聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/4/12 イースター礼拝 Ⅰコリント15章1~11節「最も大切なこと」

2020-04-11 11:57:39 | 説教
2020/4/12 イースター礼拝 Ⅰコリント15章1~11節「最も大切なこと」

前  奏 
Ⅰ.神の民の集い
 招  詞      Ⅰペテロ1章3節
 祈  り
*賛  美      讃美歌148「救いの主は」①
 主の祈り
 罪の告白      招き(コロサイ3:1,5,6)
                    祈り・沈黙
 赦しの確証    ローマ書4章25節
 平和のあいさつ
*賛  美      讃美歌148「救いの主は」②
Ⅱ.みことばの宣教
 牧会祈祷
 聖  書      Ⅰコリント15章1~11節
 説  教      「最も大切なこと」
Ⅲ.みことばへの応答・献身
*賛  美      讃美歌154「地よ声高く」①
 ささげもの
 報  告
Ⅳ.派遣
*信仰告白
*賛  美     讃美歌154「地よ声高く」②
*派遣・祝福    ヘブル書13章20-22節

 世界の教会が今日、主の復活を祝っています。教会に集まらなくても、主が私たちのために十字架にかかり、三日目によみがえらされ、今も生きて私たちとともにおられる。この知らせを味わい、お祝いしています。私たちは今年、この事実をかつて無かった程噛みしめています。
 十字架と復活は、今日のⅠコリント15章でパウロが確認している「最も大切なこと」です。
15:3私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、5また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
 キリストの私たちのための死と復活は、聖書に書かれていた、最も大切な事です。それは聖書後半のクライマックスですが、その前の3分の2、旧約聖書でもずっと語られています。やがてキリストが来て、私たちを回復して下さる。それも、神の圧倒的な力によるのではなく、キリストご自身が死なれ、葬られ、命を捧げて下さる。また、それで終わりではなく三日目に甦って、弟子たちや多くの人に現れたのです[1]。教会はこの「福音」を最も大切な事として語ってきましたし、世界のキリスト教会、キリスト者はこのことを信じているのです。
 でもそれは「昔、キリストが十字架に死んで復活しました」と信じているという意味ではありません。キリストが復活して現れた弟子たちは、ただ復活の目撃証人となって、復活を裏づけただけではなく、復活の主に出会って、人生を新しくされました。弟子たちは、イエスの十字架の時に全員が逃げ、イエスを裏切ったりした失敗者ばかりです。復活の時にも、彼らは喜ぶどころか、笑ったのです。イエスが死んで、もうお先真っ暗と沈み込んでいた。そこにイエスが現れて、彼らは本当に驚いた。ひっくり返る思い、いや本当に弟子たちの人生はひっくり返ったのです。イエスの十字架と復活は、私たちの常識を覆します。イエスをよみがえらせた神の恵みは、私たちにも力強く働いています。それが、聖書に書いてあること-キリストが私たちの罪のために死なれ、葬られ、よみがえられ、弟子に現れた、最も大切なことなのです。
 特に、このコリント書を書いているパウロ自身、自分のことをしみじみと書いていますね。
8そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。9私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。10ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。
 神の教会を迫害していた自分、使徒と呼ばれるに値しない私に、キリストが現れてくださって、恵みによって、他の全ての使徒たちよりも多く働かせてもらった。私が、ではなく、神の恵みが私とともにあって働いた。そういう神の恵みを自分がいただいた、という告白になっています。
 この「無駄にはならず」は、15章に5度も繰り返される言葉です[2]。神の恵みは決して無駄にはならない。キリストの十字架の死という最悪な出来事と、その後の復活の恵みは、禍や死が襲いかかっても、決して無駄にはならないと希望を与えてくれる、不思議な灯です。
 次の12節以下を見ると、コリントの教会の中に
「死者の復活はない」
「死んだら人間お終いだ」と考える信者がいた事が分かります。十字架や復活は信じていたのでしょう。それでも「それはそれ、これはこれ」。32節では
「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」
という言い草も出て来ます。だからパウロは、もしそうなら、キリストの復活もなかった、でもキリストは復活したのだ、と語るのです。この章の最後の結論はこうです。
58…私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
 イエス・キリストは私たちの罪のために死んで三日目に復活させられ、イエスを見捨てた弟子たちを新しく立ち上がらせ、教会の敵であったパウロを使徒にしてくれました。神の恵みは、死よりも強いのです。イエスが死なれたように、私たちも死にます。死ななくなるわけではなく、弱さを持ち、朽ちる身体で生きています。でも、それが全てではなく、復活の力をキリストは私たちのうちに働かせてくださる。
 今、これだけ世界が感染症に脅かされて、対策を取る必要に迫られています。「自分は大丈夫」などと思わず、朽ちる身体だと弁えて、十分慎重になりましょう。それでも、この朽ちる世界にも、主イエスが来られて、朽ちない恵みの力を働かせておられる。そうでなかったら、キリストは復活しなかったはず、信仰など無駄なのです。しかしキリストは、初穂としてよみがえられました。決して無駄にはならない労苦を私たちに与えてくださっている。それは私たちにとっての生きた希望です。

「主イエスがよみがえられたことの、実に不思議な知らせを思い、御名を崇めます。あなたは私たちの救いも、十字架の苦難も復活も、無駄とは思わず、御業を成し遂げてくださいました。その恵みの力に、私たちが今支えられて、あなたの命の働きを期待して歩めることを感謝します。どうか私たちもあなたの恵みの器として、今この時、それぞれの場でお用いください。あなたの慈しみを見させ、私たちの心も恐れを溶かし、愛と喜びに温かく満たしてください」
[1] イエスの復活は、実際にその目で見た目撃証人が大勢いる事実です。勿論、旧約聖書には、「ケファに現れ、十二弟子や500人以上の兄弟たちに現れる」とは書かれていませんが、その大勢に現れたことも聖書の約束、預言で、最も大切なことでした。
[2] Ⅰコリント15章2節「私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。」、10「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。」、14「そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。」、58「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」

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