よもやま解体新書

山下和也の制作、見聞記. 北へ西へ南へ。

2010大晦日

2010-12-31 22:23:00 | Weblog
朝から大雪です。
大晦日の滋賀は真っ白に世界を塗り替えられていました。
しんと冷たい空気とともに静かに世界を包み込みます。美しくもあり、恐ろしくもあります。
雪といえば、今年の三月の霧島の雪は忘れる事が出来ません。妙な事ですが、山中はまさに白銀というに相応しい風景でした。
少し外に出て雪の中を散歩して、あとはゆっくり絵と向き合いました。
今日中に帰省出来るように、電車にも乗らなければなりません。

限られた時間の中、絵と向き合います。大きな作品ほど対話する時間が長いです。対話する内にいろいろなものが見えてきます。
大学時代のある先生の言葉がふと脳裏によぎります。「石をよく観て。そこを小人になって旅をするんだ。」ちょっとおおげさだけど、僕にはそれだけでもう山水や宇宙を描くための眼を与えられたような言葉でした。
山水の歴史を僕なりに描き巡りながら沈思する。眼の前にある、静かに生まれくるこの世界と、手と眼で思考して、この絵のゆく先がようやく掴めた。
2010年、よい年越しが迎えられそうです。

年末の福岡

2010-12-31 21:09:44 | Weblog
年内の福岡滞在最終日。
夜はタクシーがいそいそと走っている。寒さに誘われて、ふとコーヒーが飲みたくなった。
道の角にある小さな店。目の前を車が勢いよく走っているにもかかわらず、外の世界と切り離されたような店内で、ひとりしずかにコーヒーとケーキをいただきながらもの静かで気さくなマスターに話かけてみる。
なんとも不思議なイヴの夜である。
僕の立ち寄る福岡の場所は、たまたまなのかもしれないが、繊細で力強く素朴さが感じられるものとの出会いがあります。
昨年はクリスマスにあわせてペンでイコンを描いたが、今年は福岡で銅にイコンを描くレタブロにであった。錆びてゆくのがまた味わいである。そこではクリスマスに因んでガラス絵やフィリピン、フランス、ロシアイコンも置いていた。天使なども観たが、造形としてなかなか面白かった。これらはみな宗教から派生した祈りのかたちである。福岡に来てから、金属に対するアンテナが拡がった気がします。日本画には金属を泥や箔にして使う技法がありますが、金属の使い方も日本画のひとつの可能性として無視出来ません。追求してみたい材料のひとつです。
そして福岡で板に金属を被せた小さなイコンをひとつ手に入れました。
福岡にも少し馴染んできたなと、コーヒーを飲みながら静かな時間を思うのでした。

過ぎ行く秋

2010-12-04 18:03:11 | Weblog
今年は紅葉がとても美しいです。学生時代に高山寺に登った時は紅葉に包まれるように上も下も全包囲紅葉でしたが、今年は遠く眺めても錦のように観られます。
久々に宝ヶ池に行きました。ここも山が迫るように立ち、錦の緞帳のような迫力が感じられます。
その傍ら、多宝塔が眺められるお家の襖を見に行きました。
充分に素敵な空間でしたが、ここに何か描かんとすれば、はたして何を描くのであろうか。
襖絵は空間に描くものだと僕は考えています。空間とは、襖の大きさではなく、その襖がある空間、家、外の風景、そこで営まれる生活や時間、人や場というものをあらわしています。
空間に身を委ねて画想を得るのです。
あくまでこれは僕なりの襖絵を描くにあたる作法です。
襖絵を遡って観てみますと、絵巻物の中に当時の画題がみてとれます。宮中の御屋敷は屏風や染織で間仕切りされ、襖には山水画や秋草が観られます。薄物越しにみる山水、秋草の中、巻物や本を読み、手紙や歌をしたためる姿は優美ですね。武家屋敷ではまた違った趣向があります。
寺院や神社、城の他、商家や市民層でも描いて貰っていた人達がいたでしょう。場や生活用品が変われば趣向や内容も変わっていきます。
今、自分の生活空間に襖があり、絵を描くなら、どんな襖絵を描くでしょうか。屏風は建具から独立していきましたが、襖は昔と変わらず建具です。人があり、空間があるのです。
太宰府天満宮の近くに、常寂光寺があります。以前、青紅葉の季節に一度訪れましたがとても爽やかで清閑でした。もう落葉であることは承知の上で訪れました。砂で掻かれた水紋が落葉でほぼ尽くされていました。色とりどりの落葉と僅かに残る紅葉。最盛期ではありませんが、美しいと感じました。ふと庭から屋内に入り、柱と障子に縁取られた庭先を眺めると、別の風情が感じられてまた良いものだと思いました。
一枚の絵を眺めるような感覚・・・。四季を愛で、あらゆるもののデザインに取り入れる日本人。
秋の景色を眺めつつ、ふと日本の風土と感性に思いを馳せました。