よもやま解体新書

山下和也の制作、見聞記. 北へ西へ南へ。

名古屋でKYとKY

2008-11-30 13:06:05 | Weblog
朝から名古屋へ向かう。
愛知芸大にある法隆寺壁画模写館の公開と釈迦金棺出現図や頼朝等の模写が展示されている。
各壁画と飛天二十面の現状模写が一室まるまる展示されている。
正直な感想を個人的に言えば、長い期間をかけて丁寧に写し取ってはいるが絵としては残念な結果で仕方ない。他のものについてもやはり僕の期待は裏切られた。興味を持てたのは模写のプロセスのテストピースと故・林功さんが漆喰下地から復元模写した飛天だった。飛天も故・林さん本領の模写ではない事は一目瞭然で,絵としてではなく資料的興味である。模写の展示館としての意義を別のアプローチで深める事を勝手ながら期待したい。

愛知県博物館で木村定三コレクションの春日曼陀羅修理報告があり拝聴しに行く。展示あり、過去の講演の記録上映もあり。一室だけだが力の入った企画展示であった。
常設の油彩作品も良いものが多く並んでいた。

C・スクエアでは彫刻家の山本一弥さんの個展があり、その日は秋山祐徳太子さんとギャラリートークがあった。残念ながら拝聴出来なかったが展示はなんとか間に合い鑑賞出来た。実物を初めて観たが、POPや作品の完成度といった側面と別にエロチックな魅力を強く受けた。
山本さんは僕より学年は一つ上の同じ年生まれ。名前もカズヤでその日二人はPATRICKの靴を履いていた。(無意味な偶然。)
アットホームな飲み屋に向かい、皆で楽しく酒を飲む。山本さんとはあまりお話出来なかったが、素敵な人柄がまわりに素敵な人達を引き付けているのだなと感じました。

森山知己さんに会う

2008-11-30 00:46:17 | Weblog
数寄和 大津の森山知己さんの展覧会のオープニングに足を運ぶ。
会場には音楽家のマツタケさんや前回展覧会をされていた三輪眞さんもおられた。森山さんの作品の僕の勝手な印象は、明治から昭和初期の日本画を規範として、日本画の素材の持つ微細な質感を殺さずに有用する作品で、知的で抑制の効いた表現はある意味無臭な稀有な作品だと感じた。ブログには画材に対する経験や知見、自身の日本画論を明確に示しており、一度話してみたいと思っていた。

森山さんとの話の中から模写についての話になり、林司馬の話に繋がった。森山さんの住む岡山には笹岡市ちっきょう美術館があり、大正時代の日本画団体である国画創作協会を取り上げた企画を多くされ、そこでワークショップもよくされている。
林司馬は以前にもブログでとりあげたが、僕の学んだ模写室の創設者で、僕はその肉筆をもとに線描や模写を学んでいる。司馬は村上華岳や入江波光にならぶ技術を持った作家であり、生きた模写を生み出す事の出来る稀有な画家であった。僕は学生時代から司馬の肉筆模写に多く触れながら線描や彩色をまず学んだ。

森山さんは東京芸大出身だが、規範とした時代の京都画壇や京都の日本画技術に多くの示唆を受け、今に至ると言っておられる。画材や技法を経験によって分析しわかりやすく言葉にする事の出来る作家は意外に少ない。技術や技法を絶やさない為には個人ではなく、複数の人に受け継がれなければ持続されない。また、受け継がれたそれを更に鍛え、実際を検証しなければ真実は見えてこない。伝承には技術に溺れる危険があるが、誰もやらなければやはり廃れる。活きない伝承は衰退しかない。更新し活きたものにならなけばやはり魅力はない。ここでいう更新は産化のための脱皮であり、持続のための必然的深化だ。既に僕達は100年にも満たない技術を正しく享受する事すら困難な時代にいるのです。

森山さんはブログやワークショップも含めて技術探究や後世への普及活動にも力を注いでいると感じられ、存在が貴重である。
ギャラリートークを拝聴出来ないのは残念だったが、またお話する機会があれば嬉しく思う。

思考のあしおと

2008-11-26 18:06:43 | Weblog
滋賀県立近代美術館のアールブリュット展をみる。
以前から気になる作品や出品数の充実に加えてインタビュー映像もありかなり盛り沢山。ヴェルフリ、アロイーズ、ルサージュ、ドムシッチ、コシェック、坂上チユキ、サルドゥ、ゼマンコヴァ等。数々のアールブリュットの作品を観ながら感じるのは、どんなに超越的で素晴らしくても無限の可能性ではなく、完全なる自己完結による限界性。僕にとって最も考察すべきは精神活動による造形物という点での類似と相違を作る側の視点で観る事だ。

先日コンサートを聴きに行ったマツタケさんと会場で会う。展覧会を少し観てマツタケさんとカフェでトーク(インタビュー?)する。興味深くいろいろ話しているうちに時間が経ち、場所を守山の駅裏付近のCafe Brancheに移動する。この店にはOPENに際して絵を依頼されライブペインティングで初めて描いた2mの水墨画の鶴が2点飾られている。店の雰囲気や空間を観てスッキリと描きあげた。時間軸も含めて空間に描くという感覚はライブペインティングや襖絵等を描く際に今も考える。
日曜日が休みでなかなか来れないが、当初からメニューが豊富になっている。リーズナブルで味もシェフがホテルで腕を振るっていただけあり美味しい。
オーナーは不在だったが妹さんが挨拶に来て下さりデザートをサービスしてくれた。妹さんとは一度しかお会いしていないが、覚えていてくれて嬉しかった。
静かで落ち着いて気軽な雰囲気は変わらない。

すっかり遅くなってしまったがマツタケさんが家まで送って下さった。音楽から受ける感覚を積極的に言葉で解体する事はこれまであまりなかった。
この感覚を思考で解体、互換するには自分としてはまだまだ充分な返答が出来てない。次はもう少し確かに答えられればと思う。

言葉も思考も感覚も日進月歩だ。

静岡へ

2008-11-23 18:39:55 | Weblog
朝から静岡へ向かう。
教科書にも載っていて覚えのある登呂遺跡の横に芹沢けい介美術館がある。田んぼに並ぶ色とりどりのオシャレな「かかっしーズ」を横目に復元された住居がポツポツ並ぶ。
今回は芹沢の肉筆をメインにした展示だが、勿論染織、型、染紙も並ぶ。
肉筆は下絵、画帳、板絵、硝子絵、墨彩画、陶器絵付けなど。絵画というより色彩や文様がたのしい民画として心地よい。
芹沢の家も公開していたので覗く。シンプルで河合寛次郎や柳邸にくらべると質素でしたが、調度品をみながら芹沢趣味を楽しむ。
思いのほか時間が経ったので急いで静岡県美へ行く。風景ルルル展は興味を持っていた作家達の色彩に触れる事が出来て満足している。ロダン館もなかなか良かった。
浜松に移動して平野美術館の松井冬子展も観に行く。今回は芸大蔵の作品や桜の絵を含めてまとめて観る事が出来る。DVDを上映していたので筆遣い等も確認出来たのは興味深かった。
帰りはもちろん鰻を食べて帰りました。

マツタケダイスケ ソロピアノコンサート

2008-11-20 21:36:04 | Weblog
11月16日、マツタケダイスケさんのコンサートに行く。
会場は滋賀県野洲のさざなみ文化ホール。余計なものがなく綺麗なホールだ。ピアノソロコンサート自体を僕は生では初めて聞く。

マツタケさんは舞台上で一礼し、着席したかと思うと即座にラプソディインブルーを弾き始めた。始まりの緊張感の訪れをサラっと静かに受け流して既に曲は流れていた。

作曲家でもあるマツタケさんの今回の選曲はクラシック、歌謡曲、自作曲を交えている。クラシックから歌謡曲を挟んでマツタケさんの曲へとシフトしていく。
自作曲ではない選曲にもその人の思想は現れるから、マツタケさんの選曲はそのまま自作曲へのプレリュードにもなっていると思う。
歌謡曲は80'sリクエストで「恋におちて」「星屑のステージ」「愛のすれ違い」。恋におちては始めのメロディにじわっと身体が響いた。「星屑のステージ」はその曲名がなんともロマンチックです。

自作曲は過去を受けて現代に生き、生まれる音楽。詞はないが詩情が流れている。マツタケさんの感じている世界が音楽になり、それを享受する人達の新たな記憶を呼び起こす。呼び起こされた記憶はマツタケさんの感じた世界とは違っていてもそれで良い。マツタケさんの世界観にたゆたいながら、いつしか未知の記憶の物語を眺めていた。

模写について聞かれる時、音楽に置き換えて話す事がある。
クラシックを演奏する音楽家にたとえてみたりする。
1音1音が一筆一筆となる。作品の理解と作者へのシンクロが作品の本質へと繋がり、共感覚もあれば生きた時代や環境の違いも含め未知の感性も存在する。復原模写が誰も知らぬ当時の作品世界への探訪であり、その実現でありながら真実は未知であり続けるように、作曲家の世界が真実に実現されているかもまた未知である。同じ譜面でも1音1音の繋がりがまた別の世界を実現させるだろう。
作品が自己や世界との対話のかたちや実現であるなら、クラシックも自作曲もマツタケさんの音楽なのだ。

今回、僕はマツタケさんのコンサートに幸運な出会いをしたのだろう。


コンサートの事は勿論、マツタケダイスケさんの今後の活動予定が気になる方は是非、ブログへ。

尾張瀬戸も日暮れて

2008-11-09 22:36:49 | Weblog
名古屋の徳川美術館に行く。同朋衆に焦点を当て、東山御物が多く出品されている。絵画に及ばずつい朱塗りの優品も目を引く。
絵画はもっけい、りょうかい、ぎょくかん等の紙本墨画の名品が出ている。減筆で描かれている作品についてあらためて感心した。雪舟、等伯、友松の日本の抽象化していく減筆との違いを感じながら御物の格に感じいる。静かで存在感のある作品の間をを行きつ眺めつ、これらの作品の中にある後世の作品が落としていったものにあらためて教えられる。

昼過ぎに尾張瀬戸に着く。時間はあまりなかったが瀬戸蔵ミュージアムや新世紀工芸館を訪ねる。民画に興味ある僕としてはやはり古窯は訪ねて見たい。瀬戸はかなり色んな種類をやっているが、黄瀬戸と赤津の織部等を少し買ってみた。
新旧交えて食卓が少しずつ楽しくなっている。

京都造形大学に用事があり坂内さんの個展に再度立ち寄る。搬出中にあらためて新作を観て気になっていた事を坂内さんと少し談話する。坂内さんの作品に於けるメチエと彼のいう空間という感覚について聞いてみた。
僕の理解が間違っているかはわからないないが、作品を感情で満たすという事が支持体も感情の痕跡体としてあるのだろうと思った。メチエは彼の平面にとって、映像にとって重要な感情の皮膚なのだと僕なりに理解した。

京都奈良

2008-11-03 19:47:12 | Weblog
京都造形大学のギャラリーRAKUで坂内圭さんの個展が始まっている。
芥子の花の作品群と蒼い寒木が展示されていた。一言で言えば坂内さんのレトロスペクティヴだが、よく見ると発表後に手を加わえた作品もある。新作の今回最も大作である芥子の作品に既視感があるなと思い尋ねると、既に手元にない過去の自作を意識して再制作したものらしい。これはつまり新作含めて、次の一歩のためのターニング展なのだろう。京都で発表していない作品もあるが、僕個人としては花弁の繊細な縦長の作品群が持ち味だと感じていたが、確かに彼は空間について何やらいつも話していたような事に気付いた。
渾身のおさらいが次に何を生むかを期待したい。

祇園では藤岡雅人さんがジパン具というグループをつくり、展覧会をしている。巡回中の狩野芳崖展にも寄稿している荒井経さんが顔料についてレクチャーするので聴きに行った。具色や水干に関する荒井さんの視点や中国の彩墨への興味はシンプルだけど面白い。
北大路では書家の岡本光平さんが個展をされていた。飛白体の作品という事で見てみたいと思ったからだ。書家本人からお話も聞けて良かった。

奈良では大和文華館で李かく山水の系譜として明清時代までの中国絵画が展観できた。受容と変化を追ってみられて、中国人の自然観と絵画化についても考えられる。
また、正倉院展も相変わらずの長蛇の列だが、閉館1時間前だとスっと入れた。木製品や天蓋がMy見所でした。