聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/9/27 マタイ伝11章25~30節(22~30節)「わたしから学びなさい」

2020-09-26 12:33:49 | マタイの福音書講解
2020/9/27 マタイ伝11章25~30節(22~30節)「わたしから学びなさい」


招  詞  マタイ11章28~30節
祈  祷
賛  美  讃美歌84「神に頼り」
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交  読  詩篇23篇(1)
 賛  美  讃美歌517「我に来よと」①②
聖  書  マタイの福音書11章25~30節
説  教  「わたしから学びなさい」古川和男牧師
賛  美  讃美歌522「道に行き暮れし」①③
応答祈祷
報  告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌  栄  讃美歌542
*祝  祷
*後  奏

 今日の礼拝の招詞でもあり、教会の看板に最もよく引用されている聖書箇所の一つが、今日のマタイ11章28~30節です。この言葉は、今読みましたように、主イエスご自身の祈り。
25…天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。26そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。27すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。
 このような祈りが先にありました。知恵ある者や賢い者、自分では「俺は賢い。私は分かっている」と思っていても、神が知らせてくださらないなら、主イエスの奇蹟を見ても、その語ることも父なる神を知ることは出来ない。逆に
 「幼子」
と言われ、社会の底辺に置かれる人は、人の目には「何にも分かっちゃいない。馬鹿な生き方をしている」と蔑まれていても、神はその人に
「現して」
イエスとの出会いが、信仰に至るようにしてくださいました。子なるイエスは、幼子たちに
「父を現そうと心に定め」
てくださったので、イエスの父なる神を、天にいます私たちの父として知ることが出来る。それは、人間の知恵や常識や、その上に立った思い上がりをひっくり返す、神にふさわしいなさり方、
「みこころにかなったこと」
でした。
 その前の20~24節には、イエスがコラジン、ベツサイダ、カペナウム、ガリラヤ地方の大小の町々を責めています。そこの人々は、イエスの業を見ながら、悔い改めませんでした[1]。しかし25~27節は、それが神の不思議な遺棄の御心だと讃美するのです。カペナウムというかなりの大都市で「我々は神の民だ、神に近い、裁きとは無縁だ」と思い上がっていた。でも、イエスの御業を見ても、心を開かないなら、そんな自慢は何になるでしょう[2]。ツロとシドン、ソドム、旧約聖書に登場する甚だしい悪を裁かれた大都市よりも[3]、もっと頑なで鈍く思い上がっている[4]。その事を責めたイエスは、神の御心は人の常識とか誇りとか、上下関係を覆し、幼子を顧みる御心だと言われます。この流れで、28節以下の有名な招きが語られたのです。

28すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。…
 
 「重荷を負っている」は「負わされている」で、周囲からの押しつけ、罪悪感、息苦しさなどの宗教的な圧力でしょう[5]。
 「神を喜ばせるためにはこうすべきだ、べからずだ」という義務感、
 罪を責めるだけで赦しには乏しいままの罪悪感、
 そうした負いきれない重荷を載せて、負担をかけて、それを助けようともしない[6]。しかし、本当の神であるイエスは言われるのです。
…わたしがあなたがたを休ませてあげます[7]。29わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。[8]
 あなたが疲れている原因、負わされている重荷を持ってきなさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。負わされていた負いきれない重荷の代わりに、わたしのくびきを負いなさい。
 軛(くびき)とは二頭の牛を繋いで荷物を引かせる道具です。「牛一軛」は牛二頭のことです。イエスが「わたしのくびきを負え」と仰有るのは、まずイエスが一緒に歩み、私たちの荷物を一緒に運んでくださる、ということ。一人で生きず、わたしとともに生きよ、ということです[9]。


 そして一緒に歩まれるイエスは、
柔和で謙って
います。人間の弱さをよく知り、優しく[10]、上から目線でなく謙虚に仕えてくださいます。「~すべき」とか罪悪感で責めず、勿論、罪で自分をわざわざ苦しめる生き方からも、忍耐をもって救い出してくださいます。そして、そのイエスは
「わたしから学びなさい」
 あなたも柔和で謙った生き方を学びなさい、わたしのように生きてご覧。そうすれば魂に安らぎを見いだせるよ[11]。イエスのように生きるなんて、難しそうに思えますが、それもまたイエスが一緒に歩んで、私たちと付き合ってくださるのです。
 この
「わたしから学びなさい」
から
「弟子」
という言葉が出ました[12]。弟子とはすべてのキリスト者を指す呼び方の一つです。イエスに学び、その柔和さ、謙虚さを教えられ、休みを見出した弟子がキリスト者なのです。柔和なのは「立派」なのでなく、自分も人も、柔和に見ていけたら楽です。謙遜も「高尚な美徳」というよりも、イエスに出会ったことで、もう高ぶったり背伸びしたりしなくていい、身軽にそのままになれることです。負いきれない重荷を手放し、罪の重荷や押し潰されそうな罪悪感も下ろし、自分の理解や手の届かない出来事を父なる神に委ねて手放せるのは恵みです。
 このイエスとの関係がもたらす幸い以外に勝る安らぎはありません。イエスとともに、イエスに学びながら、柔和と謙虚な者となる。それが天地を作られた神の御心です。その父からすべてのものを渡されたイエスの、私たちに対する約束です[13]。本当に私たちが味わえる、味わわなければもったいない恵みです。毎日、主の元に重荷を下ろして、主がともに私たちの歩みを負っておられることを覚えましょう。その主の柔和と謙虚さを味わい、戴きましょう。

「主よ。あなたは本当に柔和で謙虚なお方です。それと真逆の言葉や考えに疲れている私たちをあなたは招き、ともに軛を負い、休みを下さいます。私たちの疲れや呻きを深く憐れみ、それを軽くし、新しいことを始められるあなたに感謝します。どうか、私たちにあなたの柔和さと謙りを学ばせて、負いきれない重荷を下ろし、あなたの軛をともにさせてください。」

脚注

[1] 知っている民の罪の方が、異邦人の罪よりも重く問われるのです。いわば、キリスト者への非難の方が、異教徒へのさばきよりも重いのです。私たちは、自分の潔白を主張するのでは無く、自分の弁解の余地のなさを謙虚に認め、自分たちの正しさのゆえではなく、ただ主のあわれみと赦しによるに過ぎないと、誰よりも弁えている者に他なりません。

[2] 「よみにまで落とされる」は、死者がだれもがいく場所に行くことであって、地獄に突き落とされる、という意味ではありません。自分は高められるつもりでも、実は他の人と変わらず、地に落とされるに過ぎない、という皮肉です。また、創世記11章の「バベルの塔」のエピソードや、イザヤ14:13-15のもじりでもあります。23:12「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」。この神の国の法則がここで再確認される。

[3] 「ツロとシドン」エゼキエル28::2-24、アモス1:9-10が欄外に。イザヤ23章も。

[4] 最終的なさばきに、「軽重」があるのかは、人知を越えています。ひとつの可能性としては、さばきそのものの重さよりも、それを受け入れ、認めることが出来ず、往生際の悪さを晒す、ということでしょう。マタイ7:22、24:51など。自分の非を認めない「義人」は、非が明らかな「悪人」よりも、さばきを受け入れがたいでしょう。

[5] この時代、聖書を紐解きながら、宗教家たちは民の負担を増していました。23章4節「また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の方に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。」

[6] これは、ここまでのマタイの福音書の随所で、イエスが取り上げてきた、パリサイ人や律法学者の「偽善」であり「罪の赦し」と相容れない教理です。

[7] 「休み」アナパウシス ここと12:25。「休ませてあげよう」26:45「まだ眠って休んでいるのですか」 加藤常昭牧師は、「新しい、新鮮ないのちを与える」と解説しています。

[8] Eugene H. Petersonの抄訳聖書The Messageでの本箇所の邦訳がいくつか紹介されています。「疲れていますか。くたくたですか。宗教で燃え尽きてしまいましたか…わたしとともに歩み働きなさい…強制されない恩寵のリズムを学びなさい」(「デイリーブレッド」による訳)。「あなたは疲れ、消耗していないだろうか?宗教に燃え尽きていないだろうか?わたしのもとに来なさい。わたしとともに脱出しなさい。それによってあなたは、自分の人生を回復できるのです。わたしはあなたに、どのようにしたら真の休みを得られるかを見せてあげよう。わたしとともに歩み、わたしとともに働きなさい。わたしがどうするかを見ていなさい。強制されることのない恵みのリズムを学びなさい。わたしはあなたに重すぎる重荷やあなたに合わない重荷を負わせはしない。わたしとの交わりのうちに歩みなさい。そうするとあなたは自由に楽に生きられることを学ぶことができます」マタイ11章16〜30節立川福音自由教会説教「人々の期待から自由に生きる」

[9] この「わたしのくびき」は、大工であったイエスが、それぞれの牛に合わせたくびきを作る必要を知る経験から、私たちにも一人一人の形に合わせたオーダーメイドのくびきを作ってくださる、という説明もありました。「わたしのくびきは負いやすく」とはそのような意味だ、というのです。心にしみる解釈です。藤尾正人 インターネット 聖書ばなし No.3-2イエスお手製・ぴったりの「くびき」

[10] 「柔和」は、マタイではここの他、5:5「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」、21:5「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ロバの子である、子ロバに乗って。』」の二カ所。

[11] 「安らぎを得ます」(安らぎを見いだす) この言葉は、エレミヤ6:16を踏まえています。「主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。」 主の道を歩めば、安らぎを見いだせる。しかし、民はそれを拒んだ、というのがエレミヤ書の言葉であり、マタイの文脈でも背景にある事実です。

[12] 「学びなさい」マセテ、弟子(マセーテース)の語源。弟子になる事が休み。

[13] この部分は、マタイ28章の終章とも重なることに気づくでしょう。「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

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