聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/9/6 マタイ伝10章1~4節(1~23節)「イエスの不思議な人選」

2020-09-05 12:13:41 | マタイの福音書講解
2020/9/6 マタイ伝10章1~4節(1~23節)「イエスの不思議な人選」
 このマタイ10章には、主イエスが十二弟子を派遣されたことと、その派遣に当たっての説教が書かれています。弟子たちの中でも特に選んだ十二人、そして彼らは「使徒」という特別な役割を与えられた選抜の12人です。教会の礎となった人々です[1]。彼らへの説教が、今の私たちに、すべてがそのまま当てはまるわけではありません[2]。それでも、「山上の説教」に続く二つ目の長い説教がここに載せられているのは、私たちに無縁とは思えません。教会の礎である十二使徒の派遣は、今の教会への、私たち一人一人への言葉です。私たちにとっての原点、
7行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。
とキリストの御支配を宣べ伝える教会の宣教、キリストの「平安」を祈り、届ける証しの土台が、この使徒たちの働きによって据えられたのです。その特別な幕開けが、この10章です。
 これは実に不思議な人選でした。一番の
ペテロと呼ばれるシモン
は、ガリラヤの漁師です。最後まで主イエスの眼差しとは違う所を見ています。
「下がれ、サタン」
と言われ[3]、三度イエスを知らないと裏切ると予告されて、本当にイエスを見捨ててしまいます。3節の
「取税人マタイ」
はこの福音書の著者です。支配者ローマへの税金を同国人から取り立てる。そのマタイをイエスが弟子になさったこと自体が奇蹟でした[4]。かと思えば、4節には
「熱心党」
という、当時、革命を支持する過激なグループの名で呼ばれるシモンが出て来ます。使徒パウロはⅠコリント一章で、
…神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。…[5]
と言いましたが、この十二使徒の選びが、活動の拡大とか組織化ということで言えば、おおよそ似つかわしくない者ばかりをそろえた人選でした。そして最後は
「イエスを裏切ったイスカリオテのユダ」。
 どうしてこのユダを十二弟子に入れたのか、裏切ると分かっていたのか、不思議でしかありません。その疑問をあえてここに投げかけたまま、教会は始まりました。
 そして、その派遣はここで二人ずつ並べられています。イエスの派遣は、単身赴任ではなく、二人ずつでした[6]。ペテロ、マタイ、熱心党、ユダ。誰とペアになっても苦労したでしょう。その衝突やすれ違いをしながら、しかし、ともに主に派遣された者として、天の御国が近づいたと宣べ伝えていきました。イエスが自分をもう一人とともに遣わされる。一つのパンを分け合い、旅をする。イエスに出会っただけでなく、他の意外な人とも出会い、協力し、友情を深めていく。そのこと自体が、神の国の証しでした。中にはユダのような裏切りやペテロのような信仰の否定があっても、それでも主がを選び、教会の土台とされたのです。そして、この一癖も二癖もある弟子たちが、異口同音に
「天の御国は近づいた」
と告げて、病気を癒やし悪霊を追い出し、町々を巡っていったのが、この10章で描かれている、十二使徒の派遣です[7]。
 十二使徒が特別な力を授かって派遣されたのだから、行く先々で必要も満たされて、多くの人が回心すると、素晴らしい宣教を約束されたわけではありませんでした[8]。端折りますが、
16いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。17人々には用心しなさい。…
 勿論「狼の中に羊を送り出すようにして」とは、人を乱暴な獣だと思え、と仰有ったのではありません。主は6節で
「失われた羊の所に行きなさい」
と仰有いました。9章36節で人々を
「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れて」
いると深く憐れまれた、これが派遣の原点でした。でも、その飼い主を失い、怯えて疑い深くなっている羊は、弟子たちに狼のように噛みつくだろう。反対され、迫害され、殺されることもある。それに対して主イエスは
「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」
と仰有います。蛇のような賢さ、知恵、抜け目なさと、鳩のような単純さ、無邪気さ、信頼。悪意とか人間の闇も十分に警戒して対策を取りながら、同時に、主を信頼し、平安を祈り[9]、言うべきことは与えられると疑わない[10]。そういう用心深さと信頼とをもって生きる。それ自体が、イエスの弟子の証しです。
 この10章では、人々をキリストに導く、という宣教は何も言われていません。むしろひどい反対とか悪意とか危険に会う。その厳しい現実を見据えつつ、賢さ、知恵、思慮深さを備えさせて、それでも素直さ、希望、信頼、主の憐れみを持って、最後まで耐え忍び、迫害されれば次の町に逃げ、その弟子たちの心構えだけです。その心構えが証しなのです。反対や脅し、結果が期待と違っても、主イエスが私たちを集め、遣わされる。その事に望みをおいて、平安を祈り、語るべき時には主が語らせてくださると信じる。そういう心構えです。
 あの灰汁の強い使徒を選ばれた主が、この私も選ばれて、使徒とは違う何かをさせてくださいます。いや、私が主の弟子に選ばれたこと自体が神の国の証しなんだと思って生きていけるのです。賢さと素直さを祈り求めながら、私たちもここで、この不思議な人選の延長に与った者として遣わされていきましょう。

「主よ、あなたがこの弟子たちを選び、この私たちを招き入れ、互いに主にある友、不思議なつながりで結び合わせてくださいました。この御業を崩そうとする現実に賢く備えさせてください。そして、その中でもあなたの確かな恵みへの素直な信頼を与えてください。今も、私たちは厳しさの前に、知恵を必要としています。また、素直さを必要としています。どうぞ、あなたからの知恵と希望によって私たちを強め、今もあなたが王であることを現してください」

脚注:

[1] 一コリント12:28「神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。」、エペソ2:20「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。」、同4:11「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。」

[2] マタイの福音書の最後では「20:19あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」とありますが、この10章5節に「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。6むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。」と、今では派遣先が限定されています。8節の「病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい」という癒やしや奇蹟の力も、この十二使徒に特別に与えられた役割でしょう。

[3] 17:23。

[4] 9章9-13節、および、当該箇所の説教を参照。

[5] Ⅰコリント1:26~29「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。27しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。28有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。29肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。」

[6] マルコ6:7「また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった。」

[7] 『ナウエンと読む福音書』73頁

[8] 主イエスが王であること、その御国が近づいたことのしるしとして、弟子たちが病人を癒やしたり、悪霊を追い出したりしても、それで人々が大挙して信じるわけではない。イエスはそうはっきりと仰います。

[9] 12-13節「その家に入るときには、(平安を祈る:意訳)あいさつをしなさい。その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。」 イスラエルの「あいさつ」は今に至るまで「シャローム」つまり「平安がありますように」です。あいさつとは平安の祈りだったのです。イエスはそれを形式的な挨拶とせず、天の御国が近づいた事と不可分の、主の平安(シャローム)が成就するみわざと結びつけています。

[10] 19-20節「人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。20話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。」

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