2014/04/13 マルコ15:22~47「まことの神の子」
今週は、世界中のキリスト教会が、イエス様が十字架にかかられたのと同じ時期、同じ季節として、ともにイエス様の御苦しみを思い、また、来週は三日目の復活を喜ばしくお祝いしますイースターです。今日と、金曜日の受難日礼拝、そして、来主日と、マルコの福音書の記事を続けて聴きたいと思います。特に今日は、イエス様が十字架にかかられた、まさにその箇所を開きました。
24それから、彼らは、イエスを十字架につけた。
と、読み飛ばしそうなぐらい短く書かれています。しかし、十字架刑とは、十字に手を広げた囚人の両手と両足を釘で打つのですから、凄まじく残酷な拷問でした。そして、そのまま十字架を地に立てて吊すのですから、囚人たちは想像を絶する激痛に悶え苦しみ続けなければなりませんでした。そうした苦しみに加えて、辱めや嘲りもイエス様は味わわれたことが分かります。むしろ、そちらの方が詳しく記されています。24節に
そして、誰が何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。
とあります。つまり、イエス様は裸で十字架につけられたのです。十字架を描いた名画はたくさんあっても裸のイエス様というのは余りにも冒涜的ですから、たいてい腰布はまとうか、隠すように描いていますが、実際のイエス様には隠せなかったのではないでしょうか 。また、29節以下には、通行人と祭司長たち、そして、両隣の強盗もまた、イエス様を罵(ののし)り、嘲(あざけ)った、と書かれています。本当に酷い侮辱でした。
29「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。
十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
31…「他人は救ったが、自分は救えない。
32キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」
こうして、裸で苦しみ続けるイエス様を嘲笑(あざわら)い、挑発したのですね 。けれども、イエス様は十字架に留まられました。その、想像を絶する苦しみと、酷い辱めや嘲笑にも耐えられました。むしろ、マルコは、そのイエス様の沈黙の方を強調しているのですね。十四章でイエス様が逮捕されてから、裁判の席でもイエス様は、何も答えず黙ったままでおられた、と言われます 。ただ、ご自身が神の子キリストであるとの証言だけを力強くなさいました 。それによって、大祭司はイエス様を冒涜罪で死刑とする事を決議します。そして、十五章に入り、ピラトのもとに連れて行かれても、2節で、
「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えて言われた。「そのとおりです。」
と言われた以外は何も言い返されないので、ピラトは驚いた、とわざわざ5節に書かれている程でした。それからもイエス様はずっと口を開かれません。十字架の凄まじい苦しみのど真ん中でも、人々からの辱めや嘲笑に対しても、抵抗しようとせず、そのすべてを引き受けておられます。でも、マルコは、イエス様が十字架で発せられた言葉を一つだけ記して伝えています。
33さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。
34そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
イエス様が十字架にかかられたのは、朝の九時から午後の三時までですが、後半は全地が真っ暗になったのです。それは、イエス様のお言葉から分かるように、神から「見捨てられる」ことを表していました。私たちには、神から見捨てられ、神との間が完全に断絶してしまうことがどんなに恐ろしい事か想像すら出来ません。私たちにとっては、空気があるのが当たり前で、空気がなくなったらどんなに苦しいか、体験してみないと分かりません。朝が来ないかも知れないという恐怖や、正常な判断が出来ないという恐ろしい感覚は、味わってみないと分かりません。私たちの全てを支えておられる神が、私たちに完全に背を向けてしまわれるのがどんなことか、私たちには想像できません。神様の無限の怒りを注がれ、神様の無限の慈しみを奪われるだなんて、私たちの経験や考えを遙かに超えたことです。ただ、そのような体験をイエス様が十字架で味わわれた事、それを「全地が暗くなった」現象が象徴している事、そして、今まで沈黙されていたイエス様が、
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
と叫ばずにはおれなかった程であったこと、だけが伺われます。イエス様は、十字架という残酷な刑でも、嘲笑する人々ばかりに囲まれた孤独の底でも、耐えておられました。驚かれるほど黙っておられました。そのイエス様が、神に見捨てられるという苦しみ-それこそは、十字架刑という肉体的な苦痛以上に中心となる、私たちの身代わりとなったイエス様の苦しみでしたが、-には、苦しみを叫ばずにはおれなかったのです。
けれども、それは、イエス様にとって、絶望だったのでしょうか。最後に、ギブアップして、父なる神様に恨みや文句を叫ばれたのでしょうか。また、父なる神様も、本当にイエス様を憎み、見捨ててしまわれたのでしょうか。いいえ、そうではありません。イエス様はこの時を最初から予告しておられました。これは、想像を絶する事ですけれども、父なる神様とイエス様は、初めからこの断絶を御計画なさって、地上のご生涯をスタートなさっていたのです。ですから、イエス様も、この苦しみの中で、なお天の父なる神を、
「わが神、わが神」
と呼び求めています。苦しみと悲しみの真っ暗な中でも、神をわが神とお呼びし、信頼しておられます。私たちが表現する事も想像する事も出来ない、神の御怒りを受けながら、なお神を信頼し抜き、神を呼び求めて、希望さえ持っておられます。37節で、
それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
とあるのも、力強さ、勝利、完成を思わせますね。弱く、息果てた、というのではなく、力強さです 。十字架は敗北ではなく、イエス様は負け犬ではありませんでした。本当に恐ろしく辛い苦しみをも敢然と全うされて、贖いの使命を果たされたのです。
イエス様の死は、二つの奇蹟を引き起こしました。一つは、38節にあるように、神殿の幕が真っ二つに裂けたことです。神と人とを隔てる幕が破られました。もう一つは、
39イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。
ことです 。これは不思議なことです。イエス様はずっと黙っていらっしゃいました。神の子と呼ばれるのに相応しい、神々(こうごう)しいことをなさったのでもなく、人々から嘲笑われるような、弱々しく惨めで裸の恥をさらすようなお姿でしかありませんでした。マルコがたった一言記すイエス様の言葉は、神に向かって、なぜ私をお見捨てになるのですか、という悲しみの叫びでした。しかし、そこにこそ、百人隊長の心を開く、イエス様の「神の子」としての栄光がありました。イエス様は、痛みを撥(は)ね除(の)ける超人ではありません。敵をバッタバッタと薙(な)ぎ倒(たお)す勇者でもありません。でも、そうした苦しみから逃れようともせず、嘲笑に腹を立てることもされなかった。神に見捨てられるという恐ろしい体験をされながら、なお、神への信頼をされました。その信頼を貫かれたお姿をもって、この百人隊長が、
「この方はまことに神の子であった」
という告白が発せられたと言うのです。
イエス・キリストは、本当に私たち同じ人間となってくださいました。私たちが味わう痛みや苦しみを同じように味わい知っておられます。人の心ない言葉で心を裂かれるような思いも十分に(完璧に)知っておられます。でも、私たちは、イエス様が私たちのためにどれほど苦しまれたのかを完全に知ることは出来ません。十字架の痛みだって何とか想像するだけです。辱めや侮辱も何とか推し量るのが精一杯です。しかしそれよりももっと計り知れない、神の怒り、神に見捨てられるという体験をされたことの重さ、凄絶さは、私たちには決して理解できません。私たちのためにどれほどの苦しみを味わわれ、犠牲を払って下さったのか、その一番肝心な所を私たちは知りません。そして、イエス様の救いに与ったなら、私たちは滅びを免れるのですから、永遠にそれを知ることはないのです。
今私たちは、私たちが神に見捨てられることは決してないと信じることを許されています。私たちに代わってイエス様が、尊い十字架の死によって、神の無限の御怒りを引き受けてくださったからです。どんなに辛い事や悲しい思いをしても、それは神が私たちを見捨てられたからではありません。人に見捨てられ、信頼していた人に裏切られても、神様は決して私たちを見捨てず、「わが神」として、ともにいてくださいます。私たちは、いつでも、神様の慈しみと最善の御計画とを信じ、告白して、生きる者とされているのです。
「早まって、あなた様に捨てられたと思い込み、自分こそ神を捨て兼ねなくなる私たちです。主イエス様が暗闇の中、十字架で叫ばれた御声を心に刻ませてください。どんな時もあなた様が親しくそばにい給う事実を感謝します。その信頼をもって日々歩ませてください。そんな歩みが、少しでも、イエス様が神の子と呼ばれたに似た証しとなりますように」
文末脚注
1 しかし、ある方は、「イエスは裸ではなかった。濡れ衣を着せられたのである」と言っています。これもまた、言い得た真理です。http://blogs.yahoo.co.jp/manasseh_0001/13214739.html
2 イエス様は神の御子ですし、今までも嵐を沈めたり、病気を癒やしたり、死人をよみがえらせたりなさったのですから、十字架から降りようと思えば降りることは出来ました。しかも、十字架にかかられたのが、ご自分のためではなくて、私たちのため、罪人である人間のためですのに、その当の人間たちからこんなふうに馬鹿にされたら、「やってられない」と降りたってよかったのではないでしょうか。
3 十四60、61。
4 十四62。
5 ルカは「父よ。わが霊を御手にゆだねます」が最後の叫びの台詞であったことを伝えます(ルカ二三46)。ヨハネも、「完了した」が絶句であったと伝えます(ヨハネ十九30)。しかし、マタイもマルコも、最後に何を言われたか、より、大声で叫ばれて死なれたという事実そのものを伝えています。「十字架上の七つの言葉」という数えられ方もなされますが、マタイとマルコが、そのうち一つしか伝えていない事実もまた、重視したいと思います。
6 イエス様が神から見捨てられた結果、神殿の幕が裂け、私たちと神様との間の隔てが取り除かれました。また、そのもう一つの表れとして、百人隊長がイエス様を「この人はまことに神の子であった」と告白するに至りました。百人隊長は、イエス様が亡くなった瞬間に神殿の幕が裂けたのを見たから、「この人はただものではない」と驚いてこう言ったのではありません。そういうことではなくて、イエス様の死は、神殿の幕も、百人隊長の心を覆っていたものをも力強く破ったのです。
今週は、世界中のキリスト教会が、イエス様が十字架にかかられたのと同じ時期、同じ季節として、ともにイエス様の御苦しみを思い、また、来週は三日目の復活を喜ばしくお祝いしますイースターです。今日と、金曜日の受難日礼拝、そして、来主日と、マルコの福音書の記事を続けて聴きたいと思います。特に今日は、イエス様が十字架にかかられた、まさにその箇所を開きました。
24それから、彼らは、イエスを十字架につけた。
と、読み飛ばしそうなぐらい短く書かれています。しかし、十字架刑とは、十字に手を広げた囚人の両手と両足を釘で打つのですから、凄まじく残酷な拷問でした。そして、そのまま十字架を地に立てて吊すのですから、囚人たちは想像を絶する激痛に悶え苦しみ続けなければなりませんでした。そうした苦しみに加えて、辱めや嘲りもイエス様は味わわれたことが分かります。むしろ、そちらの方が詳しく記されています。24節に
そして、誰が何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。
とあります。つまり、イエス様は裸で十字架につけられたのです。十字架を描いた名画はたくさんあっても裸のイエス様というのは余りにも冒涜的ですから、たいてい腰布はまとうか、隠すように描いていますが、実際のイエス様には隠せなかったのではないでしょうか 。また、29節以下には、通行人と祭司長たち、そして、両隣の強盗もまた、イエス様を罵(ののし)り、嘲(あざけ)った、と書かれています。本当に酷い侮辱でした。
29「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。
十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
31…「他人は救ったが、自分は救えない。
32キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」
こうして、裸で苦しみ続けるイエス様を嘲笑(あざわら)い、挑発したのですね 。けれども、イエス様は十字架に留まられました。その、想像を絶する苦しみと、酷い辱めや嘲笑にも耐えられました。むしろ、マルコは、そのイエス様の沈黙の方を強調しているのですね。十四章でイエス様が逮捕されてから、裁判の席でもイエス様は、何も答えず黙ったままでおられた、と言われます 。ただ、ご自身が神の子キリストであるとの証言だけを力強くなさいました 。それによって、大祭司はイエス様を冒涜罪で死刑とする事を決議します。そして、十五章に入り、ピラトのもとに連れて行かれても、2節で、
「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えて言われた。「そのとおりです。」
と言われた以外は何も言い返されないので、ピラトは驚いた、とわざわざ5節に書かれている程でした。それからもイエス様はずっと口を開かれません。十字架の凄まじい苦しみのど真ん中でも、人々からの辱めや嘲笑に対しても、抵抗しようとせず、そのすべてを引き受けておられます。でも、マルコは、イエス様が十字架で発せられた言葉を一つだけ記して伝えています。
33さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。
34そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
イエス様が十字架にかかられたのは、朝の九時から午後の三時までですが、後半は全地が真っ暗になったのです。それは、イエス様のお言葉から分かるように、神から「見捨てられる」ことを表していました。私たちには、神から見捨てられ、神との間が完全に断絶してしまうことがどんなに恐ろしい事か想像すら出来ません。私たちにとっては、空気があるのが当たり前で、空気がなくなったらどんなに苦しいか、体験してみないと分かりません。朝が来ないかも知れないという恐怖や、正常な判断が出来ないという恐ろしい感覚は、味わってみないと分かりません。私たちの全てを支えておられる神が、私たちに完全に背を向けてしまわれるのがどんなことか、私たちには想像できません。神様の無限の怒りを注がれ、神様の無限の慈しみを奪われるだなんて、私たちの経験や考えを遙かに超えたことです。ただ、そのような体験をイエス様が十字架で味わわれた事、それを「全地が暗くなった」現象が象徴している事、そして、今まで沈黙されていたイエス様が、
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
と叫ばずにはおれなかった程であったこと、だけが伺われます。イエス様は、十字架という残酷な刑でも、嘲笑する人々ばかりに囲まれた孤独の底でも、耐えておられました。驚かれるほど黙っておられました。そのイエス様が、神に見捨てられるという苦しみ-それこそは、十字架刑という肉体的な苦痛以上に中心となる、私たちの身代わりとなったイエス様の苦しみでしたが、-には、苦しみを叫ばずにはおれなかったのです。
けれども、それは、イエス様にとって、絶望だったのでしょうか。最後に、ギブアップして、父なる神様に恨みや文句を叫ばれたのでしょうか。また、父なる神様も、本当にイエス様を憎み、見捨ててしまわれたのでしょうか。いいえ、そうではありません。イエス様はこの時を最初から予告しておられました。これは、想像を絶する事ですけれども、父なる神様とイエス様は、初めからこの断絶を御計画なさって、地上のご生涯をスタートなさっていたのです。ですから、イエス様も、この苦しみの中で、なお天の父なる神を、
「わが神、わが神」
と呼び求めています。苦しみと悲しみの真っ暗な中でも、神をわが神とお呼びし、信頼しておられます。私たちが表現する事も想像する事も出来ない、神の御怒りを受けながら、なお神を信頼し抜き、神を呼び求めて、希望さえ持っておられます。37節で、
それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
とあるのも、力強さ、勝利、完成を思わせますね。弱く、息果てた、というのではなく、力強さです 。十字架は敗北ではなく、イエス様は負け犬ではありませんでした。本当に恐ろしく辛い苦しみをも敢然と全うされて、贖いの使命を果たされたのです。
イエス様の死は、二つの奇蹟を引き起こしました。一つは、38節にあるように、神殿の幕が真っ二つに裂けたことです。神と人とを隔てる幕が破られました。もう一つは、
39イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。
ことです 。これは不思議なことです。イエス様はずっと黙っていらっしゃいました。神の子と呼ばれるのに相応しい、神々(こうごう)しいことをなさったのでもなく、人々から嘲笑われるような、弱々しく惨めで裸の恥をさらすようなお姿でしかありませんでした。マルコがたった一言記すイエス様の言葉は、神に向かって、なぜ私をお見捨てになるのですか、という悲しみの叫びでした。しかし、そこにこそ、百人隊長の心を開く、イエス様の「神の子」としての栄光がありました。イエス様は、痛みを撥(は)ね除(の)ける超人ではありません。敵をバッタバッタと薙(な)ぎ倒(たお)す勇者でもありません。でも、そうした苦しみから逃れようともせず、嘲笑に腹を立てることもされなかった。神に見捨てられるという恐ろしい体験をされながら、なお、神への信頼をされました。その信頼を貫かれたお姿をもって、この百人隊長が、
「この方はまことに神の子であった」
という告白が発せられたと言うのです。
イエス・キリストは、本当に私たち同じ人間となってくださいました。私たちが味わう痛みや苦しみを同じように味わい知っておられます。人の心ない言葉で心を裂かれるような思いも十分に(完璧に)知っておられます。でも、私たちは、イエス様が私たちのためにどれほど苦しまれたのかを完全に知ることは出来ません。十字架の痛みだって何とか想像するだけです。辱めや侮辱も何とか推し量るのが精一杯です。しかしそれよりももっと計り知れない、神の怒り、神に見捨てられるという体験をされたことの重さ、凄絶さは、私たちには決して理解できません。私たちのためにどれほどの苦しみを味わわれ、犠牲を払って下さったのか、その一番肝心な所を私たちは知りません。そして、イエス様の救いに与ったなら、私たちは滅びを免れるのですから、永遠にそれを知ることはないのです。
今私たちは、私たちが神に見捨てられることは決してないと信じることを許されています。私たちに代わってイエス様が、尊い十字架の死によって、神の無限の御怒りを引き受けてくださったからです。どんなに辛い事や悲しい思いをしても、それは神が私たちを見捨てられたからではありません。人に見捨てられ、信頼していた人に裏切られても、神様は決して私たちを見捨てず、「わが神」として、ともにいてくださいます。私たちは、いつでも、神様の慈しみと最善の御計画とを信じ、告白して、生きる者とされているのです。
「早まって、あなた様に捨てられたと思い込み、自分こそ神を捨て兼ねなくなる私たちです。主イエス様が暗闇の中、十字架で叫ばれた御声を心に刻ませてください。どんな時もあなた様が親しくそばにい給う事実を感謝します。その信頼をもって日々歩ませてください。そんな歩みが、少しでも、イエス様が神の子と呼ばれたに似た証しとなりますように」
文末脚注
1 しかし、ある方は、「イエスは裸ではなかった。濡れ衣を着せられたのである」と言っています。これもまた、言い得た真理です。http://blogs.yahoo.co.jp/manasseh_0001/13214739.html
2 イエス様は神の御子ですし、今までも嵐を沈めたり、病気を癒やしたり、死人をよみがえらせたりなさったのですから、十字架から降りようと思えば降りることは出来ました。しかも、十字架にかかられたのが、ご自分のためではなくて、私たちのため、罪人である人間のためですのに、その当の人間たちからこんなふうに馬鹿にされたら、「やってられない」と降りたってよかったのではないでしょうか。
3 十四60、61。
4 十四62。
5 ルカは「父よ。わが霊を御手にゆだねます」が最後の叫びの台詞であったことを伝えます(ルカ二三46)。ヨハネも、「完了した」が絶句であったと伝えます(ヨハネ十九30)。しかし、マタイもマルコも、最後に何を言われたか、より、大声で叫ばれて死なれたという事実そのものを伝えています。「十字架上の七つの言葉」という数えられ方もなされますが、マタイとマルコが、そのうち一つしか伝えていない事実もまた、重視したいと思います。
6 イエス様が神から見捨てられた結果、神殿の幕が裂け、私たちと神様との間の隔てが取り除かれました。また、そのもう一つの表れとして、百人隊長がイエス様を「この人はまことに神の子であった」と告白するに至りました。百人隊長は、イエス様が亡くなった瞬間に神殿の幕が裂けたのを見たから、「この人はただものではない」と驚いてこう言ったのではありません。そういうことではなくて、イエス様の死は、神殿の幕も、百人隊長の心を覆っていたものをも力強く破ったのです。