聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/4/19 マタイ伝6章16~18節「油を塗り顔を洗え」

2020-04-18 15:16:25 | マタイの福音書講解
2020/4/19 マタイ伝6章16~18節「油を塗り顔を洗え」[1]

 私たちは「断食」には馴染みがありませんが、聖書には断食が度々出て来ます。非常に苦しい時、また自分の罪を嘆いて悔い改める時、また旧約の律法では、年に一度の「贖いの日」という大きな祭りで断食をしました[2]。新約聖書でも大事な決断で断食をした記録があります[3]。日本長老教会「礼拝指針」にも「断食と感謝の日」の項目があります[4]。断食は聖書の習慣です。しかし一方で、断食に対する注意や強い警戒も出て来ます。人に見せるためのパフォーマンスになったり、苦行が信仰を強めるという間違った信仰に走ったり[5]。そういう傾向が預言書でも新約時代の教会にも指摘されて、厳しく諭しています[6]。イエスもこう言いました。
マタイ6:16あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
 断食とか苦行そのものに価値がある、という考えを聖書は一蹴します。断食して祈る人の信仰は立派だとか、断食祈祷は神を動かす効果がある。そういう考えには価値がないとします。
 でも断食そのものが禁じられているのではありません。では、なぜ断食をするのでしょうか。それは「せずにおれないから」しかありません[7]。食べ物も喉に通らない程、苦しい。自分の罪の重さに打(う)ち拉(ひし)がれている。大きな決断を前に身震いする。悲しい時、どうすればいいか分からない時、食を断つのは自然なことです。その時に断食したり、髪をバッサリ切ったり丸坊主にしたり、楽しみを捨てたりする。それは将に今ではないでしょうか。
 今、私たちは本当に大きな脅威の中にいます。また一人一人、コロナの影響でぶつかった問題や悩みは千差万別でしょう。この御言葉は今、新しい響きをもって聞こえてきます。(世界福音同盟(WEA)では、新型コロナのことにあわせて、国際断食祈祷として、3月29日に祈りの日を設けていました。今日はその祈りをともに祈ります。)
 私は皆さんに断食を呼びかけるつもりはありません(それよりもしっかり食べて(食べ過ぎず)体力をつけてほしいです)。そうでなく、皆さんの感染の心配、仕事が多忙になったり閑古鳥が鳴いたり、家族と会えず、予定が立てられない。ご飯が喉も通らない程の不安や緊張を、大丈夫なふりをせず、出来る形で表現して良いのです[8]。私も友人が紹介してくれた賛美を聞いていて思いがけず涙が湧いてきてしまって、「ああ、自分もどこかで涙を抑えていたなぁ」と思いました。小さな断食でも、賛美でも、どんな形でも良い。その私たちの表現の奥にある痛みを、主は受け入れてくださるのです。私たちがどう祈れば分からない時も、御霊は深い呻(うめ)きでとりなしてくださいます[9]。
 断食は、人に見せるためでないばかりか、神が求める犠牲でもありません。決して「神に犠牲を払わないと怒る」とか「神は神妙な悔い改めを求めている」はイエスの福音とは違います。他の神々なら、苦境は罰です。「もっと神妙になれ、質素に慎ましくしろ」、「暗い顔」が敬虔さの表れとされます。断食とか苦行とか奉仕とか敬虔な行い、神妙さを求めます。勿論、悲しみのあまり、自発的に暗い顔になるかもしれません。聖書には、頭に灰を被ったり髪を振り乱したり抜いたりする嘆きの表現があります。しかしイエスはその反対を言われます。
17断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
 頭に油を塗るのは日常的な身だしなみや、来客に対するもてなしでした[10]。正装ではなく、ちょっとしたお洒落という所でしょうか。今なら、髪や身だしなみを整え、清潔にする。顔を洗えばサッパリします。やつれた顔をしてみせるのではありませんが、本当に断食してやつれていれば、そのままに見せます。やつして見せるのでもなく、元気そうに見せるのでも無く、素を見せる。「偽善者」という言葉は、仮面をかぶった役者を表すそうですが、仮面をかぶらずに顔を洗って、素でいくのです。人に敬虔そうに見せようなんて考えを捨てて、本当に悲しければそれもそのまま。人がどう見るか、ではなく、自分で自分の世話をし、小(こ)綺(ぎ)麗(れい)にする。もっと言えば、悲しみや悩みもあるままの自分の生活を愛するのです[11]。
 人がどう見ようと、天の父が隠れた所で見ておられ、私たちの苦しみに寄り添ってくださっている。人目につかない悲しみを知っていてくださる。見えない奥にある、大きな緊張をご存じなのです。イエスの言葉に従って仮面を脱いで顔を洗い、自分自身をケアして生きていく時、見えてくるのは、お互いが見えない痛みを持っているという事実です。表には見えてこない悲しみや、苦しみを皆が持っています。どう見せなきゃと気に病んでしまう、そういう人の心もイエスはご存じです。見えるうわべの奥に、天の父とその人だけが知っている、他のだれも触れてはならない世界を、私たち一人一人が持っています[12]。そういう人として全ての人を見るなら、自分を良く見せよう、敬虔そうに見られなきゃ、なんて考えはアホらしくなるでしょう。
 たとえその禍が明らかに自分の罪のせいだとしても、断食や自分を罰する苦行を天の父は求めない[13]。その罰はイエスが代わりに受けてくださいました。イエスが十分な償いをしてくださいました。そのイエスが、断食の偽善を禁じるだけでなく、断食せずにおれない私たちに天の父を示してくださいます。あなたに求められているのは自罰ではなく、天の父に信頼して悲しむことです。その私たちに、天の父は報いてくださる。それは、偽善を避けるよりももっと深く豊かな、天の父を信頼するというゴールです[14]。今、私たちの痛みや必要を飾らずに主に祈りましょう。顔を洗い、手も洗い、自分を十分にケアしながら、お互いの見えない痛みを思いやりましょう。それがイザヤの言う断食です[15]。行政に訴えかけ、周りの困った人に手を差し伸べ、主がこの大きな変化の中を導いてくださることを祈りましょう。

「天の父。あなたの憐れみを乞い求めます。余りに大きな変化に戸惑い、困惑しています。生活の必要がいかに多かったかを痛感しています。いかに豊かな恵みに支えられてあったか。断食や犠牲を喜ばず、恵みと真実を喜ばれる主よ。どうぞ、顔を洗い手を洗いながら生きていく私たちを、全ての人も特別な恵みで支えてください。支え合う心と知恵と手をお恵みください」

[1] 久し振りに、マタイの福音書の続きに戻ります。ずっとマタイを読んで来て、特にこの6章では「主の祈り」について丁寧に見てきました。思い出していただきたいのですが、6章は、「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。」と始まって、施し、祈り、そして今日の「断食」と三つの善行に触れながら、「人に見せるために人前でしないように」と具体的に語ってきたのです。今日は「断食」です。
[2] レビ記16:31「これがあなたがたの全き休みのための安息日であり、あなたがたは自らを戒める。これは永遠の掟である。」 この「自らを戒める」は断食のことです。同じく、レビ記 23:29、民数記 29:7。後のバビロン捕囚の帰還後には、年四回に増えました。ゼカリヤ書8:19「万軍の主はこう言われる。「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとって、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい例祭となる。だから、真実と平和を愛しなさい。」」
[3] 使徒の働き13:2「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。3そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。」、14:23「また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食して祈った後、彼らをその信じている主にゆだねた。」
[4] 日本長老教会「礼拝指針」12章 断食と感謝の日
(根拠)12-1 断食の日と感謝の日を神の摂理と導きによって守ることは、聖書的であり、理性にもかなっている。
(範囲)12-2 断食の日と感謝の日は、個々の信者・家庭・特定の教会・近隣諸教会・中会内の全教会、大会内の全教会などによって守られる。
2 これらの日の選定は、それぞれの個人・家庭・小会・中会・大会の判断に任される。
(断食の日および断食の方法)12-3 断食の日には、この日を守ることを必要とした事柄について、普段よりも熱心に祈り、自覚した罪を悔い改める。
 2 断食は、水分を除くすべての食を断つことによって行われる。
[5] ルカ18:12「私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』」、ローマ14:1~23「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。2ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。3食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。4他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。5ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。6特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。7私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。8私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。9キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。10それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。11次のように書かれています。「わたしは生きている──主のことば──。すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」12ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。13こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。14私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。15もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。16ですから、あなたがたが良いとしていることで、悪く言われないようにしなさい。17なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。18このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。19ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。20食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。21肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。22あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。23しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」、コロサイ2:16「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。17これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。18自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、19かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。20もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、21「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。22これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。23これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。」、Ⅰテモテ4:3「彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。」
[6] コロサイ4:21「「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。…23これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。」、Ⅰテモテ4:3「彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。
[7] レビ記10章では、大祭司アロンが、二人の息子がささげものを禁じられていた方法でささげたために焼き殺された時、大祭司として食するべき肉を食べませんでした。最初モーセは怒りましたが、アロンの理由が、息子への悼みであり申し訳なさだと告げられた時に、それをよしとしました。
[8] 嘆きたいとき、八つ当たりをして憂さ晴らしをしたりやけ食いに走ったり、楽しいふりをする人も多い。信仰の世界では、神に解決を求めることで、問題から逃げようとすることがある。しかし、断食は、自然発生的な嘆きとして、私たちの在り方を戒める。断食することが、神への訴求力を強めるのではない。神はそんな外見を見はしない。ともに、その真実の悲しみを嘆かれるのだ。
[9] ローマ8:26~30「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。27人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。28神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。29神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。30神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」
[10] ルツ3:3「あなたはからだを洗って油を塗り、晴れ着をまとって打ち場に下って行きなさい。けれども、あの方が食べたり飲んだりし終わるまでは、気づかれないようにしなさい。」、マルコ6:13「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした。」、ルカ7:46「あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。」、10:34「そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。」、ヤコブ5:14「なたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。」、
[11] 伝道者の書9:7~10「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。8いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。9あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。10あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。
[12] 周りの人にも、隠れた祈りがあり、隠れた施しがあり、隠れた葛藤・うめきがある。見える所で平気のように思えても、それだけで判断しない。観察を解釈にしない。自分には見えない、その人と神との交わりがある。自分は決して神のようにその人を見えるわけではない、という弁え。またそれは、私たち自身にも言える。自分をうわべで判断しない。もっと悲壮感が無ければ、もっと善人でなければ、もっとこう見せなければ、ではないし、神が見ているのはうわべではなく、奥の自分に断食や懺悔などの行為を求めるお方でもない。自分をうわべで決めつけない。
[13] 人に自分を立派に見せようとか、神にもパフォーマンスをしなければ、とか、そういう考えから、イエスは救い出してくださいます。
[14] ここでは、6章の最初から言われているのは、偽善にならないこと以上に、天の父への信頼です。天の神が私たちの父となっておられる。そして、見えない神は、隠れた所におられて、私たちの見えない所を見ておられる。その事を覚えること、私たちの見えない所を見ておられる父の前にあることを信頼することです。
[15] イザヤ書58章3~8節「『なぜあなたは、私たちが断食したのに、ご覧にならず、自らを戒めたのに、認めてくださらないのですか。』見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、追い立てる。4見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかのためであり、不当に拳で殴るためだ。あなたがたが今のように断食するのでは、いと高き所に、その声は届かない。5わたしの好む断食、人が自らを戒める日とは、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、粗布と灰を敷き広げることなのか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。6わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。7飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。8そのとき、あなたの光が暁のように輝き出て、あなたの回復は速やかに起こる。あなたの義はあなたの前を進み、主の栄光があなたのしんがりとなる。
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