聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/4/12 使徒の働き2章23~28「いのちの道を知らせる方」 ニューシティカテキズム23

2020-04-09 13:22:24 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/4/12 使徒2章22-28節「命の道を知らせる方」ニュー・シティ・カテキズム23

 今日はイースター、復活祭です。イエス・キリストが今から二千年ほど前、十字架にかかって死んだ後、足かけ三日後の日曜日の朝、墓からイエスはよみがえりました。その事を、今日の聖書箇所では、ハッキリと告げています。
使徒二23神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。24しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。
 復活はイエスが贖い主キリストである証明です。私は小さい頃、イエス様が私たちのために身代わりとなり、十字架で死んでくださった、という事は繰り返して聴いていました。「私のために死んでくださったイエス様、ゴメンナサイ、有難う」、それが私のキリスト教理解でした。けれども、神学校に入り、牧師になっていく中で、改めて「復活は何のためだろう?」と考えました。そうして、イエス様の身代わりの十字架だけではないんだ、イエスが死んでよみがえって、今もともにおられる、それこそがキリスト教の福音なんだと分かったのです。イエスが死んだ事は測り知れない恵みです。しかしそれが福音の中心ではありません。イエスが可哀想に十字架に死んだ、申し訳ないことに身代わりの生贄になってくださった…そんな「義理と人情」の話ではないのです。十字架に死なれたその後に、イエスがよみがえったこと、イエスが死や罪や私たちの弱さよりも強いお方であることこそが、私たちに告げられている福音なのです。
 先の聖書の言葉の後、説教者のペテロはこう続けて語り、ダビデの詩篇を引用します。
使徒二25…『私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。
26それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。
27あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。
28あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。』
 イエスとは、この方だったのだ。詩篇で詠われていた、この主はイエスだ。私たちとともにおられ、喜びや望みを下さり、私の魂を陰府に捨て置かず、滅びをお見せにならないお方。いのちの道を知らせてくださるお方、そのお方がイエスだったのだ。そして、そのお方が、私たちのために人間となって、死んでくださったのだとしても、そのまま死に繫がれていることなどあり得なかった。私たちに命の道を知らせてくださる方が、自分では死んでしまってそのまま、のはずがない、というのですね。
 ここで
「主」
と言われます。聖書に出て来る、唯一の創造主、本当の神の別名です。その主がイエスだ、というのです。イエスは、主なる神です。イエスは、本当の人間であり、同時に本当の神、主でした。その復活は、イエスが主であることを力強く証しした出来事であったとも言えます。今日は、イエスが神であることを覚えましょう。
第二十三問 なぜ贖い主は、本当の神でなければならないのですか?
答 その方が本当の神であることによって、その方の従順と苦しみは、完全で、効果があるからです。そしてその方は罪に対する神の正しい怒りを受けて、死に打ち勝つ事ができるからです。
 イエスは、私たちを神に背いた罪の状態から、ご自身の命という代価によって、贖って(買い戻して)くださいました。しかし、その命がただの人の命であったとしたら、私たちの罪をすべて贖うことは出来ません。人の罪は、造り主であり、すべての主である神に対する背信ですから、無限の重みを持っています。人間が犯した罪を償えるのは人間で無ければなりませんし、神に対した罪を償えるのは神以外にいません。神は、ご自身に対する罪を他の誰かに追わせることはなさいませんでした。そんなことは重すぎますし、無理なことです。神は、ご自分が、人間の罪を贖う以外に、人間の罪を赦し、解決して、関係修復をする方法はないとご存じでした。だから、神の御子であるイエスを人間としてこの世にお遣わしくださいました。
 人間としてのイエスの従順と苦しみは、イエスが神であったからこそ、完全で、有効でした。そして、最後には十字架の上で、神の正しい怒りを全て引き受けてくださいましたし、その上で、死に打ち勝って、よみがえってくださったのです。イエスの復活は、偶然や奇跡では無く、イエスが神であった証拠です。そして、神であり人であるイエスは、今も私たちとともにいてくださり、私たちに喜びや望みを与え、いのちの道を知らせてくださるのです。
 これだけではありません。聖書にはイエスが神であることは、随所に書かれています。
ヨハネ1:1初めにことば[キリスト]があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
コロサイ2:9キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
ヨハネ黙示録5:13「御座に着いておられる方と子羊[キリスト]に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。」
 イエスに賛美を捧げること、イエスを礼拝し、イエスに信仰を置くこと。それはイエスが神でなければ、神ならぬものを神とする偶像崇拝になります。イエスは「わたしではなく、神を礼拝しなさい」とは言わず、
「わたしを信じなさい」
と仰ったのです。イエスは、神でありながら、私たちと同じ人間になりました。人としての悩みも苦しみも、辛さも死も味わい知っておられる神です。そして、死んで、よみがえらせられました。



 今、新型コロナウィルスで、世界の教会もイースターの集まりが持てず、教会以外のイースターイベントも持てません。このような世界の脆さ、私たちの悲しみも無力さも、イエスは十分に味わい知り、ともにしておられます。イエスは十字架にかかったのです。復活まで丸一日、土曜日がありました。今、私たちはその土曜日を生きているようなものです。まだ世界の復活、いのちの勝利を見てはいません。悲しみがあり、疑いがあります。けれども必ず日曜日は来ます。復活のイエスが来てくださいます。だから私たちは、希望をもって今ここで、命を祝いながら、希望を持って歩ませていただいています。



「子なる神よ、罪に対する神の怒りを受けること、また死に打ち勝つことは、私たちには到底できません。ただあなただけ、聖いあなただけが、罪の義なる裁きを受け、死に打ち勝つことができました。私たちが神をとこしえに喜ぶために、神への道を備えてくださって、ありがとうございます。アーメン」
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