聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/6/13 創世記27-28章「ヤコブ、エサウをだます」こども聖書⑱

2021-06-12 12:53:47 | こども聖書
2021/6/13 創世記27-28章「ヤコブ、エサウをだます」こども聖書⑱

 エサウとヤコブは、双子の兄弟です。けれども、エサウが先に生まれたのでお兄さん、ヤコブはちょっと後から出て来たので弟です。少しの違いで、エサウはお父さんの跡継ぎになって、神様からの祝福をもらい、ヤコブには何も残してもらえない。生まれた瞬間にそう決まってしまう。それは、なんだかヘンな話ですね。だから神様も、そんな話をよくひっくり返されます。
 エサウとヤコブの兄弟も、弟のヤコブの方がお父さんからの祝福を受け継ぐことを予告されていました。その時のお話しです。お父さんのイサクが年を取って、目が殆ど見えなくなった時、イサクはエサウを呼んで言いました。
27・2…見なさい。私は年老いて、いつ死ぬか分からない。3さあ今、お前の道具と矢筒と弓を取って野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。4そして私のために私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て、私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自ら、おまえを祝福できるように。
 こうしてエサウは狩りに出かけて行きました。ところが、その話を聞いていたお母さんリベカは、エサウよりもヤコブを贔屓にしていました。そこでヤコブに言うのです。
9さあ群れの所に言って、そこから最上の子やぎを二匹取って私のところに来なさい。私はそれで、あなたの父上の好きな、おいしい料理を作りましょう。10あなたが父上のところに持って行けば、食べて、死ぬ前にあなたを祝福してくださるでしょう。
 そして、毛深いヤコブを演じさせるために、リベカは子やぎの毛皮を、ヤコブの両腕と首に巻き付けて、美味しい料理とパンをもたせて、ヤコブをイサクの所に行かせるのです。ヤコブを可愛がって、もう一人の息子も、自分の夫も騙してしまうのです。
 ヤコブがお父さんのイサクの所に行くと、目の見えないイサクは戸惑います。どうしてこんなに早く料理が出来たのだ? 声はヤコブじゃないか? 近くによって来てくれと呼び寄せて触ると、リベカがヤコブの腕に毛皮を巻き付けていたので、エサウのようにもじゃもじゃです。
「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ」。
 そして、もう一度、
24「本当におまえは、わが子エサウだね」と言った。…ヤコブは…「そうです」
 こうしてイサクは、妻が作ってくれたご馳走を食べました。そして、ヤコブに、
26…「近寄って私に口づけしておくれ、わが子よ」と言ったので、27ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクはヤコブの衣の香りを嗅ぎ、彼を祝福して言った。「ああ、わが子の香り。主が祝福された野の香りのようだ。…
 こういって、イサクはヤコブに、豊かな収穫も与えられて、他の国々もお前を伏し拝むように、そして、お前の兄弟の主ともなるように、と祝福を祈るのです。この後、ヤコブが出て行くと直ぐにエサウが帰って来ました。何も知らないエサウは、狩りの獲物で美味しい料理を作り、父のところにやってきたのです。お父さんはビックリです。だって、今さっき、エサウだと思って祝福を祈ってしまったのですから。エサウは、
34…声の限りに激しく泣き叫び、…「お父さん、私を祝福してください。私も」
 しかし、一度与えてしまった祝福は、簡単になかったことにできるようなものではありません。イサクとエサウは、ヤコブがしたことに気づき、どうにも出来ないままオロオロするばかり。最後にイサクはエサウのために、祝福の代わりに、いつか自由を取り戻すことを祈ります。エサウは、弟を恨み怒りに燃えます。お父さんが死んだら、弟を殺してやろう、と言います。それを知ったリベカは、自分の故郷にヤコブを行かせることにします。そして、ほとぼりが冷めた頃に、帰って来れば良い、と言うのです。
 こうしてヤコブは遠くハランの地に向かって旅立ちます。その話はまた来週にします。少しだけ先回りしてお話しするなら、ヤコブが帰ってくるのは、20年以上先のことになります。その時、死が近いと言っていたお父さんイサクはまだ生きています。反対にお母さんのリベカはもういません。リベカはヤコブと会えないまま亡くなったのです。

 この話では、出てくる全員の思惑は、大きく外れてしまいました。
 イサクは、妻よりも愛したエサウを祝福しようとして、妻リベカとヤコブに割り込まれてしまいました。
 エサウは、自分が祝福を受けるとホクホクしていましたが、自分が昔ヤコブと取引した結果を痛感しました。
 ヤコブは、お母さんの言うとおりにしましたが、父親を騙してドキドキしただけでなく、お父さんから自分だと気づいてもらえなかったこともショックだったでしょう。そして、妬ましい兄から当然恨まれ、何十年も逃亡生活をして、不安な生活を送ります。
 そして、母リベカは、可愛がった息子の顔を二度と見ることがなく、騙した兄息子と夫と過ごして、晩年を送ることになります。
 誰もが、神様からこの家族に約束されていた祝福を、ちょっとずつ自分に都合良く考えて、騙したり怒ったりしたために、大きなしっぺ返しを招き、この家族は辛い歩みをすることになりました。

 神様の祝福は、生きた、すばらしい贈り物です。でも、それを受ける人間が、自分に祝福を引き寄せようと欺し合ってしまうなら、痛手を被ります。火は良いものですが、遊んでしまえば、火傷では済まず、火事にもなる。でも、そういう甘えや嘘があるのも、人間の社会です。神の家族の中でも、それはあって、刈り取りに苦しむことがある。自分勝手や嘘、人を騙すことは、自分のために止めた方が良いことは変わりません。でも、そんな滅茶苦茶なことがありながらも、神様の約束は進んで行きました。贔屓や失敗や大誤算があるとしても、神様の祝福のご計画は、変わること無く進んでいくのです。

 神様の祝福とは、実は、兄弟が奪い合ったりする宝のようなものではありません。奪ったり欺したり、もらえなかったら殺してやる…そういう心自体を変えられて、私たちが神様の祝福を喜ぶ。そういうものだったはずです。神様がエサウを祝福されるなら、ヤコブも祝福されるし、ヤコブが祝福されるなら、エサウも祝福され、周りのすべての人が祝福される。そういう約束を神はしておられました。だからこそ、私たちは、自分の心にある、醜い暴力を捨てて、人と比べることからも救い出される必要があります。ヤコブとエサウのドロドロドラマが聖書の中にあることは、驚くべき慰めです。

「祝福の神。私たちはあなたの祝福がほしいし、愛する人を祝福してほしいと願います。それを求めて、却って禍を招いてしまうとしても、あなたは私たちに祝福を惜しみなく注ごうとしておられます。主よ、あなたの豊かな祝福に与らせてください。あなたは取り消すことの出来ない祝福を、私たちのためにも約束してくださいました。私たちを心から新しくし、私たちを通して周りの人も生き生きと輝く、その祝福を見せてください」
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2021/6/13 マタイ伝21章1~11節「ロバに乗る神」讃美歌21 233「高く戸を上げよ」

2021-06-12 12:38:14 | マタイの福音書講解
2021/6/13 マタイ伝21章1~11節「ロバに乗る神」讃美歌21 233「高く戸を上げよ」[1]

 マタイの福音書21章に入ります。この福音書は「王なるイエス・キリスト」というテーマで書かれた書です[2]。今日の所はイエスが、遂にエルサレムの都に入城された、山場でした。
 その時イエスはオリーブ山の麓、あと10km足らず、という所で二人の弟子を遣わします。
2「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。3もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます。」
と言われます。
 不思議なことを仰いますが、この意味をマタイはきっちり書いています。

4このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。
5「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」

 これは旧約聖書の預言書、ゼカリヤ書9章9節の言葉ですが[3]、イザヤ書62章11節のことばも混じっていて[4]、少し言い換えてもいます。つまり何百年も前の予言が成就してすごい、という以上のことがあります。ゼカリヤもイザヤも、当時の実に悲惨で絶望した時代、力尽くで権力者たちが争った後、国が荒れ果てた中、神の約束を語りました。神の約束は、あなたの王がおいでになり、平和を必ず作られる、ということです。その事がロバに乗っておいでになるイメージで語られていたのです。ロバそのものは柔和ではなく頑固な動物だそうです。その頑固なロバにも忍耐強く乗るから、その王は柔和と言われるのです。そして、イエスはまさに柔和な王として来られたので、弟子にロバの親子を連れて来させたのです[5]。
 6そこで弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、7ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に座られた。8すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。
9群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。
「ホサナ、ダビデの子に。
祝福あれ、主の御名によって来られる方に。
ホサナ、いと高き所に。」

 ローマの将軍たちは馬に乗って入城します。馬と言えば軍馬、武力の象徴です。だから、より平和を現すために、馬ではなくロバが高貴な場に使われることもありました[6]。決してロバは価値が低い動物はなく、農耕や荷物運びに欠かせない動物でした。しかし、その上に掛けられた鞍は、貧しい弟子たちの上着です[7]。凱旋パレードは、イエスの周りで叫び始めた多くの巡礼者たちです。特に直前の20章30節以下の、目が見えずに道端で物乞いをしていた人やその他のお上りさんたちでした。遠くから汚れて旅をしてきて、言葉も訛っているような群衆が、上着や木の枝を道に敷き始めました。これは、聖書の中に見られる自分たちの歓迎の意を表す行動です[8]。だから、この風変わりなパレードにギョッとしたエルサレムの町は大騒ぎします。
10こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。11群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。
 イエスが生まれて、博士らが来た時もエルサレムの住民はヘロデと一緒に動揺しましたが[9]、この時もエルサレムの人々は顔をしかめています。そして、この後のイエスの振る舞いや教えで見切りをつけて、金曜日にはイエスを
「十字架につけろ」
と叫ぶことになるのです[10]。

 イエスが王であるということは、このマタイの福音書の中心となるメッセージです。イエスのおいでは、私たちの王がおいでになったことです。そして、この方はエルサレムの人々が連れない対応をした通り、人が大歓迎するような英雄の姿はしていません。白馬に跨がったり、エルサレムで一番立派な馬車を用意させて、王の凱旋に相応しい華やかなパレードを命じ、天の御使いの十二軍団を従えることも出来るでしょうに[11]、近くの村のロバの親子を借りてきて乗られて、前後にいた、巡礼者たちの雑多な人々が叫ぶ中で入城される王です。エルサレムの高貴な人々が眉をひそめるような人々を招き、ロバの親子を選び、私たちに仕えてくださる王です。

 「柔和」とは、優しい、暴力的でなく穏やかであること、と言えましょう[12]。それは軟弱で、強く生きるには相応しくないともされる要素でした。イエスは決して軟弱でもお人好しでもありません。しかし、暴力や武力、大声や華やかさで支配しようとはしない王です。早くて強い馬よりも、ロバに乗って、子ロバのスピードで動かれる王です。弟子や群衆とともにガヤガヤと入って来られる王です。ご自分を歓迎しない人々がいるのも、これから先に待っている反対と十字架の死も覚悟しつつ、その人々の柔和な「王」として来られた王です[13]。私たちの頑固さも貧しさもご存じで、それでも私たちの王であることを決して止めず、治めてくださいます。
 そんな現れ方は愚かしい、回り諄い、柔和より力だ、と思われて、私たちも大きな声やもっと手っ取り早い方法を求めたくなる時が沢山あります。しかし柔和こそ、イエスの支配です[14]。その柔和さによって、私たちを休ませ、安らがせ、力づけてくださる王です。この方の柔和な声を聞きながら[15]、希望を持つことが出来ます。そして、その柔和な力によって治められている恵みを味わいながら、私たちも少しでも柔和になり、強くしていただきましょう。[16]

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
マタイの福音書11:28~30


「主イエスよ。あなたこそ私たちの王、私たちの神です。馬や獅子よりもロバに乗られたあなたはあるがままの私たちを求め、優しい御声と深い忍耐をもって導き、ご計画を成し遂げられます。どうぞ私たちをあなたの恵みによって新しくしてください。あなたの柔和さを運ぶ器としてください。あなたの柔和さが私たちを力づけ、あなたの謙遜が私たちを大きくし[17]、私たちの周りにも希望と喜びをもたらし、ともに王なるあなたを褒め称えさせてください」

脚注:

[1]  讃美歌21 233「高く戸を上げよ Macht Hoch Die Tür 」(ドイツの待降節・クリスマス讃美歌)
 1 高く戸を上げよ、いざ、門を開け。 救いといのちを この世にもたらす、 

  栄えの君なる 主イェス来たりたもう。 ほめたたえよ、造り主を。

  2 救いと正義に あふれたもう主は、 柔和を身に帯び、憐れみをみ手に、

   われらの嘆きに 終りをもたらす。 ほめたたえよ、救いの主を。

  3 幸いなるかな、主を迎うる町、 幸いなるかな、主を宿す人は。

   主こそは輝く 喜びの太陽。 ほめたたえよ、慰め主。

  4 開け、わが心、主イェスを迎えよ。 聖霊のみ神は、

  ゆくてを示して 永久の祝福へ われらをみちびく。 神のみ名に みさかえあれ。

 

[2] マタイの福音書の最初はイエス・キリストをダビデ王の子として紹介し、王の系図から始まりました。二章は生まれたイエスを「ユダヤ人の王」として礼拝しようと遠くからやってきた博士たちの訪問が書かれていました。そして、当時の「福音」とは、「新しい王の即位」に当てはめられた用語です。キリスト教の福音は、神の子イエスが来られて、世界の王、私たちの王となってくださった、という知らせです。

[3] ゼカリヤ書9:9「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」

[4] イザヤ書62:11は「見よ、主は地の果てに聞かせられた。「娘シオンに言え。『見よ、あなたの救いが来る。見よ、その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある』と。」」イザヤ書62章の文脈は、主の慰め、力強い回復が圧倒されるほどのイメージで述べられる、「第二イザヤ」と呼ばれる部分のクライマックスでもあります。ぜひ、前後をお読みください。参考までに続きの12節は「彼らは、聖なる民、主に贖われた者と呼ばれ、あなたは、追い求められる者、見捨てられることのない都と呼ばれる。」という言葉です。王の来訪は、すなわち、民の完全な回復でもあります。

[5] この時イエスが乗ったのは、母ロバか、子ロバかは、よく論じられるところです。7節の「その上着」「その上」は両者とも複数形なのです。あえて、両方に跨がった(曲乗り?)と理解する人もいます。また、軛でつないだ状態で、ひとつと数えている、という理解も出来ます。大事なのは、どちらに乗られたか、よりもロバを母子で連れて来られたことに、ゼカリヤ書の預言が成就した、と理解することです。

[6] 民数記16:15(モーセは激しく怒った。そして主に言った。「どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。私は彼らから、ろば一頭も取り上げたことはなく、彼らのうちのだれも傷つけたことがありません。」)、Ⅰサムエル記12:3(さあ今、主と主に油注がれた者の前で、私を訴えなさい。私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを虐げ、だれかを打ちたたいただろうか。だれかの手から賄賂を受け取って自分の目をくらましただろうか。もしそうなら、あなたがたにお返しする。」)、Ⅱサムエル記16:2(王はツィバに言った。「これらは何のためか。」ツィバは言った。「二頭のろばは王の家族がお乗りになるため、パンと夏の果物は若者たちが食べるため、ぶどう酒は荒野で疲れた者が飲むためです。」)、Ⅰ列王記1:33(王は彼らに言った。「おまえたちの主君の家来たちを連れて、私の子ソロモンを私の雌ろばに乗せ、彼を連れてギホンへ下れ。…38 そこで、祭司ツァドク、預言者ナタン、エホヤダの子ベナヤ、それにクレタ人とペレテ人が下って行き、ソロモンをダビデ王の雌ろばに乗せ、彼を連れてギホンへ行った。…44 ダビデ王は、祭司ツァドク、預言者ナタン、エホヤダの子ベナヤ、それに、クレタ人とペレテ人をソロモンにつけて送り出されました。彼らはソロモンを王の雌ろばに乗せ、)など。

[7] この場面を描いた多くの絵では、ロバには立派な鞍や美しい織物がかけられていますが・・・。

[8] Ⅱ列王記9:13(すると、彼らはみな大急ぎで自分の上着を脱ぎ、入り口の階段にいた彼の足もとに敷き、角笛を吹き鳴らして、「エフーは王である」と言った。)。また、外典のマカベア書には、エルサレムが占領された屈辱を奪還した時、棕櫚の葉で祝ったことが書かれています。

[9] マタイの福音書2章3節「これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。」

[10] マタイ27章15~26節。今日の箇所で、「ホサナ」と叫んだ人たちが、五日後には「十字架につけろ」と叫ぶ、人間の悲壮さ、心変わりのしやすさ、残忍さを言われることがままあります。しかし、今日の箇所も、「ホサナ」と叫ぶ人と「エルサレム」の人々を区別していますし、金曜朝に集まって来たのは「バラバを釈放してもらう」ために集まって来た人々で、巡礼者というより地元のエルサレムの人々であったと考えた方が自然です。もちろん、熱狂的な歓迎が、わずかな時間や風向きの変化で、殺意に満ちた暴徒と変わりやすいことは、私たちの事実です。エルサレムの人々の変心を責めるより、自分自身の行動の間違いやすさを、強く自戒すべき事は、変わりありません。

[11] マタイ26章52節「そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。53それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。」

[12] 「柔和」 優しい、穏やか、思いやりのある、暴力的でない、土地を持たない。ローマ教皇の解説。

[13] 「フライブルク(ドイツ)の、アウグスティナ美術館にある『子ロバに乗るキリスト』は、私の知る限り、もっとも感動的なキリスト像の一つだと思う。(略)十四世紀に作られたこの彫刻は、棕櫚の日曜日に行われた行進で、台車に乗せて引くために作られたのだ。/額の高い、キリストの細長い顔、心の内を見つめる目、長い髪、二つに分けられた少しの顎髭。これらは、キリストの苦しみの神秘を表わし、私の心を深く捕らえて離さない。イエスは、「ホザナ!」と歓呼の叫びを挙げ、枝を切って道に敷く人々に囲まれてエルサレムに入場しながらも(マタイ21・8)、彼自身はまったく別のことに意識を集中しているように見える。/彼は熱狂する群衆を見ていない。手も振らない。そこにあるすべての音や動きを超えて、これから自分の身に起こることを見ている。それは、裏切り、拷問、十字架、死という苦悩に満ちた旅である。焦点の定まらない目は、周りの誰もが見ることのできないものを見ている。長い額は、人間の理解を超えたこれから起こる出来事を知っていることを表わしている。/そこには暗さがあるが、同時に受容の平安もある。移り気な人間の心に対する洞察があり、同時に大きな憐れみが溢れている。これから味わう言語に絶する大きな苦痛を知りながら、神の御心を行なうという強い決心がある。そのすべてに加えて、愛がある。尽きることのない、深く、遠くまで届く愛。それは決して壊れることのない神との親しい関係から生まれるもので、どこにいたとしても、どこにいるとしても、将来どこにいようとも、漏れることなく届く愛である。神には知り尽くせないものは何もなく、愛し尽くせない人は誰もいない。/この、ロバに乗ったキリストを見るたびに、キリストは、罪、罪悪感、恥をすべて持ったままの私を見られ、同時に、すべての赦し、慈悲、憐れみをもって私を愛してくださっていることを思わされる。/アウグスティナ美術館で彼と共にいることは、すなわち祈りだ。私はキリスト像を見て、もっと見て、さらに見続ける。そして私の心の深いところをキリストが見ておられることを知る。しかも私は、それを恐れないでいい。」 ヘンリ・ナウエン『明日への道』(長沢道子・植松功共訳、あめんどう、2003年)、202-203頁。



[14] マタイの福音書の最初から語る「王であるイエス」がここに一つの頂点を迎える。しかし、何よりもクライマックスは、十字架につけられた王である。

[15] 「この「柔和」と訳されている言葉、私は、「柔和」という漢字が原文にたいへんよく合っているように思います。これはギリシア語と日本語が、たいへん巧く対応しているひとつの例であると言っていいと思う。このギリシア語の意味を説明しているある人の論文を読んでみますと、何よりもこれは、友達とつき合う時、一緒に生きる時に、いつでも、その友達の慰めになっているような存在である人間のことを言うと説明しています。この柔和という言葉によって最もよく言い表されるのは「声」だそうです。あの人の声は柔和であるというのです。なるほどと思います。人とつき合うには、声をかけるのです。声にもいろいろあるのです。とげとげしい声、暗い声、明るい声、悲しい声、重い声。けれどもこの声は、柔らかな、やさしい声、そして相手を立てる声なのです。他者を生かす声であります。まるで主イエス・キリストの声が、聞こえてくるようであります。」加藤常昭『マタイによる福音書 4』(ヨルダン社、1991年)、111頁。

[16] この世界の、暴力と傷と、孤独と疲れ、罪と自己嫌悪、絶望と悲願に満ちたこの世界を担うには、キリストにとって柔和な道を担い抜く以外、道はなかったのかもしれません。小さなロバの背に身を任せて、一緒に歩んでくれと、あなたと一緒に歩みたいのだと、それだけがこの世界を神の国とする道なのだと、イエスは思われたのだ、と言えるのかもしれません。コロナ禍で、「コロナより人間が怖い」と言い交わす中で、イエスが私たちの王であること、私たちがではなくイエスが私たちの心を治め、私たちに仕えてくださる。ここに立ち戻りたいと、強く願います。

[17] 詩篇18:35 あなたは 御救いの盾を私に下さいます。 あなたの右の手は私を支え あなたの謙遜は私を大きくします。

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