[1] ここだけを切り取って、キリスト教は父や母、家族を大事にしない教えだ、と言うことも出来るでしょう。しかし、使徒ペテロは「もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです」(Ⅰテモテ5:8)という、これこそもっと驚くべき言葉を言っています。
[2] ここで主イエスは、派遣されていく弟子たちに、予想されるのが、反対や憎しみ、迫害であることを覚悟させました。裁判にかけられたり、家族からも捨てられたり、命を守るため別の町にためらわずに逃げることも予告されたのです。でもそれは、主イエスご自身のお姿でもありました。主イエスこそ、人々から迫害され、裁判にかけられ、殺された方です。しかし、その反対のただ中でこそ、キリストの真実、赦しと愛、復活と希望は力強く証しされたのです。
[3] ゲヘナとは、「ヒンノムの谷」の原意で、都エルサレムのゴミ捨て場でした。そこから転じて、将来、神に背いた人が捨てられて滅ぼされる場所、という意味に用いられるようになりました。
[4] ギリシャ語プシュケー。マタイで16回、「たましい」「いのち」「心」などと訳されて使われています。特に、新改訳2017では、22:37の「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』」が、かつての「思いを尽くして」を「いのちを尽くして」と訳し変えた変更を指摘したいと思います。この他にも、マタイがプシュケーを「いのち」という意味で使っていることを考慮すると、「霊魂だけがかろうじて生き延びる」というよりも「あなたがたのいのちは、身体を殺されても決して滅ぼされることはない」という大胆で積極的な意味に理解したほうが筋が通りますマタイ2:20 「立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた者たちは死にました。」、6:25「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。」、10:28「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」、39「自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。」、11:29「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」、12:18 「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。」、16:25「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」、20:28「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」、22:37「イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』」、26:38「そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたし[直訳:わたしのいのち]は悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
[5] 聖書の時代の「アサリオン」は、小さい方から三番目の通過。最小のレプタの八倍、次のコドラントの四倍です。一羽では売られないぐらい、雀の価値は小さかったのでしょうか。また、ここでは「二羽の雀が一アサリオン」なのが、ルカ12:6では「五羽の雀が二アサリオン」ですから、四羽買うと一羽オマケしてくれたのでしょうか。それぐらいの小さな価値の鳥も、父は目に留めてくださっています。聖書の貨幣については、こちらのサイトを参照。 http://www.nunochu.com/glossary/kahei.html
[6] 天の神は、人の身体も魂もゲヘナで滅ぼすことが出来る方ですが、その方が、私たちを滅ぼしたり、検査して裁いて、脅すとか、だからその方を恐怖しなければならないと言うかと思えば、その方が、この地の鳥や、私たちの頭の髪の毛も慈しみ、丁寧に扱っていることをイエスは語るのです。
[7] これは、25章31~46節の「羊と山羊のたとえ」でも言われるメッセージに通じます。
[8] 神の一方的な愛は、神を知らない世界では意外すぎて、目障りだったり疎まれたり、反対されます。神の愛への確信なんかねじ伏せよう、黙らせようと、四方八方から反対されるかもしれません。イエスが平和をポーンと投げ込んでくれるかと思ったら、むしろ厄介になる場合もあるのです。
[9] 34~36節「わたしが来たのは地上に平和をもたらす[欄外、直訳:投ずる]ためだと思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。35わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。36そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。」 この言葉は、ミカ書7:6の引用です。ミカ書7章5~7節「あなたがたは友を信用するな。親しい友も信頼するな。あなたの懐に寝る者からも、あなたの口の戸を守れ。6子は父を侮り、娘はその母に、嫁はその姑に逆らい、それぞれ自分の家の者を敵とする。7しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の言うことを聞いてくださる。」 イエスが初めて仰有った言葉というよりも、ミカ書の預言していた言葉として、彼らは思い出したはずです。また、13節とどう関係するか?
[10] この言葉をはじめ、本章の厳しい言葉は、「命令文」ではなく、叙述文として書かれています。弟子たちに対する命令や、従う上での「条件」ではなく、主イエスご自身の宣言です。この誤解を整理するだけでも、楽になれる信徒は多いのではないでしょうか。
[11] 38節に「十字架を負って」とあります。マタイで初めて出て来た十字架です。当時の残酷極まりない処刑道具です。その十字架を負う、というのは強烈な言葉です。しかし、続けて「自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです」とある通りです。神が私たちの天の父となってくださった、それが私たちの土台だと知る時、私たちはもはや自分の誇りとかこれが自分の命だと思っていた者を担いで行く生き方とは真逆の生き方こそ、命だと気づきます。自分の救いのためにあくせく働き、神と取引をするような考えから、神の救いに信頼して、いわば自分の救いなどどうでも良くなります。主のおかげで、自分のいのちも握りしめなくなる。それこそが、主イエスご自身が見せて下さった歩みに似た、いのちを戴いた、救われた者の、何も恐れない、自由な姿なのです。それは私たちの力や努力によっては出来ません。37~39節は、命令というよりも「ふさわしくない」という教えなのです。