聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/4/26 マタイ伝6章19~24節「あなたの心を置ける場所」

2020-04-25 11:48:28 | マタイの福音書講解
2020/4/26 マタイ伝6章19~24節「あなたの心を置ける場所」[1]

前  奏 
Ⅰ.神の民の集い
 招  詞      詩篇66篇1、20節
 祈  り
*賛  美      讃美歌23「来る朝ごとに」①②③
*主の祈り
 罪の告白      招き(マタイ11:28-30)・祈り・沈黙
 赦しの確証    ヨハネ3:16-17
 平和のあいさつ
*賛  美      讃美歌23 ④⑤
Ⅱ.みことばの宣教
 聖  書      マタイの福音書6章19~24節
 説  教      「あなたの心を置ける場所」
Ⅲ.みことばへの応答・献身
*賛  美      讃美歌513「天に宝」
 ささげもの
 報告・牧会祈祷
Ⅳ.派遣
*信仰告白
*賛  美     讃美歌546「聖なるかな」
*派遣・祝福

 「地上に宝を蓄える」
 お金や財産、仕事や地位、健康とか美しさとか、「地上の宝」というと他にも沢山のものが思い浮かびます。将来への夢とか、自分の楽しみとか、生き甲斐とか、色々なものがあるでしょう。この地上には、神が沢山の祝福や喜びを下さっています。それ自体は神からの贈り物です。でもそれは、虫やさびで傷物になったり、盗み取られたり失われてしまうものでもある。それを宝として蓄えるのは止めて、天に宝を蓄えよ、と言われるのです。
 この
「天に宝を蓄える」
は前回までの流れでの言葉です。山上の説教は、天の父の子どもとして生きよとのメッセージです。天とは何よりも神がおられる場所です。恵みの神が支配しておられる所です。イエスは私たちに「神の子どもとして生きよ」と仰います。富に頼るより、持ち物を生かして、ともに分かち合う。神が隠れた所におられるから、私たちも隠れた所を大事に歩む。それがここで
「天に宝を蓄えなさい」
と言われるのです。イエスは天のすべての富を捨てて謙り、私たちの所に来て下さり、私たちを宝のように愛する歩みを生きてくださいました。私たちが心に闇を抱えたまま、朽ちるものを宝として縋(すが)り、また失われていく生き方から救い出すため、ご自身が命を捧げ、闇の中で死んでくださいました。私たちを、イエスは命がけで愛して、尊んでおられます。天地の神が、私たちの父となり、私たちを神の子どもとしてくださっている。これが、天が示した生き方です。このイエスに従うこと自体が
「天に宝を積む」
生き方です[2]。その土台は、神が既に私たちの天の父となってくださった恵みです。「私が善い行いをする、地上や天上に財産を蓄えるために働く」という、自分が土台なのとは大違いの生き方です。神の大きな愛が土台です。だから、虫に食われたりさび付くこともなければ、盗まれたり失われることも絶対にありません。だから、心から安心できるのです。
21あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。[3]
 地上の宝が壊れることは悲しいし困惑することですが、その中でも、動かされることのない神の大きな恵みが私たちの命である事は、心に大きな平安と自由さを与えてくれます。逆に、自分の宝を、地上の稼ぎとか金メダル、人間関係、あるいは牧師が教会の人数とかに置いていたら、いつも心が浮き沈みしてしまいます。虫に食われたりさび付いたりしないように工夫はします。泥棒に取られないようにシッカリしまうことも大事です。でも狡賢い盗人の手口や、不慮の事故で傷物になることは悲しい事に避けられないですね。
 今も、半年前まで大丈夫と疑いさえしなかった生活がすっかり変わりました。ウイルスを用心して精一杯注意しますが、それでも感染や失業や問題が降りかかることはあります。傷がつき盗まれたり壊れたり、悲しみ困りますが、それは罰とか不幸とかではなく、避けられない。それを「宝」として、自分の心の置き場所には出来ない。むしろ、生活や頼りにしているものも壊れるような中で、天の父を見上げながら、私たちがともに生きていく。モノが傷ついても、神は私たちを傷物とは見られません。私たちの命を決して盗ませず、宝のように守ってくださる[4]。その事を覚えて、私たちが互いの命を大事にし合い、知恵と思いを戴いていく。今、出来ることをして、希望を胸に生きていく。それこそが、本当の意味で、「自分のために」宝を蓄える生き方になるのです。
22からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、
23目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。[5]
 目は光を取り入れる窓です。目が何を見ているかは、全身に影響しますね。何を宝とし、どこに心を置いているか、そこにいつも目を向けています。天の私たちの父に目を向け、今ここで赦しや愛、誠実さ、隠れた所を大事にして生きるなら、全身が明るくなります。しかし、壊れるモノを宝として心の目を向けていれば、そうはいきません。私たちの内には光がなく、闇しかないのに、内なる闇を満たすために、傷になるしかないものに目を向けても、闇は深くなるだけです。しかし、目を天に向けるなら、私たちの内には光を迎え入れることが出来ます[6]。
24だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。
 私たちの主人は神です[7]。この世界を造り、私たちを治めている神。富とか宝とか、病気とか政治家がほしいままにしているようでも、神だけが全てに働かれ、この壊れやすい世界の、小さな私たちに目を留めて、父となっておられます。そして、私たちがお互いに助け合い、尊び合う生き方こそ、私たちのための宝だと言われます。私たちをこの礼拝に招いたイエスは、ここから出て行く場、色々なものが傷物になり失われる世界で、神にある、朽ちない宝を持つ者として私たちを遣わされます。主が、この世界の中で、尊い御業を為して下さると信じます。

「天の父よ。多くの祝福を惜しみなく下さり、今日まで支えて下さった慈しみに感謝します。それらが朽ち、傷つき奪われることは悲しみであり恐れですが、私たちの宝はあなたの他にありません。今、多くのことが変わり、苦しみ悩みがありますが、その中でもあなたが働き、命の業がなされてもいます。どうぞ、主イエスが約束されたように、私たちの心をあなたのうちに置き、内なる闇を照らしてください。そして、あなたの光の子どもとしてお遣わしください」

脚注:
[1] 「19自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。20自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。」。ヤコブ5:1-6はこの注解。「金持ちたちよ、よく聞きなさい。迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい。5:2 あなたがたの富は腐り、あなたがたの衣は虫に食われ、3あなたがたの金銀はさびています。そのさびがあなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財を蓄えたのです。4見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。5あなたがたは地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、屠られる日のために自分の心を太らせました。」
[2] この事は誤解される事が多いでしょう。地上に宝を蓄えずに、天に宝を蓄える、と言うことが場所だけの違いで、天国に報酬を積むために、良い行いに励んだり、神が喜ばれるような奉仕や献金をしたり、という読み方もあります。しかし、「天に宝」という言い方は、マタイ19:21でもう一度出て来ます。「イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」。この19:21も、「完全になる」ことと「天に宝を持つ」ことを結びつけています。それは、施しという代価で天に宝を積むことというよりも、施しをすること、手放すこと、いのちを捨てることそのものが、神に似ることを言っています。参照、マタイ5:48「48ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」
[3] 英語と同様、「心」は心臓とも訳せます。宝がある所は自分以外の場所ですが、そこに心・心臓もある、という非常に面白く、含蓄のある言い方です。心臓も目も、私たちの内側では完結せず、外にあるのです。
[4] 心の置き場所として安心できるのは、天、神ご自身以外にありません。そして、神は私たちが神に差し出せる何かを持っているか持っていないかにかかわらず、私たち自身を受け入れて、心の置き場所となってくださる。神が私の宝だと思って生きていける。これは、心を明るく、喜びで満たす幸いです。
[5] 「目が健やか」には、新改訳2017では欄外に「あるいは「澄んでいる」」とあるように、まっすぐに目が見えることを思わせます。また、箴言22:9「善意の人は祝福を受ける。自分のパンを貧しい者に与えるからだ。」とある「善意の人」は「目が良い」というここの表現です。反対に、箴言23:6「物惜しみする人のパンを食べるな。彼のごちそうを欲しがるな。」は「目が悪い人」という直訳です。目が健やかとは、善意であること、目が悪いとは、物惜しみすること。世界の見方が、善意の眼鏡か、物惜しみの目か、という言い方です。
[6] でも、それが出来ないこともここで明らかになっているでしょう。地上の朽ちる宝に心を置いてしまう。しかし、その私たちとイエスはともにいて、導いてくださる。宝が朽ちないようにするよりも、天に心を置かせてくださる。目を輝かせてくださる。これが、イエスの言葉が、道徳ではなく権威であるということです。
[7] 仕える(デューロオー)はマタイでここのみ出て来る言葉です。ですから「私たちが仕える行動の大事さ」、というよりも、神と私たちとの「関係性」が強調されていると読むべきでしょう。富をもらうため-それが地上の富であれ、天国の報いであれ、その「富」のために、神に「仕える」のであれば、神は手段に過ぎなくなります。そして、その「富」は決して神ご自身に成り代わって、私たちを健やかにしてくれることは出来ません。
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