れぬ作為を研ぎ澄まし、超えるものに至らねばあざとくなる。理知をシンプルに整理して柱を立てねば流される。真っ直ぐに見つめ虚空に立ち、一歩踏み出すあの姿はそのまま円珍の心に他ならない。円珍は黄不動を観ることで常に自らを正したのだろう。あれが不動である理由には円珍の縁であり個人の信仰心の反映に他ならない。
自念仏とは個人と関わりを持った特別な仏である。明恵にとっての仏眼仏母もやはり特殊な仏画だと直覚している。
そうこう対話している間にかなり長い時間観てしまいました。気が付けばノートに3ページ程言葉が綴られていた。

他にも秘仏の如意輪観音が美しく、多くの人が足を止めていました。これは数ある如意輪観音の中でも屈指の仏像です。簡易ではありますが、久々にスケッチしてしまいました。
他にも流石は三井寺で五部心観や胎蔵図像、胎蔵旧図像はじめ名品がズラリでした。
また、大阪市立美術館は根付や石仏のコレクションが見所で石仏もゆっくり眺めてしまいました。

お気に入り〓

2008-12-08 00:08:59 | Weblog
朝、岡山で買ったナショナルデパートのパンを朝御飯に岡山で買った本の一冊にも満たない一部を読書して、掃除洗濯をする。年末に向けて小掃除を気分の切り替えにちょこちょこ積み重ねるのだ。
昼頃に京都国立博物館へ。蒔絵JAPAN展でキャッチは「マリーアントワネットもお気に入り〓」という脱力のフレーズ。いや、確かに豪華でしたが、それ以上に常設展が凄すぎるラインナップ。「山下和也もお気に入り〓」ですよ。
仏像ではやはり私的には宝誌和尚像を挙げざるをえません。
宝誌和尚像はある画家が漢の武帝に依頼され高名な僧である宝誌和尚の肖像画を描くのですが、描こうとすると和尚の顔の下から菩薩の顔が現れ、その後様々なものに変化するためついには描けなかったという逸話があります。でも、仏像にはなっちゃってるのですが、他に絵も像も類例を知りません。誰もが顔が割れて中から顔が出てくる姿の像に驚きます。どの顔も眼を閉じて瞑想的な雰囲気を醸し出してとても静かな姿です。また宝誌和尚像は左右の顔が外側に開いていて意図的に表情も変えてある。口元に注目すると一目瞭然です。
C・スクエアでの「日本画滅亡論」展でも鋭い方は気付いておられましたが、私の描いた「普賢新生菩薩」はこの像がある種トリミングされているのですが、あらためてその意味合いの違いが確認出来ます。
2Fの絵画展示では頼朝像が出ていますが私のお気に入りは明恵上人像です。松林の中、瞑想する姿がとても清らかでその空気があたりを包みます。人となりを現した見事で優しく美しい絵だと思います。
隣室では元信の花鳥の障壁画、芸愛の花鳥屏風。雪舟、雪村の山水がある。また鳥獣戯画の乙本、将軍塚絵巻、若ちゅうの水墨や版画。永徳の群仙図襖絵や芦雪の百鳥図屏風、しょう白の山水屏風と名品祭。おまけに今日は無料観覧日だから気前がいい。満足したら次は三条の京都文化博物館へ。表展という毎年恒例の京表具の展覧会がある。私のお目当ては林司馬の作品が毎年必ず出ている事です。今年は茶花に鶏図。司馬作品は紙本が多いがやはり良い。
その下で京都ビエンナーレとか言って源氏物語テーマで展覧会をしていたが、その中で田中親美、林司馬、京都芸大の講師、学生の模写が展示していた。司馬の模写は保存状態が悪く、破れてもいたが、やはり別格だと思う。贔屓ではなく、そう思える。制作は昭和20年、25年。彩色は昭和の版本の源氏物語絵巻のそれに近く、少し原本との色味には違和がある。出品中は東屋二が優品。4点程出品していたがいずれも線描が素晴らしい。現状模写の剥落描写も絵を崩さず調和させ、臨場感溢れる描写と美しい線描は揺るぎない力量を発揮している。
帰りに以前偶然発見した気になる読谷焼の作家のものが置いてある店で湯呑みをひとつ購入。イッチンの皿もあればと思っていたが、また出会えればと思う。
水墨が水と付き合う造形なら、やきものは火と付き合う造形と言える。やきものから学ぶ事はいろいろある。

岡山へ

2008-12-06 18:47:45 | Weblog
びわ湖ホールにトルコの作曲家ファジル・サイのピアノリサイタルを聴きに行く。
展覧会の絵、自作曲数曲、ラプソディ・イン・ブルーを演奏。才気溢れる演奏で音が力強くて豊か。ピアノの弦をもうひとつの楽器として曲に取り入れたりして異国情緒のある演奏でした。

倉敷、岡山、備前を廻る。倉敷は2回目。倉敷民藝館は名品展で充実の展示。Shopでは以前から狙っていた外村デザインの花いぐさを購入。さくらという蕎麦屋で昼食を食べ、倉敷帆布で普段使いのトートを買う。スリッパもなかなか良い感じだが、今回は控えた。
郷土玩具館は想像以上のレアスポット。圧倒的物量で眩暈がする。
大原は時間がなく、Shopだけ立ち寄り岡山に移動して宿泊。岡山は朝から後楽園を散歩。お抹茶とあん入りきびだんごをいただく。秋色に染まり広々とした空がとても心地よい。
オリエント美術館ではペルシャ陶の展示とモザイクタイルが良かった。モザイクはあらためて壁貼付けにするとボコボコしていて触覚的。
ナショナルデパートでパンを買い、日生へ向かう。牡蠣御飯、かきお好み焼きを堪能し、しばらく牡蠣は結構です。

備前に着き、隠崎さんの窯を訪ねる。お弟子さんも同世代でいろいろとお話が聞けて楽しかった。
残念ながらタイトなスケジュールで来客中の隠崎さんにはお会い出来なかったが、またお会い出来ればと思う。
しずたに学校は備前よりも一段寒いが静かなたたずまいが良く、建物が秋色に良く馴染む。寒さの中駆け回り岡山を発ち滋賀へと帰った。