聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/4/5 マタイ伝26章17~30節「これはわたしのからだです」

2020-04-04 17:19:04 | マタイの福音書講解
2020/4/5 マタイ伝26章17~30節「これはわたしのからだです」

礼拝式次第

*印は可能な方のみご起立ください。
*讃美歌は一番のみ歌います。

前  奏 
Ⅰ.神の民の集い
 招  詞      マタイ21章9節、ヨハネ12章15節
 祈  り
*賛  美      讃美歌130「喜べや」
*主の祈り
 罪の告白      招き(詩篇139:1-2、23-24)・沈黙
 赦しの確証    エペソ書2章8-10節
 平和のあいさつ
*賛 美  讃美歌495「イエスよこの身を」
Ⅱ.みことばの宣教
 聖  書      マタイ伝26章17~30節
 説  教      「これはわたしのからだです」
Ⅲ.主の聖晩餐(応答・献身)
*賛   美  讃美歌133「夜は更けわたりぬ」
 ささげもの
 報  告
 牧会祈祷
Ⅳ.派遣
*信仰告白
*賛  美     讃美歌545下「父の御神に」
*派遣・祝福

 この箇所は「最後の晩餐」を伝えています。受難週の木曜日の夜の出来事です。実は、去年から、「来年の受難週の受難日礼拝には「主の聖晩餐(聖餐式)」をしたい!」と楽しみにしてきました。それが新型コロナウイルスのことで、受難日礼拝どころか、先月からの聖餐式も慎重にならざるを得なくなり、集まる事自体を控えるべきか。この後、小会で話し合おうとしています。そんな中で「出来ない聖餐式」の聖書箇所を、今日は開いています。
 そんな目で読むと、新しい発見があります。なんといっても、この晩餐の前に、イエスは
「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります」
と言われて、弟子たちは騒然となりました。裏切り者がいる。みんな「まさか私ではないでしょう」といいますが、その中に「いや、あなただ」と言われる人がいる。それが主の聖晩餐の背景でした。後に使徒パウロはこう言います。
Ⅰコリント11:23…主イエスは渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。…
 この「渡される」とは「裏切られる」と同じ言葉です。イエスを引き渡す弟子たちに対して、イエスは向き合われて、パンと杯を与えたのです。
 この食事は「種なしパン」の祭りの最初の日の食事でした。「種なしパン」、膨らませずに焼いた堅いパンと苦菜の食事でした。それは、かつて先祖が苦しい奴隷生活を送っていたこと、またそこから救い出されて、食事の準備をする暇もなく、種なしパンを焼いて出て来たことを思い出す食事でした。社会で人が人を奴隷として扱ったり、弟子たちも裏切ったり見捨てたりする、バラバラになっている状況の中に、イエスは来られて、主の聖晩餐を定められました。
26…イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
 イエスはパンを裂いて弟子たちに与えました。最初、聖餐は「パン裂き」と言われています。パンを裂き分け合うことが、イエスの記念だったのです。裂いたパンを渡されて、イエスは「これがわたしのからだです」と仰るのです。それは、イエスが来たこの世界が、裂かれているから、そこにイエスが来て下さって、ご自分を裂いて与えてくださったことを思わせます。今日も実際に主の聖晩餐はしません。聖晩餐だけで無く、今までアタリマエのように続けて来た多くの事が出来なくなり、私たちは途方に暮れています。この今、聖餐だけを何とかして行おうとするよりも、思い描いて戴きたいのです。イエスが、パンを裂かれ、私たち一人一人に与えて、「これはわたしのからだです」と仰っていることを。奇麗に四角く切り揃えたのでなく裂かれたパンは一つ一つ、大きさも形も違います。不格好なかけらです。そのかけらを私たち一人一人に渡して、イエスは「これはわたしのからだです」と仰る。杯を取って、与え、
27「みな、この杯から飲みなさい。28これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。
と仰るのです。この杯は一人一人別々に渡されたのではありません。一つの杯を皆で回したのです。パンも元は一つでした。一つのパン、一つの杯をともに戴く。それは、私たちが主にあって一つであることの象徴です。しかし同時に、そのパンが裂かれて渡されるのは、イエスが私たちのために十字架で肉を裂かれた証しです。杯の葡萄酒は、多くの人のため、罪の赦しのために流される、イエスの契約の血です。イエスが十字架で死に、血を流されたことで、私たちはバラバラだった在り方から、神の家族、神の民として一つに贖われたのです。そのために、イエスはご自分を与えてくださいました。その小さな、不格好なパンを一人一人に渡しながら、何のてらいもなく、「これはわたしのからだだよ」と言います。それを受ける弟子たちも私たちも、すぐに恐れ、分断や問題ばかりなのに、だからこそ、その彼らのところに一緒に来て、一緒に裂かれ、私たちを養い、また一つとするために、イエスは来られたのです。

 互いに距離を置かなければならない今、私たちがどれほどお互いを必要とし、お互いに一つであるか、かつてないほどに経験しています。近づけないことが、かえって私たちの絆を物語っています。聖餐のパンがない今日、今まで以上に、あの一切れのパンに託して、「これはわたしのからだです」と言われた主を覚えましょう。聖餐だけでなく、パンや肉を食べる時、何かが差し出される時、どんなものを通しても、そこに託されている恵みを受け取りましょう。また、イエスご自身も
「今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません」
と仰いました。イエスも断酒しています。それは
「わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日」
を待ち望むからでした。今までのように聖餐や交わりは出来なくても、主の目はその回復以上に、やがてひとつ主の食卓を世界中のすべての神の民と囲む時に向かっています。その時に向けて、主が私たちの真ん中に立ち、ご自身を裂いてくださいました。その恵みに養われていきましょう。

「主よ、病気のため、人の罪のため、そして、私たち自身の冷たさで裂かれてしまっているこの世界を憐れんでください。御子イエスは、この裂かれた世界に来られて、ご自身が裂かれてくださいました。その記念の聖餐を出来ない中、今までに無い悲願として主の憐れみを願います。そして、私たちをも、主の命に養われたものとして、あなたの器としてお用い下さい」
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