よもやま解体新書

山下和也の制作、見聞記. 北へ西へ南へ。

みること、かくこと

2009-04-29 21:47:36 | Weblog
妙心寺展に行く。一部で表具が素晴らしいと聞いていたので、自然と表具に目が行く。
裂や取り合わせに目がいくものが多くあった。辻が花や萌黄、波に兎の裂も、今みるものとはまた少し違っている。気になる取り合わせのメモを重たい図録に書き写していった。
その後、藤井勘助さん一家の展覧会を観る。素敵な展覧会でした。僕は蓮さん貼り絵が好きで、彼の仕事は勿論プロなんだけど、作品は素直で実直で気負いのない、良質の民画的魅力をとても感じている。
 大阪では松坂屋コレクションの小袖展があった。内容が濃くて疲れたけど、華やかな気分がします。大阪港天保山のサントリーミュージアムではインデジタルアフェアーズ展があり、田中功起さんのインスタレーション作品が個人的には良かった。

制作は休みの間に彩色まで手が入り、イメージが具現へと徐々に姿を見せ始める。大下図で色構成もほぼ掴んでいるのに、やはり実際に入れ始めた時のこのゾクゾク感は、いよいよ始まったという緊張感を実感する。いくら色構しても、描き始めたら、そこから始まる対話であるべき姿へとまた微細に変化してゆく。
描く事の一瞬一瞬が、対話なのだと、描くことの不思議に触れている思いがした。

なコヤ入り

2009-04-26 09:21:37 | Weblog
あいにく昨日は日本中が雨。どこに行っても雨だから、いっそどこにでも行くさ、と名古屋へ。
名古屋ボストン美術館では、ゴーギャン展。木彫とあのタイトルの長い代表作がきている。一度じっくりと観てみたいと思っていた。タヒチという表象を借りて、内容は西洋の実存主義である事が見えてくる。そこにはいくつものおそらく解決不能な問いかけが次々と並べられていた。そこに答えはなく、ただただ問いかけているだけでのこの作品を描いたあと、ゴーギャンは絵を描けなくなった。おそらく、それから生まれる次の問いを掴めなかったのだと思う。何かを掴んだとき、次の何かへの布石に手をかけなければ、モチベーションは続かない。つくり続ける事は問いと対話を重ね続ける事だと感じさせられる。
Cスクエアの大西伸明さんの展覧会は場所替えしたこけらおとし。学生の頃、大学の助手をされていて、マルチプル以前から移行期の展覧会は観ていたが、今回は久々に観る事ができて、ちょっとうれしい。視覚的なものと物質的なものが騙し絵のように交錯していて、何気ない対象の選択故にそのセンスにエッジがでる。名古屋城では中林竹洞の展覧会。実は名古屋城にはお初になる。
名古屋市美術館の騙し絵展も行き、アルチンボルドをみる事が出来た。「鏡と皮膚」の谷川握さんがレビューしている。
白土舎で鷲見麿さんの展覧会を観る。キッチュな中にじわじわとくるものがあり、観ている内にだんだんとよくなってくる。とても屈折した表現のようにも感じられるが、誠実なものがそこにある。コピーの時代展で作品は観ていたが、今回のものの方がいい。作家不在だったが、話をオーナーから聞けてなかなか楽しかった。作品はほぼ完売していた。
 名芳洞で会場の下見と打ち合わせをしたあと、歩いて栄のAACへ。三沢さんのアニマルズの屋内展示を観る。スタンプラリーをしていたようで、エコバッグ貰っちゃいました。

名古屋から京都へ帰ると23時。いや、雨の中よく歩きました。ホントに。

訪 呼び起こされた世界

2009-04-26 08:51:32 | Weblog
福岡では毎年、装飾古墳などの一斉公開日がある。月刊文化財では王塚古墳が表紙になっているが、佛教、神教以前の秘儀的空間の遺構はこうした中に眠っている。
今回、縁あってちょうど4/18、19がその公開日であったようだ。
 装飾古墳が九州に多くあるのは知っていた。なかなか足が赴かないのが現実だったが、なにかに呼ばれるようにみる事が出来た。そこには未知が溢れていて、異界が存在していた。見慣れていない故にうぶにその空間の持つ空気が身体に突き抜けてくる。地に眠るこの空間は、本来観られる事のない場所である。また、墓の主は既にいないのであるから、本来あるべき姿の主体は抜き去られている。不在の場所に束の間ではあるが、自らを主に置き換えてその場所を眺める。主は生前にこの場所を造らせ、観たのだろうか。地上での生を終え、眠る場所に、ビビットな赤や黒で非常に丁寧に絵または図を描いている。彼らは何を祈り、何と繋がって地上に生きていたのだろう。祈りが増幅されているものの背後には、おそれがあるのではないかと思う。彼らにとって異界とは、どこかにあるものではなく、ふいに呼び出され訪れるものではないのかとふと思った。
 見えないものをカタチとして呼び出して地に沈める。あるいはそれを鎮める為の魔法陣であろうか。個体差の中には世界観の違いもあるかもしれない。
思い込みであっても、正誤の基準とは別の、ひとりよがりでも確かな対話の感覚を大事にしよう。その時間こそが、世界と内なる対話をしている素敵な秘め事ではないか。世界のささやきに身を委ね、静かに手をあわせて返礼する。訪れに静かに気付き、出会えたとき、なにかにふれたなと思う。ひととき呼び出され訪れたなにか。それらは僕らの中で静かに時を経て、再び作品として呼び起こされるのを待っているような気がする。
 

直島

2009-04-24 21:53:55 | Weblog
直島に行ってきました。
ETC車をレンタルして友人達とドライブ。
一泊二日の弾丸ツアーでしたが、車のおかげで充分廻れました。
初日は地中美術館。モネ、タレル、ウォルター・デ・マリアの作品が、安藤忠雄空間に贅沢に展示され、鑑賞というより、セッティングされたその空間に自ら入っていく。静かな経験を得るという感覚でした。地上にあがるとドリンク片手に少し低くなった太陽と瀬戸内海と帰りゆく船達を眺めて一息つく。
民宿でおばちゃんと談話しながら地料理をいただき、二階のバーベキューができそうな広いベランダでくだらない話しながら適当に寝る。(寝たのはそれでも0時頃か。)
 朝、日が昇る前に目が覚めたのでドライブして朝陽が昇るのを丘から眺めた。ベネッセハウスの周辺の野外作品を散策しながら、朝ゴハンを食べに帰る。再度、ベネッセコレクションを見たあと、民宿で紹介されたお店でゆっくりゴハンを食べたあと、本村の家プロジェクトへ。内藤礼さんの作品はみれなかったが、大竹伸朗のはいしゃは感嘆した。本村はいろいろな暖簾がかけられていて、これもプロジェクトの一関かと思うがなかなかよかった。16時過ぎには船で島を出て、21時頃に京都へ帰って来た。
 
 直島ではいろいろな体感が出来た。アートは勿論だが、それに関係する人や島。世界中から観光客が来て、フルシーズン観光客が多いというこの島の姿は再生というより、新たな島へと姿を徐々に変化している。観光客ではなく、島民とアートの島の関係性。アートがもたらすものと、同時に奪い去っていくものがあるのではないかと、ふと目を落とす。それは島民しか知り得ないものかもしれない。しかし、島に限らず僕らの住む街も、随分昔と景観が変わっているではないか。その事を知り得るのはやはり、そこにいる者達でしかないのだが・・・。
 

酔い桜

2009-04-08 22:30:15 | Weblog
昨日の桜がいっそう花開いて、はなやかに春宵の雰囲気を部屋に漂わせている。花びらがほろ酔のいろつきをみせて、美しい。山水のそばちょこも桜を水に浮かべて春の装い。リサ・ラーソンの鳩も桜の下でなんだか楽しそうにみえる。
今宵は桜の色気に酔っています。

室内観桜

2009-04-08 07:40:31 | Weblog
桜が咲いて入学式も済み、すっかり春の装いだけど、季節のかわりめで肌寒さが残っている。おかげで桜は長くみられるかもしれないから、それはそれで今年の桜を楽しもうじゃないかと思う。

桜の下で酒宴をするのが、今年は週末に友人達と行く直島になるのではないかと思っている。
桜の下の酒宴といえば、村上華岳の他に大学の模写室にあった林司馬先生の浮世絵の模写である桜下遊楽図屏風を思い出す。原本はみたことがないが、司馬先生特有の品の良さ、柔らかさ、繊細さ、シャープさ、愛らしさがあり、華岳の絵とは違った桜の気分に酔う。
桜の酒宴の誘いがあったが、直島行きと重なり参加出来ず、残念に思っていたら、桜の枝を戴いた。
早速、家で桜をいける。しばらく室内の桜を眺めながら朝夕のご飯が楽しめそうだ。

美の発見

2009-04-05 23:56:43 | Weblog
 もう、先週の事だが山崎に行く。京都であるが、少し肌寒い。こちらが来るのを知ってか、山荘美術館の枝垂桜は見事に咲いていた。ここの一階のソファでしばしゆっくりとするのが、ここに来る際の私のおきまりで、美術館が山荘へと、より身体に滲みてくる。風も吹いて二階から山崎を見渡すのは少し寒いが、庭園の枝垂れ桜の下にフラナガンのウサギと親子がすっかり物見遊山している風景が目にとまる。桜の咲く頃に来るのが実は初めてではないかと、ふと思い返した。
さて、展示は濱田庄司の眼という濱田の収集品がメインで自作と併設するのだが、主に収集品がメインである。濱田が収集するものは、自分が負けたと頭の下がるものに、その証として持ち帰るという考えがある。つまり言葉だけとれば、濱田の敗戦記録がそこにあるという訳だ。しかし、多機に渡る収集の中で、濱田作品を観ながら、濱田はそれぞれの何に負けたのかという事が気になる。ただ、惚れたら負けみたいなことなのか、実は勝ち負けの話ではないよねと気付きつつも、キャッチーコピーとしてなかなか印象深い。そして、濱田夫人はいう「負けてばかりいないで、たまには勝って来い!」と。ちなみに私が今回の展示で好きなものは天啓の群像染付皿と李朝の白磁祭器と朱塗机、あとはかなり状態の良いラスター彩、コプトや梅原龍三郎旧蔵のデルフトも良かったです。
 みんぱくの千家十職、大阪日本民藝館の柳の茶と美、東洋陶磁の浅川教伯、芸術新潮も坂田さん、近年遡ればきりがないが、自分の眼でものを観るという事、美とどう向き合い、付き合うかということをあらためて考えさせられる。ただの道楽というには度を超えた、彼らが求めたものと生き方への反映をふと思う。
物流もよく、たいていのものは何でも手に入りやすくなった時代。だからこそ、貨幣価値ではない判断規準や、ものとの出会いを大切にしなければと思う。自分の心でものと向き合い、対話することでしか、そこにある美とは出会えないのだから。


追伸、麗人社から季刊美術情報誌で百兵衛のNO.9が発売されています。地方の特集を毎回されていますが、今回は千葉県で浅井忠の話、坂田さんの美術館As it isや森村泰昌さんのコラムなどがありますが、百兵衛の眼という小特集で私も少し登場します。取材協力したアーティストとしての紹介、道具と制作工程の簡単な説明(取材用に小品を描き下ろしました。)、日本画を鑑賞する際の楽しみかたのヒントをほぼ監修しました。充分に説明するには本が一冊出来てしまいますので、簡略に詰め込んでいます。
短く限られた中でも、読むことで何が伝わるか。考えたいところです。