聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/6/27 マタイ伝21章28~32節「思い直して行けばいい」

2021-06-26 13:36:51 | マタイの福音書講解
2021/6/27 マタイ伝21章28~32節「思い直して行けばいい」

 徳島も葡萄の収穫の時期を迎えたとのニュースを目にするようになりました。今日の箇所も「葡萄園」、次の33節からも、20章でも葡萄園が出て来ます[1]。聖書の舞台では、私たち以上に葡萄は生活の必需品、葡萄畑は日常的だったでしょう。父親が息子に
「子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ」
と言い、息子が応えるのはよくある親子の会話かと想像できます。
29兄は『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。30その人は弟のところに来て、同じように言った。弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。31二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。…
 以前の日本語訳は、兄は「行きます」と答えたが行かず、弟が「行きたくありません」と答えたのに行った、としていました[2]。欄外にある通りそんな写本もありますが、今ではこちらが本来だと考えられています。「兄だから気難しい、弟だから調子が良い」なんて読み方は危ういと痛感する変更です。大事なのはどちらにしても後からでも思い直して出かけることです。
 この話が語られているのは、都エルサレムの神殿でのことです。イエスが宮で教えていたところに、祭司長や律法学者、当時の宗教界の指導者、権威たちがやってきて、イエスを厄介払いしようとした時です。イエスは逆に彼らの心の頑なさを責めました。それに続いて、今日のこの単純な兄と弟の二つの対応から、イエスは祭司長たちの問題を鋭く問われたのです。
31…「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。32なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人や遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。
 取税人や遊女、当時の社会では最も卑しい生き方とされた人たちは、伝えられた義の道を信じた[3]。それは後からでも父の願ったとおりにした、先の兄と弟の話の兄と同じ。あなたがたは後から思い直すこともしていないではありませんか、と考えさせているのです。
 兄がどうして「後になって思い直し」[4]たのかは分かりません[5]。理由はともかく、思い直したのです。ただ悪いと思った、行動を変えた以上に、考えを変え、見方を変えたのです。もしかしてこの話を聞いて「行きますと言って行かないより、行きませんと言って行く方がましだ。でも、最初から「行きます」と言って行くのが一番だ」と思っていないでしょうか。それこそ律法学者たちの教えでした。我々は最初から従っている。取税人や遊女、汚れ仕事をする人、律法を守れない人は恥じ入り、懺悔し、後悔すべき。そういう「思い」でした。それでは取税人や遊女は踏み込めません。『反省させると犯罪者になります』という本もある通りです[6]。
 これとは違う「義の道」を洗礼者ヨハネは示しました。それは、どんな過去がある人も招く神の福音でした。神が王となってくださる。だから立ち帰り、洗礼を受けなさい。新しくしていただいて、神の子どもとして生きなさいと招きました。律法学者から教えられていた、過去が烙印になるような「思い」そのものを、神の「思い」へと思い直させてくれました[7]。再出発がある、思い直して歩み始めればいい、決して「最初からそうしたら良かったのに」などと責めない。そういう神の「思い」に触れて、取税人や遊女、最も蔑まれる生き方をしてきた人々は、ヨハネやイエスが語る生き方に踏み出して、変わることが出来たのです。悔い改めとは、自分を責めることではなく、神の思いを知らされて、考えを変えて戴くことです。神がそのようなお方だと知る時、私たちの思いが直されて、生き方が変わります。神の元に帰るだけでなく、神の元から送り出されて、堂々と生きていくことが出来るようになります。
 父の言葉は「私の所に来なさい」より
「ぶどう園に行ってくれ」
でした。ぶどう園なんて私たちには特別な仕事か観光ですが、当時は日常的で、大切で、でも楽ではなくて「行きたくありません」とも思う、けれど後には喜びの収穫が待つ出来事でした。この言葉をイエスは示されます。イエスは「わたしに来なさい」とも言われますが、私たちを日常へと送り出される方でもあります。毎日の仕事、生活へ、「行って働いてくれ」と遣わされます。神が創られたこの世界で、葡萄やいのちを育て、人が養われ、罪ある者もやり直してともに喜んで生きる。その神のいのちの働きを私たちも担うのです。「神の愛を信じます、神の働きを信じます」と言うだけでなく、神がいのちを育て、罪ある者を何度でも再出発させる方の「行って働いてくれ」を聞くのです。正直に「行きたくありません」と言いたい思いも、主は受け止めてくださいます。そのような主だからこそ、私たちは自分も、取税人や遊女、罪人や烙印を押された人も、愛し、遣わしてくださる恵みに思い直して、毎日、起きて自分の生活に出て行けるのです[8]。

 「前からちゃんとしておけばよかったのに」と言われたら、誰も立つ瀬はありません。神もそう仰るお方ではなく、思い直すことを喜ばれ、助けてくださるお方です。どんな人ももう一度、何度でも、歩み出させてくださいます。その道をともに歩いてくださいます。私たちの思いが、過去に囚われるより、思い直すことを喜ばれる神の思いに向くなら、同じように生活し、働いているようでも、それは深い所でどんなに大きく変えられるでしょうか。この恵みに何度でも思いを立ち戻らせ、ここから行って働いてきてくれ、とイエスは言われます。「行きます」と言う言葉より、「行きたくない」なら正直に言って、本当に出て行くのを待っています[9]。

「造り主なる主よ、私たちの唇も足も、心も目も、日々新しくしてください。間違いにも赦しにも開かれた柔らかな心を下さい。行きたくない思いをもあなたは受け入れておられます。生きる辛さ、赦しの難しさもご存じです。だからこそ主よ、あなたが贖い主、癒やし主であり、今も創造者、私たちを変え、養う方であるとの告白に立ち戻りたいのです。世界には生きる価値があり、私たちそれぞれの働きがあなたの祝福を担うと信じて、ここから出て行きます。」

脚注:

[1] 20:1(天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。)、21:33(もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がいた。彼はぶどう園を造って垣根を巡らし、その中に踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。)とここの三回、イエスはぶどう園を例え話の舞台設定にしています。ぶどうのモチーフは9:17(また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」)と最後の晩餐の26:29 わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」)でも繰り返されます。マタイ以外では、有名なのがヨハネの福音書15章です。15:1わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。4わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。5わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

[2] 欄外注参照。新改訳聖書は第三版まで(29兄は答えて『行きます。お父さん』と言ったが、行かなかった。30それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。)、口語訳聖書もこちらの本文を採用していました。新共同訳、聖書協会共同訳は、この新改訳2017と同じ本文を採用しています。

[3] 取税人や遊女たちが信じた。欄外ではルカ7:29、37-50、3:12が引用されている。マタイでは大前提? 詳述はどこにもありません。

[4] 「思い直すメタメロマイ」は、27章3節(そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。)で「後悔」と訳されているのと同じ言葉ですが、「後悔」とは大きくニュアンスは異なります。

[5] 父親に悪いと思ったのか、父に従うべきだと思ったのか、葡萄畑の仕事の大切さを思い出したのか、は問題にはされていません。そもそも、最初に「行きたくありません」と言った理由も分かりません。父親への反発か、別の用事があったのか、これまでぶどう園で嫌な思いをしたのか、それも問題ではありません。いずれにせよ、「後になって思い直し、出かけて行った」が大事なのです。

[7] 「これは「メタメロマイ」というギリシャ語で、『聖書と典礼』の注書きにもあるように「回心(メタノイア)」につながる言葉だそうです。前にも話しましたが、「メタノイア(回心)」とは「メタ」が超越、「ノイア」が自分の立つ位置という意味だそうで、そこから“視点を変える”こと、説明されます。しかも神の視点に立つことである、と。そして神の視点とは“いのちのいたみ苦しみを感じられる”もの、つまりは「人のいたみ苦しみを感じられるところまで自分の立つ位置を変える」ことが「メタノイア」であると言われます。その意味から「共感」と訳す聖書学者もいるほどですが、よく出てくるほかの訳語は「悔い改め」です。が、これは誤訳としか思えません。日本語で「悔い改める」とは、ああ自分はなんていけない人間なんだ、もっと立派な人間にならなければ‥と、つまりは意識が自分に向いている状態のことなわけで、“人のいたみ苦しみが感じられる”ためには、意識は自分の外側に向いていなければならないからです。」主任司祭の説教その13

[8] この後の33節以下でも、ぶどう園を舞台にした譬えが語られます。そこでは、ぶどう園に来た主人の息子は農夫たちに殺されます。世界という神のぶどう園に遣わされたイエスこそ、「行きたくありません」と言わずに(「行きます」と言いながら、行かない、という道も選ばずに)、来て下さいました。「わたしは葡萄の木、あなたがたは枝です」(ヨハネ15章)と言われ、葡萄酒の杯に託して「これはわたしの血です」とご自身を差し出されました。

[9] この箇所へのバーバラ・ブラウン・テイラーの黙想がありました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021/6/27 創世記29-30章「ヤコブとラケル」こども聖書⑳

2021-06-26 13:03:26 | こども聖書
2021/6/27 創世記29-30章「ヤコブとラケル」こども聖書⑳

 今日の話には出て来ませんが、このヤコブという人は、神様から新しい名前を与えられます。それはイスラエルという名前です。今のイスラエル共和国や、そこに住むユダヤ人、そして聖書を読む全ての人にとって、原点とも言えるのが、このヤコブなのです。
 しかし、ヤコブは決して立派な人、模範にしたい、優れた人ではありません。父の愛を独占する、長男エサウを妬み、母親と一緒になって、父も兄も欺した人です。激怒した兄の怒りを逃れるため、母親の故郷に逃げる旅に出かけたのが、先週のお話しでした。そんなヤコブに、主は夢の中で語られて、必ずこの地にヤコブを帰らせて、ヤコブと子孫たちに、この地を与え、世界のすべての部族があなたによって祝福される、と約束してくださったのです。立派ではないヤコブ、問題だらけのヤコブを、神様は選ばれて、イスラエル、神様の民の先祖としてくださいました。イスラエルとは、神様が人を変えてくださり、祝福のご計画を果たされるお方だ、ということを思い起こさせる名前です。

 さて、そのヤコブが旅の目的地、ハランの地についた時、ヤコブは井戸の所で、ラケルに会いました。ようやく旅を終えて、無事に到着して、ホッとしていたでしょう。そして、井戸の周りにいた羊飼いたちに、自分の叔父さんの名前を言ったら、「よく知っています。ほら、娘のラケルが羊を連れてやってきます」と、なんてタイミングだろう、と思って飛び上がりたいほど嬉しかったことでしょう。ヤコブは、羊飼いたちが三人いても動かさずに待っていた井戸の蓋の大きな石を、一人で動かしてしまいます。
10ヤコブは、母の兄ラバンの娘ラケルと、母の兄ラバンの羊の群れを見ると、すぐ近寄って行って、井戸の口の上の石を転がし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませた。11そしてヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。
 ヤコブはよっぽど嬉しくて、ホッとしたのでしょうね。そして、このラケルを好きになってしまいます。もしかしたら、自分のお母さんもこの井戸の所で、自分のお祖父ちゃんのアブラハムのしもべと運命的な出会いをしたことを思い出したのかもしれません。だから自分も、ハランの井戸で出会った、この美しい女性、しかも願っていた同じ部族の女性との結婚が、運命に違いないと思ったのかも知れません。

 けれども、そんな簡単なことなのでしょうか。自分のお母さんがここで運命的な出会いをした時、お父さんのしもべはまず神様に祈っていましたが、ヤコブは一言も祈っていません。しもべは、我慢をしましたが、ヤコブはすぐにラバンの家に行って、お客になってしまいます。どっちがいいか悪いかは言えませんが、決して同じではありません。ですから、聖書にあることと、自分のことが、似たようなことであっても、決して同じではない、聖書から何か原則を引き出して、形ばかりの幸せや成功を当てこもうとすることは出来ない。それこそが、聖書の原則なのだと心に刻んでおきたいのです。
 その通り、ヤコブがラケルと結婚したくて「ラケルと結婚したいから、七年間あなたにお仕えします」と言ったのはラブロマンスのようでもありました。すべてが薔薇色に見えました。七年後、ヤコブは遂にラケルとの結婚式をしてもらいます。土地の人たちがみな集まって、祝宴をしてくれました。夜、ヤコブが妻を迎えて床に入り、大興奮して、幸せの絶頂を味わった思いでいました。しかし、翌朝明るくなって、ヤコブが隣の妻を見ると、ラケルではなく、姉のレアだったのです。ヤコブの描いていた幸せは一気に崩れました。ヤコブはビックリして、ガッカリして、ラバンに怒鳴り込みました。
25朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。「あなたは私に何ということをしたのですか。私はラケルのために、あなたに仕えたのではありませんか。なぜ、私をだましたのですか。」

 でも思い出せますか。ヤコブ自身が同じことをしたのです。お父さんに兄のふりをして近づき、祝福を騙し取ったのです。お兄さんを怒らせ、お父さんを絶望させたのはヤコブでした。ここまで逃げてきたものの、ヤコブは同じ事をされたのです。それが、神様の裁きとか罰とは言われていません。神様の意地悪ではないのです。ただ、ラバン叔父さんの意地悪であって、ヤコブも同じ事をしたのです。そこで、ヤコブはもう七年、ラバンに仕えることにして、ラケルも妻として迎えます。つまり、姉のレアと妹のラケル、二人とも自分の妻にする、というとてもおかしな家族を作ってしまうのです。
 兄を妬んだヤコブは、自分もレアよりラケルを贔屓して、二人も妻を持つ。この後、ヤコブと、レアとラケル二人の妻、そして、その子どもやおつきの女性たちも絡んで、とても複雑な物語が続きます。聖書の創世記29章から31章、そして、最後の50章まで、ヤコブの家族のドラマはゴチャゴチャで、ここで簡単に紹介することなど到底できません。ロマンスどころかドロドロ劇になってしまう。こんな歪(いびつ)な家族が、イスラエルの民族の始まりでした。どうぞ、それぞれに読んでみて下さい。来週は、そこの息子のヨセフの話に飛びますが、その37章までの間には、これが聖書かと思うような出来事が記録されています。でも、そんな歩みをするヤコブたちにも、神はともにいてくださり、働いて下さって、やがて約束通り、彼らをあの夢を見た場所に連れ戻してくださるのです。それが、この聖書の不思議な物語です。神は、このヤコブをも愛されており、そして私たちも、どんな問題や失敗や足りない所があろうとも、愛されています。

 神は、弟のヤコブを選ばれたように、ヤコブに愛されなかった姉レアを愛されました。六人の息子と一人の娘、あわせて七人もの子を与えてくださいました。それを見て、ラケルは妬みます。でもそのラケルにも最後は二人の子どもを神は授けてくださいます。全部で12人もの子どもは、イスラエルを悩ます事にもなります。でも、その子どもたちが祝福になります。私たちはヤコブの物語に、失敗の刈り取りと、そのことも祝福へとつなげてくださる神様の不思議とを、いつも両方見ていくことが出来るのです。
 そしてそのイスラエルの歴史の末に、イエス・キリストが来て下さいました。イエスはこの世界に、私たちの家庭に来て、妬みよりも祝福へと私たちを変えてくださいます。

「主よ、あなたはヤコブを愛し、レアを愛し、ラケルも愛され、私たちも愛されます。どうぞ私たちの歩みを導いてください。ヤコブの旅を導かれたように、私たちの心を探ってください。沢山の失敗だらけのイスラエルの旅が、イエス・キリストを迎える歩みとなったように、主イエスが私たちの歩みにも来て下さり、私たちに祝福を与え、私たちを通して、祝福と恵みを現してください。あなたの不思議な、良い御心に委ねます」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする