聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/6/6 創世記25章「ヤコブとエサウ」こども聖書⑰

2021-06-05 12:13:18 | こども聖書
2021/6/6 創世記25章「ヤコブとエサウ」こども聖書⑰

 神が、この世界を回復するために、最初に選ばれたのがアブラハムでした。そのアブラハムの子イサクが、先週お話ししたようにリベカと結婚した続きのお話しです。
創世記二五21イサクは、自分の妻のために主に祈った。彼女が不妊の女だったからである。主は彼の祈りを聞き入れ、妻リベカは身ごもった。22子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったので、彼女は「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう、私は」と言った。…
 リベカのお腹に宿ったのは、一人ではなく、二人の子どもでした。双子だったのです。しかもお腹の中で二人はぶつかり合っていました。生まれる前から喧嘩をしていたのです。お母さんのリベカは不安になりました。そのリベカに主は言われます。
23節…主は彼女に言われた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」
 不思議な事に、二人が生まれる前から、その二人の子孫が別々の民族、別々の国になることが伝えられています。しかも、お兄さんが弟に仕える。現代ではだいぶ変わりましたが、長男が家を継ぐ、兄弟の中でも一番偉い、という考えは最近まで普通でした。この聖書の時代もそうです。お兄さんが偉く、弟はお兄さんに仕える、というのが当たり前だったのです。ところが、神の言葉は違いました。「兄が弟に仕える」と不思議なことを告げたのです。人間の当たり前をひっくり返すのです。しかし、神様はいつも人間の当たり前をひっくり返します。私たちは、人間の考えで、見かけや生まれや能力で人を選びます。神は、そんな人間の常識や予想を裏切って、私たちを救われるのです。
それだけではありません。一人の人、すなわち私たちの父イサクによって身ごもったリベカの場合もそうです。11その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、12行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、「兄が弟に仕える」と彼女に告げられました。13「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書かれているとおりです。  ローマ9章10~13節
 「憎んだ」とは強い言い方です。神は本当にエサウを憎んだ、とは思いません。しかし、こんな強い言葉を使いたくなるのも私たちの毎日の生活です。そうです、神様が導かれるからといって、世界は穏やかで綺麗で順調にいくわけではないのです。
24月日が満ちて出産の時になった。すると見よ、双子が胎内にいた。25最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それで、彼らはその子をエサウと名づけた。26その後で弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで、その子はヤコブと名づけられた。…
 双子の先に生まれた子は、赤くて毛深く、エサウと名づけられました。そのお兄さんのかかとをつかんで、後に弟が出て来ました。かかとをつかむ、というのは、ただ文字通りの姿だけではありません。実際、人の足をつかんだら、相手をひっくり返してしますね。レスリングの技のような好意です。日本語でも「足を引っ張る」「揚げ足を取る」という言い方がありますが、ヘブル語の場合は「かかとをつかむ」とは「人をひっくりかえす」「騙す」という意味です。この双子の弟は、生まれる時から兄のかかとをつかんでいました。それは、先の神の言葉とこの後の二人の人生を現すような事でした。
 そして、せっかく願ってようやく与えられた双子なのに、父イサクは兄エサウを愛し、母のリベカは弟ヤコブを愛する、というひいきも起きてしまったと聖書は書いています。これも、悲しいことに、私たちの生活にはしばしば見られる家族の中での偏りです。それは悪気はない、小さなことのつもりで、とても深い傷と大きな結果につながることもあり得るのです。イサクとリベカの家庭も、そのような大きな悲劇を生み出します。
29…ヤコブが煮物を煮ていると、エサウが野から帰って来た。彼は疲れ切っていた。
30エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れ切っているのだ。」それで、彼の名はエドムと呼ばれた。
31するとヤコブは「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」と言った。
32エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言った。
33ヤコブが「今すぐ、私に誓ってください」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼は、自分の長子の権利をヤコブに売った。
34ヤコブがエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を侮った。
 兄エサウは、余りにお腹が好いたので、一回のパンと煮物と引き換えに、自分の長子の権利を弟に売ってしまったのです。自分が長子で、特権があることを、侮ってしまいました。こうして、図らずも神の言葉はまた成就して、弟ヤコブが長子の権利を持つことになっていきます。これはこれで、後に深い禍根を残します。それでも、ヘブル書は、
十二16…だれも、一杯の食物と引き換えに自分の長子の権を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。17あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。
 エサウは自分がお兄さんであることがどれだけ祝福か、ということが分からなくなっていたのでしょうか。特権を感謝せずに、当たり前だ、自分の方が偉いのだ、と思っていると、神はそれを覆されます。聖書の歴史では、いつも神はそれをなさいます。低い者を高くされ、高ぶっている者を引き下ろす。でもヤコブが選ばれた事だって不思議です。ヤコブも、この後、自分の高ぶりや兄やお父さんを騙した責任を、しっかり取らされることになっていきます。恵みを侮った兄エサウをひっくり返した神は、兄を妬んだ弟ヤコブもひっくり返されるのです。私たちの狭い思いを、神は絶えずひっくり返しながら、この世界を導かれます。ヤコブとエサウの兄弟はその事を教えてくれます。



「ヤコブを選ばれた主よ。あなたの選びは不思議です。あなたの約束は大きく、私たちの思いを超えています。どうぞ私たちが、その約束を信じて、目の前にある小さな物と、与えられた恵みとを引き換えるような愚かな誘惑から救い出してください。人を騙したり恵みを侮ったりせず、私たちの本当の兄であるイエス様とともに歩ませてください」
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2021/6/6 マタイ伝20章20~28節「仕えて与える神」

2021-06-05 12:12:07 | マタイの福音書講解
2021/6/6 マタイ伝20章20~28節「仕えて与える神」

 今日の言葉は、イエスの弟子である「ゼベダイの息子たち」の母の願いから始まります。
20…息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。21イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」
 イエスがやがて御国が完成する時、王の座に就く。その時に、左右に座ること、イエスの次の位を自分の二人の息子に下さるよう約束を願ったのです。母ならでは必死な、しかし後から他の弟子たちが腹を立てたように、自分勝手な願いだとも思います。しかしイエスは、この願いを一蹴したり、その出しゃばりを責めたりはしません。イエスの答えはこうです。
22…「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。…
 ただの親バカとか思い上がりと言う以上の根本的な誤解がある。あなたがたの思い描く権威が本当にイエスの権威なのか、それがあなたがたの本当の幸せなのか、と問われるのです[1]。
22…わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」[2]
 「杯」はこの時点では何かハッキリは言われていませんが、苦い、飲み干しにくいもの、大変な覚悟のいる痛みであることは理解できます[3]。二人は「できます」と答えると、イエスは、
23…「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、…
と仰って、はぐらかされたような返事です。イエスのように、大きな苦難に遭う。でもそれが、イエスの左右に座る条件なのではないのです。その事は次の24節以下で明らかです。
25…あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。26あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。27あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。[4]
 支配者・権力者が横柄に振る舞うのとは、全く違う、真逆の関係が、イエスの弟子であり、イエスが語っている神の国なのです。イエスの左右の座をねだったあの母親と息子たちも、他の弟子たちも、神を知らない異邦人と同じ、上に立って横柄にふるまえる、偉い地位を思い描いていました。私たちにも馴染み深い社会のあり方は、上に立つ方が偉い、というピラミッドで、人の価値を上下関係で値踏みします。だから抜け駆けもしたし、抜け駆けされて腹を立てもしました。
 でもこの事自体が示すように、上に立とう、偉くなる成功や人生を求めるなら、実際は妬みや分断、憎しみや軽蔑を招きます。そんなことを願っているのも分からずに、偉くならなきゃ、人を出し抜いてでも勝たなきゃ、と考えて、結果的に自分にもわが子にも、不幸を招いてしまう。そのままなら、「仕える者に…しもべになりなさい」という言葉は、屈辱に聞こえるでしょう。我慢や損を命じているように思えるでしょう。
 でもこれこそイエスが選ばれた権威でした。神の子イエスが実践なさった、仕える王、与える王のお姿なのです。
28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」
 イエスは、神を知らない異邦人のように「私に仕えよ」と求めず、ご自分が仕えてくださる王です。それも自分のいのちを与えられた王です。「贖いの代価」というのはここにしか出てこない珍しい言葉です[5]。借金を返せず奴隷の身になった人を、買い取るために払われる代金の事です。つまり一つには、人は私たちも含めて、不自由な奴隷の身です。その不全感の埋め合わせに、誰が偉いかと競い合った所で、負債で首が回らない事実は変わらない。その人間に、主イエスが仕えてくださいました。ご自分のいのちを与えてくださいました。どうしようもない負債を抱えた私たちを、尊ばれて、ご自分のいのちという値打ちを与えてくださった。借金をチャラにする以上に、神の子のいのちという値をつけてくださった。これが二つ目です[6]。
 イエスは神の子でありながら、上から下に降られました。底辺にいる人に寄り添って、尊んでくださいました。「わたしはわたしを代価として多くの人を贖う」と、罪の赦しと新しいいのちを下さいました。人に偉大さ・生きる力を与えるのがイエスの権力でした。サーバント型、エンパワーメントのあり方こそ、まことの神の権威です。自分のために偉さや力を握りしめるピラミッド型の権力とは逆です。そして、そのイエスの贖いに与った私たちは、人よりも上に立とうとする方向性を逆にして、人を尊び、人の益を求める。あの母が息子のために平伏して権威を求めたような仕え方、犠牲は終わるのです。自分のためにも相手のためにも、イエスがいのちを献げてくださった、限りない価値が既に与えられた。その恵みに強められて、互いを生かし合い、喜ぶような関係を求めるのです。それが、この世界の光となる教会の姿です。

 「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。」
 イエスの杯を私たちも飲みます。私たちは自分のためだけに生きるのではなく、ともに生き、お互いのいのちを取り戻すために痛み、悲しみ、屈辱、涙を味わいます。それは「わたしの杯」イエスの杯です[7]。私たちのため、多くの人の贖いのため、主は今もいのちを与え、死をも厭わずに仕えています。私たちの痛みは、天の座を戴くためにでなく、主の働きをともに担うためです。私たちに寄り添い、私たちを支え、教え、慰め、私たちを新しく変えてくださいます。主は今も私たちに仕えておられます[8]。

「主よ、聖餐式を思い起こし、今もあなたの杯を心で受け取ります。最も偉大なあなたが、最も低くなったのは、私たちのためでした。あなたの命により、私たちは新しくされました。今なおその途上で、虚栄に酔い、無価値な思いに囚われながらも、あなたは私たちを担い、導き、互いを尊び合うよう、旅を続けさせてくださいます。あなたの命の値をいただいたように、どうぞ、私たちが人を尊び、罪や虚栄にまさるあなたを王とする交わりとならせてください」

脚注:

[1] 「何を願うのですか」セロー 14、15,26、27、32節(イエスは立ち止まり、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」) 最後の目の見えない人との関わりでは、イエスはその願いを受け入れられます。「右と左の座を」よりも「見えるようになることを」という願いこそ、イエスが受け入れてくださる、私たちも告白すべき願い、といえるでしょう。

[2] 直訳は「飲もうとしている杯ポテーリオン・ホ・エゴー・メッロー・ピネイン」です。「一度飲む」を現す不定過去(アオリスト)という文法ではなく、「飲み続ける」を現す現在形です。一回、我慢してゲテモノを食べる、というのではなく、仕え続ける、新しい生き方。それを一度でも飲み続けることは出来ますか?

[3] 聖書では、神の義を侮って飲み干して酔い潰れてしまうこと、人間が受けるべきさばきを象徴してもいます。イザヤ書51:17(目覚めよ、目覚めよ。エルサレムよ、立ち上がれ。あなたは主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。…22 あなたの主、ご自分の民を弁護するあなたの神、主はこう言われる。「見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない。)、エレミヤ書49:12(まことに主はこう言われる。「見よ。その杯を飲むように定められていない者でも、それを必ず飲まなければならないのなら、おまえだけが罰を免れられるだろうか。罰を受けずにはすまされない。おまえは必ず飲まなければならない)。イエスは、その人間に差し出された神のさばきの杯を、代わりに飲んでくださろうとしています。十字架に掛かる前、ゲッセマネの園で、「それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」、「イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた」(26章39節、42節)と祈られました。

[4] これは、23:11でも「あなたがたのうちで一番偉い物は皆に仕える者になりなさい。」と繰り返されます。

[5] 贖いの代価リュトロン 新約聖書では、こことマルコの並行記事のみに使われます。旧約聖書では、レビ記19章20節(男が女と寝て交わり、その女が別の男に決まっている女奴隷であって、まだ贖われていないか、あるいは自由を与えられていない場合は考慮する。女が自由の身でないので、彼らは殺されない。)、イザヤ書45章13節(このわたしが義をもって彼を奮い立たせ、彼の道をことごとく平らにする。彼がわたしの都を建て直し、私の捕囚の民を解放する。代価を払ってでもなく、賄賂によってでもない。――万軍の主は言われる。」)に登場します。動詞形リュトロオーは、ルカ24章21節(私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、)、テトス書2章14節(キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分をささげられたのです。)、Ⅰペテロ書1章18節(ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、19傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。)

[6] ゼベダイの子の母は、イエスに平伏しました。可愛い息子たちがイエスの左右につけるなら、自分の身を投げ出すことも厭いませんでした。イエスは、私たちを愛して、私たちのためにご自分の身を投げ出し、私たちにご自分のいのちの値をつけてくださいました。14節の譬えで、最後の短時間しか働けない者にも、皆と同じだけ与えたいと葡萄園の主人に語らせたイエスは、私たちに自分のいのちさえ与えたいと願って、本当にそうしてくださったのです。

[7] 聖餐式のある週のはず。これは、私たちが主の杯を飲む、という儀式でもある。それは、御利益のある飲み物、というよりも、主が私たちのために苦杯を受けられように、私たちも今ここで主とともにこの世界の苦しみを受ける、という告白でもある。

[8] 地上だけではありません。将来の「永遠の御国」では、永遠に神が私たちに仕えてくださっているのを見るだろう。私たちの細胞も、世界の存在・関係性、すべてを、神が永遠に仕えて、喜んで支えてくださっているのを見るだろう。

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