聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/9/20 マタイ伝11章7~15節(1~19節)「受け入れる心が大事」

2020-09-19 13:56:24 | マタイの福音書講解
2020/9/20 マタイ伝11章7~15節(1~19節)「受け入れる心が大事」

 マタイの11章を二回に分けてお話しします。ここで話のきっかけになっている「ヨハネ」(洗礼者ヨハネ)はマタイの3章で登場してイエスの登場の準備をした人です[1]。その後、捕らえられて[2]、今日の2節では
「牢獄でキリストのみわざについて聞いた」
とあります[3]。イエスはご自分の周りに集まっている人たちに、ユーモアを込めてこう切り出されます。
7…「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。
 葦を見たければ荒野ではなく、沼地や川辺に行けば良い[4]。群衆は吹き出したでしょうか。
8そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。
 ヨハネは革の衣を着ていました。王宮のフワフワとした暮らしとは無縁でした。
9そうでなければ何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。
 ヨハネは今牢獄に囚われています。かつての勢いは失われ、まもなく斬首されるのです。風に揺れる葦か、柔らかな衣を剥ぎ取られた人だと思えば、惨めです。しかしヨハネは、神から遣わされた預言者です。それも一預言者という以上に、神が約束されていた「使い」でした。
10この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前に道を備える』と書かれているその人です。
 これは旧約聖書最後のマラキ書3章1節と[5]出エジプト記23章20節の言葉です[6]。主なる神が預言者たちを遣わして語らせたのは、「どう生きるべきか」という生き方、道徳だけでなく、
 「主ご自身が使いを遣わされる」
-民を助け、救い出してくださる-道を備えて、神が恵みと正義をもって支配される神の国を必ずもたらす。それが聖書の語る「物語」の全体像です。
 そのストーリーで洗礼者ヨハネは、キリストを直接先触れする「使い」という意味で、
「預言者よりもすぐれた者」
 11節では
「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。」
13節では
「すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした」
と言われる節目となる存在でした。そしてヨハネの露払いによって、キリスト・イエスが登場しました。「天の御国」の王としておいでになり、罪の赦しを語り、神を「あなたがたの天の父」として私たちを結びつけてくださいました。神の恵みの御支配が始まりました。ですから、洗礼者ヨハネが直前の、最大の先触れとして抜きん出ているとしても、本体である主が来た時、
「11天の御国で一番小さい者でさえ、彼[ヨハネ]より偉大です」。
 イエスの恵みの御言葉に人々が押しかけています。乾いた地が水を吸い込むように
「12激しく攻めて…奪い取る」
熱心ささえ見られます[7]。これは、神の物語の待ちに待った飛躍でした[8]。
 しかし
14節「あなたがたに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来たるべきエリヤなのです」
と回りくどく言われています。人間に「受け入れる心」[9]がなければ、神の物語もイエスの御業も拒みます。どんな説得も「馬の耳に念仏」になるのです。16、17節で、子どもたちが笛を吹いたのに踊ってくれない、葬式ごっこをしたのに泣いてくれない、というように[10]
18ヨハネが食べもせず飲みもしないでいると「悪霊に憑かれている」と人々は言い、19人の子(イエス)が来て食べたり飲んだりしていると、「見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と言うのです。…」
 ヨハネやイエスをさえ、批判して欠点を論(あげつら)う。その一番奥にあるのは、「受け入れる思いが」ないという問題です。いくら証拠を並べられたり、イエスが人を癒やし、多くの奇蹟を行われても、どんなに信じるべきだと言われても、本人の中に「受け入れたくない、何とかして受け入れずに済ませたい。イエスが王である天の御国より、自分が王様でいたい」と駄々をこねる子どものように思っている限り、ヨハネやイエスが誰かなんて、無意味になるのです。
…しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します。
 捕まったヨハネも、馬鹿にされるイエスも、知恵が無かったのではない。イエスの知恵は、取税人や罪人の仲間となり、貧しい者たちに福音を伝えたことでした。「天の御国で一番小さい者でさえ、ヨハネより偉大です」と言われたその第一は、イエスが一緒に食べたり飲んだりしてくださった取税人や罪人たちですね。自分を握りしめ、イエスを王として受け入れずに済ませたい人が多い中、イエスが私を受け入れ仲間にしてくださった。一緒に祝い、喜んでいる。そういう嬉しい交わりが社会の鼻つまみ者の中で始まっていた。それが、主の知恵の正しさの十分な証明でした。それで馬鹿にされても、主イエスは貧しい者、蔑まれている人の仲間となる道、最後は十字架と復活に至る道を選んで、私たちを受け入れてくださったのです。
 今も教会は主の聖晩餐によって、この主の不思議な御国を祝い続けます[11]。「受け入れる心」を持たない人を何とかして変えようとするよりも、私たちが今ここで「受け入れる思い」を戴いて、礼拝に集まること自体、主の御業です。この主からの思いを大事にしましょう[12]。その事を証しして、聖餐の食卓を喜び囲むのが、私たち教会なのです[13]。

「主よ、あなたは御国の王として来られ、私たちをここに集めてくださいました。計り知れない恵みを戴きながら、私たちの目は鈍くなり、目移りをしかねませんが、主よ、どうか「受け入れる心」を支えてください。あなたの御言葉に聞き続けさせてください。分からないことは多くありますが、それでもあなたが私たちを招き、生かし、罪の赦しと新しい命に預からせてくださった幸いに、立ち続けさせてください。主の食卓を囲む教会として整えてください」

風にそよぐ葦

脚注:

[1] マタイ3章1~6節。洗礼者ヨハネも元には、イエス以上に多くの人が集まっていたようです。

[2] マタイ4:17。

[3] このヨハネについて教えながら、そのヨハネもイエスも受け入れない時代の罪を指摘して、最後にはあの有名な「28すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」という言葉に収斂していくのがこの11章です。

[4] 「葦」についての諸説もありますが、いくつかご紹介しましょう。「ヨルダンの渓谷にはヘロデの要塞マケルスがありました。「風にそよぐ葦」ということがここに出てくる理由は、ヘロデ・アンティパスが自分の鋳造させた硬貨に、そのヨルダン渓谷にある葦を刻ませていたからです。ヘロデ・アンティパスを皮肉ってあの弱い葦と呼んでいるわけです。」(シスター今道瑤子の聖書講座 第23回 マタイ11章1~42節)、「パスカルの「人間は考える葦」であるは、ここから来ています」https://fem-for.ssl-lolipop.jp/roseaux/9/ 、「揺れる葦は、意見を変える人間の姿を現している」風に揺らぐ葦

[5] マラキ書3:1「「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。――万軍の主は言われる。」4:4「あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を覚えよ。それは、ホレブでイスラエル全体のために、わたしが彼に命じた掟と定めである。5見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。6彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」マラキ書の予告も、メシアが来る、その前に預言者エリヤの再来がある、というだけでなく、それを迎える主の民を整える、という面が大きくある言葉です。

[6] 10節の言葉はマラキ書だけでなく、出エジプト記でも出てくる言葉です。そこでは主の戒めの真ん中にこの言葉が出て来ます。出エジプト23:20「見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、道中あなたを守り、わたしが備えた場所にあなたを導く。21あなたは、その者に心を留め、その声に聞き従いなさい。彼に逆らってはならない。わたしの名がその者のうちにあるので、彼はあなたがたの背きを赦さない。22しかし、もしあなたが確かにその声に聞き従い、わたしが告げることをみな行うなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となる。」この使いは、神の民を救う、という以上に、神が人に示してくださる律法に叶った生き方をするよう、私たちの心や生き方を整えてくれる「使い」なのです。

[7] この場合の「奪い取る」は天の御国を壊すというよりも、何とかして自分もそこに入る、という意味でしょう。

[8] ヨハネが獄中から動けず、働きを終えようとしていることは、実は、ヨハネが最後の預言者として、イエスにバトンタッチをし終わり、天の御国が始まったという前向きな証しに他ならなかったのです。

[9] 「受け入れる」デコマイ マタイに10回も使われているキーワードです。10:14、40*2、41*4、18:5*2。

[10] 16~17節「この時代は何にたとえたらよいでしょうか。広場に座って、ほかの子どもたちにこう呼びかけている子どもたちのようです。17『笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった。』 「笛吹けど踊らず」とは通常、こちらが一生懸命やっているのに着いてきてくれない、という意味で使われるが、ここの本来の意味は、「笛を吹いても踊ってくれない」と身勝手な事で相手を振り回し断罪する態度への批判。

[11] 19節の「しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します」という言葉は、5節(イザヤ書35章5-6節、61章1節の引用)と共鳴しています。「5目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」この締めくくりは「福音が伝えられています」です。私たちが福音を聴いている。イエスが語っている御言葉の世界を受け取って、今この礼拝に参加している。死人が生き返る以上に、貧しい者が福音を聴くこと(イザヤ35:5)がメシアのしるしなのです。貧しい者が、自分たちを治める王メシアを仰ぐ。自分たちを支配しているのは貧しさではない、富裕者でもない、運命でも、偶然でも、死でもなく、キリスト・イエスだ、と知る。それこそが福音であり、聖書の約束してきた将来像です。

[12] 笛を吹いても踊ってくれない、祈っても応えてもらえない、願っても叶わない、色々なツッコミ所はあるにしても、それでも私たちが「受け入れる思い」をもってここに集まっている。それ自体が、イエスが本当に王である、約束されたメシアである、天の御国が始まったという偉大な証しなのです

[13] 私たちは自分を省みても、自分が王様になろう、御言葉を受け入れたくない思いがあることに気づいて、謙虚になる必要があります。主を主として、自分が王や支配者で操作したい思いを手放すことは、生涯続くプロセスでもあります。しかし、そのプロセスの中に入れられている恵み、私たちが既に御国の中に入れられている事実を過小評価してもならないでしょう。

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