聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マルコ14:1-11「できたのに」

2014-04-16 10:09:16 | インポート
2014/04/06 マルコ14:1-11「できたのに」(#130、138、391) 召詞 イザヤ五五6-8

 受難週を前にして、四月を迎えました。今週と来週は、イエス様の死を、改めて御言葉に教えられて、第三週はイースターのメッセージを聞きましょう。第四週から、ルカの福音書を続けて聞きたいと思います。
 イエス様が十字架におかかりになる三日前のことでした。ひとりの女が、イエス様に高価な香油を注いだ、という出来事が起きたのでした。この香油は、5節で、売れば三百デナリ以上になっただろう、と言われるくらい、非常に高価な香油でした。一デナリが当時の一日分の労賃ですから、ざっと一年分の年収ほどにもなろうという、大変貴重な香油です 。当時、お客さんへのもてなしに、香油を注ぐという習慣はあったようですが 、この女性は、イエス様のために、最高級の香油を惜しみなく捧げたのです。これに憤慨したのが、何人もの弟子たちでした。
 4すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
 5この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。
 6すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
 7貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
 8この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。…」
 この女性のしたことは、無駄ではない、立派なことだ、なぜなら、それは間もなく死なれるイエス様の埋葬の用意となったのだ。そうイエス様は仰います。だから、この人のしたことを無駄だと、三百デナリもの台無しだと決めつけてはならない。そう仰います。
 ところで、イエス様が亡くなられることはイエス様ご自身が何度も予告して、証ししてこられたことですが、まだこの時は弟子のうち誰一人として悟れていなかったのですね。それは、どの福音書もその最後の復活で強調していることです。もっと弟子たちが考えて、イエス様の言葉を真に受けていれば分かったのに、というようなレベルのことではなく、復活の後でなければ誰一人理解できなくて当然の「神秘」だったのです。ですから、この時も、油を注いだ女性もイエス様の死に気付いていたのではないでしょうし、埋葬の用意のつもりで油を注いだのではないでしょう。彼女は、そこまで考えなくて、ただ出来る限り、愛するイエス様のために、ない知恵を絞って精一杯したことが、実はイエス様の埋葬の用意にもなるような大切な意味を持っていた。そう考えた方がよいようです。
 ですから、大事なのはこの女性がすごいとかその洞察が鋭かったとかではないのです。
 9まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
とは言われても、この女性の名前も明らかではありません。それはこの人が立派だというよりも、もっと大事なのが、イエス様が亡くなられて葬られる、という事だからなのですね。この高価な香油注ぎをした女性以上に、この高価な香油注ぎを受けたイエス様が、私たちのために死んで下さったお方であることが、世界中に宣べ伝えられる「福音」なのです。この女の人の名前ではなく、どんな高価な香油を注がれても惜しくはない、尊い死を遂げられたイエス様の名前が、今も私たちに届けられているのです。
 もっとも、この女の人の行為、姿勢も大きな意味を持っています。それは、弟子たちが気付いていない、イエス様との生きた交わりを深く語っています。そのキーワードが、今日の説教題として選びました、5節の「できたのに」という言葉ではないかと思います。貧しい人を助けることが出来たのに。無駄にするより、もっと違う使い方、効果的なやり方、有名になる使い道、有効な過ごし方、神様からも人からも褒められるような人生が出来るのに…。イエス様のためだなんて勿体ない、もっと華やかで、立派な活用方法が出来るのに…。そう、人は考えやすいのではないでしょうか。でも、そういう声の裏には、本当に人を大切にして、神様の愛に生きることを「無駄」と考えるような、真っ暗な落とし穴が空いているように思います。貧しい人たちを助けるのだって、お金が沢山あっても、難しいことです。大規模な支援計画を実行することが出来ても、それが本当にそこにいる人を生かして、助けて、独り立ちさせるよりも、ただ大規模で、何百人助けたという数字や統計で自己満足するということだってあるでしょう。そして、あまり助けても役に立たない人は切り捨てる、ということだって起きるのです 。
 誤解しないで戴きたいのですが、だから教会やキリスト教の活動のために一杯献金しなさい、というのでは決してないのです。むしろ、私がここで教えられるのは、この女の人が高価な油を注いだのは、イエス様を喜ばせようとか、イエス様のお役に立ちたい、そんな計算でしたのではなかった、ということです。それはある意味では本当に「無駄」だったのです。香油は注げば終わりなのですから。それがイエス様の御用に役立つとか、他の人のために使ってもらう、ということを考えるなら、本当に三百デナリを持って来たのだと思います。でも、そうはしなかった。それを「無駄」と考えなかった。そこに、この女性の信仰がある、いいえ、イエス様への愛というものを見させられるのです。
 無駄かどうかで考えるなら、誰かを愛することは出来ません。見返りとか自己満足を計算するなら、愛から行動することは出来ません。教会でも、献金をちゃんと管理して、正しく使うという責任はありますけれども、一番基本的なことは、私たちが献金に託して自分を神様に捧げてしまう、という信仰を確かめることです。だから、たとえわずかコイン二枚しか捧げられないとしても、「この僅か分でも立派な働きが出来ますように」と考えるのでもなく、「これぐらい捧げなくても大差はないだろう」と考えるのでもなく、そこに託して自分を神様におささげするのです。日曜日や奉仕も、人や神を喜ばせるため、ほめられるため、ではなく、捧げる事、計算無しにおささげしてしまうこと、無駄なようでそれこそが最も尊い使い方だとするところに、自己中心でない、愛の心が現れるのです。
 実は、イエス様にも、同じ事が言えます。イエス様は、私たちのためにいのちを捧げてくださいました。それは「無駄」ではなかったのでしょうか。ご自分がお造りになった宇宙の、本当に小さな小さな小さな存在である人間なんかのために、神のあり方を一時(いっとき)でも棚上げして、同じ人間になり、こんなに鈍感で、無理解で、勝手な計算や綺麗事ばかり並べ立てる人間のために、ご自身を犠牲にする事は、無駄ではなかったのでしょうか。でも、イエス様は、それを無駄とはお思いになりませんでした。それは、私たちを救ったら、私たちがすごい事が出来るから、役に立つから、費用対効果が高いから、ではありませんでした。ただ、私たちを愛して、私たちを尊いと思って下さったから、です。私たちが、どれほど弱く、無力で、罪深くても、私たちは、私たちのために死んでよみがえってくださったイエス様がおられるという「福音」を聞くことが出来るのです。
 この話の前後を挟んでいるのは、1節2節でイエス様をどうしたら捕らえて殺せるかと必死に考えていたユダヤ当局が、10節11節で、十二弟子の一人イスカリオテ・ユダの裏切りによって、イエス様を捕らえるチャンスを得て喜んでいる、という経緯です 。それは、この油注ぎの出来事こそ、イエス様の死をもたらした決定的な出来事だったと言っているように思うのです。ユダはイエス様にどんな期待をしていたのでしょうか。弟子たちは、イエス様を救い主だと信じてはいたのですが、どんな救世主の働きを望んでいたのでしょうか。それは、貧しい人たちを救うことが出来、自分たちの人生や財産を大いに実り豊かにし、力やお金、時間、影響力などを無駄にしない、輝かせてくれる存在だったと言えるでしょう。だから彼らはこの女の人のしたことに憤慨した。それを尊び、無駄を無駄と思わないイエス様に、ユダは愛想を尽かしたと、ここに言われているのではないでしょうか。人の惜しみない愛を理解できない心は、イエス様の惜しみない愛も理解できないし、イエス様を十字架に殺す心なのだ、と言われているのではないでしょうか。
 私も、立派な事をしたと褒められたい。後世に名を残すとか、デキる人だと見られたい、「勿体ない、馬鹿な生き方だ」と思われたくない一人です。でも、イエス様がそういう基準で生きられていたら、私たちのために、人となられ十字架に殺されはなさらなかった。イエス様は私たちのために、ナルドの香油どころではない、ご自分の尊い血潮を注いでくださいました。それを、無駄とは思われなかったのは、私たちが何かを出来るからとかではなく、私たちを尊び、愛されたからでありました。私たちが神の子どもとされ、永遠のいのちを与えられたのは、このイエス様の、惜しみない愛、尊い死によることなのです。

「私たちのために死なれた主が、今も生きておられて、私共に尊いいのちを与えて下さっています。その愛が世界中に宣べ伝えられています。私共もまた、主に自分自身を捧げ、奉仕や礼拝や献金を心からささげることを通して、主の十字架の尊さを、計り知れない福音を証しさせてください。不器用ではあっても、精一杯の献身を、喜び合わせてください」


ヨハネの福音書十二3の平行記事では、この香油の量が一リトラ(328g、新改訳本文では「三百グラム」)であったとしています。一グラムが一デナリ、とも言える高価さです。
ルカ七46参照。
8節にも「この女は、自分にできることをしたのです」とありますが、この言葉は「自分にあることを」と訳してもよい、5節とは別の言葉が使われています。むしろ、7節に「あなたがたがしたいときは、いつでも彼ら[貧しい人たち]に良いことをしてやれます」とあるのが、5節と同じデュノマイです。更に、この言葉はマルコ十39では、ヤコブとヨハネが、イエス様の(苦難の)杯を飲むことが出来るか、との問に「できます」と答えた時や、十五31で十字架につけられているイエス様に「他人は救ったが、自分は救えない」と嘲笑した時に使われています。「できる」という発想は、イエス様の道への無理解を象徴する言葉の一つだと言えるでしょう。
この前の、十一章十二章と、イエス様を言い負かそうとしてきた祭司長、律法学者たちは、逆に完全に論破されてしまって、もう正攻法ではダメだと悟ったのです。だまして捕らえる以外にない、と思ったのです。

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創世記四五章 「「それで十分」 ヨセフ③」

2014-04-16 10:07:30 | 聖書
2014/3/30 創世記四五章 横浜山手キリスト教会「「それで十分」 ヨセフ③」(#339)

 聖書の一番初めの書、創世記は、全部で五十章ありますが、最後の三七章から、四分の一程度の部分を、ヨセフの出来事を軸に展開していきます 。父イスラエルは、十人の兄息子を差し置いて、ヨセフを溺愛していました。兄たちは妬みを募らせて、ある日、衝動的にヨセフを閉じ込め、晴れ着を脱がし、奴隷として売り飛ばしたのです。それから二十年余りが経っていました。その間に、ヨセフは奴隷から囚人に、そして、エジプトの大臣に、という、波瀾万丈な歩みをしていました。大臣として、エジプトを襲う大飢饉の七年を切り抜けるため、食糧を集め、配給する責任を果たしていました。そこに食糧を求めてやってきたのが、自分を売り飛ばした兄たちだったのです。ヨセフは、兄たちに名乗ることをせず、兄たちが変わったのだろうか、自分を売ったことを悔いているのだろうか、試すことにします。それが、遂にこの前の四四章の最後で、兄たちの後悔が明らかになりました。ヨセフを売り飛ばした主犯格だったユダが、自分の身を張って、父の嘆きを語って、自分だけ帰れなくてもいいから、みんなを帰してくれと申し出ました。それを聞いて、
「 1ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「みなを私のところから出しなさい」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちにじぶんのことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。」
とあるわけです。
 この四五章は転換点(ターニング・ポイント)の章です。ヨセフが正体を明かして、兄たちが事実を知ります。何より、父イスラエルがヨセフの生きていることを知って、愕然としつつ、
「28それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。」
と言うに至るのです。主が思いがけない形でなしておられたこと、不思議な摂理をみんなが知る、「種明かし」のような章です。彼らが引き起こしたのは「最悪」なことでした。意地の悪い思いで計られた暴力、取り返しのつかない喪失を引き起こしました。しかし、そこでさえ、神様がそのご計画を推し進めておられたのです。そして今も、私たちの目には、どうしようもない悲劇としか見えない出来事が起きますが、実はそこにも主が働いて、万事を益となしてくださるのだと信じることが出来るのです。
 しかし、それはヨセフが大臣になったとか、飢饉に準備が出来たとか、家族が再会できたという、そういう外側だけのことではありません。ヨセフは、自分を売り飛ばした兄たちが、しでかした暴力の結果を深く悔いて、変わっていることを知りました。しかし、他ならないヨセフ自身も、成長し、逞(たくま)しくなり、変わっていたのです。ヨセフの中で、兄たちへの憎しみとか恨みが、乗り越えられて、溶けていたことを、この二五章の台詞は物語っていませんか。ユダの変化を見たから赦せた、というのではない言葉です。確かに、和解や赦しは、相手からの謝罪や歩み寄りも大切です。けれども聖書から教えられるのは、赦しは私たちが相手を赦すことから始まる、という真理です。私たち自身が、憎しみから解放され、過去を振り返ったり、自分の人生が傷ついているのは他者のせいだと考えたりすることを止めて、赦す者へと変えられる必要があります。この時、ヨセフはすでに、自分を売り飛ばした兄たちへの怒りや憎しみを乗り越え、もっと大きな思いに至っています。
「 5今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。…
 7…それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。
 8だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。」
 それでも、ヨセフは兄たちとの再会に、たまらず大声で噎(むせ)び泣かずにはおれません。それだけヨセフの心の痛みは深かったのです。それだけの深い傷を、ヨセフが恨みとして抱き続け、二十年間、心の中に復讐の火を燻(くすぶ)らせることだって出来た。時間が傷を癒やすのではありません。時間が立つだけであれば、傷は、悪化したり膿(う)んだり、腐って死に至らせるのです。そうではなく、主が、時間をかけて、癒やしてくださるのです。
 ヨセフがあれだけの暴力を受けて、なお兄たちを赦し、受け入れ、再会を喜んでいること-それこそ主の奇跡的なお取り扱いであり、創世記が証ししている摂理、導き、御心だと思うのです。ヨセフが一夜にして囚人から大臣になったとか、家族と奇跡的な再会を果たしたことにまさって、主の摂理は、ヨセフが赦し、兄たちが砕かれ、父イスラエルが成熟して、再会し、和解し、前よりももっと真実な家族として集められたという事実にこそ見いだせます。
 イスラエルもまた、喪失を経て変えられていました。四三14では、「私も、失うときには、失うのだ」と言い切り、ここでは、「それで十分だ」と断言するに至っていました。その一人一人の変化、成熟に、主が私たちをもどのようにお取り扱いなさるか、が語られています 。ただのハッピーエンドとか、映画のような絶妙な展開とか、パズルのピースがうまいこと合う、とかではなく、主の民(私たち自身)を砕き、悔い改めさせ、成熟させ給います。そうして、主にある家族として、より深い絆で結ばせてくださるのです。
 それは、私たちが完璧になる、すっかり生まれ変わる、ということではありません。ヨセフも、兄たちも、イスラエルも、完璧とは程遠いです 。それぞれに、この後も、その不完全さを見せるのです。でも、それは、その本人と神様との間の問題です。私たちも、人のことを裁き、不完全さをとやかく言う必要はありません。自分でさえ不完全で、その不完全さを沢山隠し持っているのに、他人の見える所を裁くことは出来ません。そもそも、不完全な者同士として受け入れ合う方が、完全さを追い求めるよりも、愛に近いのではないでしょうか。足りないところがなくなることを夢見るのではなく、お互い足りない同士でも喜び合い、愛することこそ、真の愛に近いはずです。相手も不完全、私もまだまだ足りない。だからそれでいいというのではないけれど、他者に自分の理想を押しつけること自体を手放して、自分が少しずつでも変えられ、失敗しながら成長していくことを第一にすれば十分であるはずです。(※ A Best Poem in the World)
 主のお取り扱いの中で、ひとりひとりが成長し、取り扱われています。色々な失敗や、罪からの傷や、禍(わざわい)を通らされながら、その全ての中で、主がともにいて、確かにご計画を進めておられます。そして、私たち自身を取り扱ってくださいます。大事なものがなくなったとしても、なくしたものを数えて、失った時間を惜しむばかりでは終わりません。主は、最後には「それで十分。私の人生には、主の恵みが十分にあった」と心から言わせてくださるのです。それは、主が必ず奇蹟を起こして埋め合わせたり取り戻したりしてくださる、という意味ではありません。むしろ、私たちの心が整えられ、変えられて、主が用意してくださった人生に、「これで十分です」と言える者とされていくのです 。まだまだ完璧には程遠くても、その不完全な私たちを導いて下さる主のゆえに、私たちもまた、欠けだらけの者同士、受け入れ合い、ともに歩むことが出来るようにされていくのです。その恵みの前に、私たちは、言葉を失うしかないのではないでしょうか。
 この四五章では、先の四四章で長広舌を振るったユダや兄たちの静かさが目立っています。彼らは、この章で一言も発しません。それは、四四章までと対照的な特徴です。四四章で、長々と語り続けたユダが、何も話していません。兄たちが一言も喋っていない寡黙(かもく)さが引き立っています。勿論、ヨセフの正体を知って、驚きのあまり、何も言えなかったのです。生意気な弟だと見下していたヨセフがエジプトの大臣になっていたこと、今まで恐れて従ってきた大臣が実はヨセフだったこと、自分たちが葬り去ろうとし奴隷として売り飛ばしたヨセフが、その自分たちの悪事を全部知っているヨセフが生きていること、しかも、その事を責めたり脅したり一切せず、そこに神が働いて下さっていたのだと言っていること…。兄たちは、どう答えたら良いのか、分かるどころではなかったのです。そして、それは、三七章で、彼らがヨセフを売り飛ばしてしまったとき、ヨセフが死んでしまったと父イスラエルが嘆き、慰められることを拒んだ時、彼らが父にかける言葉を失っていた事との対照をなしています。人生には、慰めの言葉も、謝罪の言葉も見つからない暴力が起きますが、主の深い導き、摂理、御心、いいえ、結局はすべての現実が、主の手の中にあったと知るとき、言葉を失うことになるのではないでしょうか。やがて一切がどんな意味や真相を秘めていたかを、まざまざと見させられて、言葉を失う時が来るのです 。
 私たちは、罪あるゆえに、主を忘れたり、人を憎んだり、人を傷つけたりしてしまう。本当に深い悲しみや、幸せが壊されて、慰めようがない事も起こります。けれども、それで人生が台無しになるのではない。神様のご計画がないわけでも、人が神様の祝福をひっくり返してしまうのでもない。その全てに神様が働いて、計り知れないご計画を進めておられる。すべてを益として、悪をも逆手にとって、御心が前進していくのです。だからといって、罪も益になるのだ、御心だったのだ、と開き直るのでもありません。その逆です。その事を通して、本当に自分の罪や傲慢を悔い改めて、謙って、そして、自分を差し出すことをも厭わない者となることこそ、求めたいと思います。主は、私たちの隠れた思いや悪事も全て知り尽くしておられます。その主の前に、うわべではなく、本当に深いところで砕かれ、変えられたいと思います。少しずつでも整えられ、赦すこと、赦されること、感謝することを教えられ、願い求めたいと思います。ひとりひとりがそのように教えられ、涙したり、驚いたりしながら成熟し、自立していくこと。そして、それと共に、主の民(教会)が、血の繋がった家族以上に、イエス様の十字架の血潮によって結ばれた家族として、赦された者として、神の子として、ともに喜んだり、ともに悲しんだりしながら、また、思いがけない再会や恵みの証しを分かち合ったりしながら、心の深いところで結びあわされていきたい。それが、主ご自身のご計画に他ならないことを教えられるのです 。

「主よ。私たちも、主の民として一人一人が導かれつつ、痛みや不完全さを通して、驚くばかりの恵みを仰ぐ教会です。あなた様は、全てを知り、私たちを深く取り扱われます。プライドを砕かれ謙らされながら、真実な共同体とされるなら、それで十分です。苦難に涙する時、悲しみの長い夜を通る時、呻きを共にするしかなくても、あなた様が、言葉を失う程のゴールを備えたもう事を信じて、思いを新たに支え合い、歩み続けさせて下さい」


ヨセフの生涯がここに詳しく述べられますが、父のイスラエルや、その父イサク、祖父アブラハムとは違って、ヨセフは族長とは呼ばれません。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言われても、そこにヨセフの名前が並べられることはありません。そのヨセフの生涯を、長々と述べるのは、ヨセフそのものを特別視するからではないのでしょう。むしろ、ヨセフの生涯に託して、すべてのイスラエルの民、神の民の歩み、神のお取り扱いとはどういうものであるか、を伝えているのだと言えます。
決して、ヤコブが完全になったわけではありません。まだまだ兄息子たちの心情を思い計れない鈍感で独り善がりな父です。しかし、創世記は確かにここに、ヤコブの生涯の転換点、到達点を見ています。
ヨセフは赦している? しかし、兄たちとの間には、一線を引いている言い方も見逃せない。「私の弟ベニヤミン」「私の父上(x2)」、22節も。
ちょうど、パウロが自分の肉体に与えられた「棘」を取り去って下さいと三度も主に願ったのに、主は「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われて、「ですから、私は喜んで、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」と言った通りです。Ⅱコリント十二7-10。
神様の深いご計画、人生を通してのお取り扱いを通して、主の恵みに気付くとき、本当に心を砕かれて、言葉を失う、という道の先に、感謝とか賛美とか証しもあるのです。まだどこかで、自分を正当化したり、言い訳めいた思いを持ってしまっている私たちが、自分の罪を改めて深く味わい知らされ、その自分が赦され、憐れみによって、主が導いて、すべてを働かせて益として下さったと知らされるのです。その事実に直面して、何も言えなくなるその姿そのものが、主のお取り扱いを証ししています。
創世記は、全部で50章ありますが、最後の37章以下を、このヨセフの物語を軸に展開させています。四分の一ほどを裂くのに、しかし、ヨセフは、その父たち、アブラハム、イサク、イスラエルと並べて扱われることはありません。そして、この部分は「ヤコブの歴史」という区分に入れられています。強いて言えば、要するに創世記が言わんとしているのは、ヨセフの物語は、イスラエルの子ら、神の民の通らされる道の典型だ、あなたがたもまた、この主の導きの中で、神の民として歩み、進んでいくのだよ、というメッセージなのだと思うのです。

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創世記三九章 「主がヨセフとともにおられ ヨセフ②」

2014-04-16 10:06:17 | 聖書
2014/3/23 創世記三九章 鳴門キリスト教会「主がヨセフとともにおられ」(#298)

 ヨセフの物語は、皆さんよくご存じかとは思います。族長イスラエルが溺愛した息子、ヨセフの人生は、波瀾万丈(はらんばんじょう)な生涯でした。父イスラエルには、息子が一二人いましたが、ヨセフ一人を特別扱いして育てたために、上の兄息子たち一〇人はヨセフへの妬みと憎しみを募らせる一方でした。そして、遂にあるとき、兄たちはヨセフを捕らえて商人たちに奴隷として売り飛ばしたのです。そして、ヨセフの長服には雄羊の血をなすりつけて父に見せ、イスラエルは、可愛いヨセフは悪い獣に食われてしまったのだ、と絶望して、誰からの慰めをも受け付けなかった、というのが三七章でした。
 間に三八章を挟んで、今日の三九章はその続きです。父が、ヨセフは死んでしまったと嘆いていた時、実はヨセフはエジプトで、パロの廷臣の一人、侍従長のポティファルというエジプト人に買い取られて、奴隷となっていた、という場面が浮かび上がるのです。
「 2主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。
 3彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。
 4それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。
 5主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。
 6彼はヨセフの手に全財産をゆだね、自分の食べる食物以外には、何にも気を遣わなかった。しかもヨセフは体格も良く、美男子であった。」
 遠いエジプトの地で、奴隷の身になってはいたけれど、そこで主はヨセフとともにいてくださって、その業を祝福され、主人の目にもそれはハッキリと分かって、全幅の信頼を置かれるほどになっていた、という展開が明らかになります。
 箱入り息子のヨセフが、急に奴隷として働かされても、経験値もゼロで、体力もなく、異国での慣れない生活に、使い物にならなかったでしょう。だから奴隷として売られた時も、銀貨二〇枚と安かったのです。それが、不思議にも何をするにも成功している。失敗ばかりで、泣いてばかりで、穀潰しと呼ばれてもおかしくなかったろうに、何故か彼のしたことはうまくいっていた、ということでしょうか。それは、ヨセフが有能だった、実は商才に長けていた、とか、そういう説明では間に合わないことだったのでしょう。ポティファルも、ヨセフが、ではない、「主が彼とともにおられ、主が彼[ヨセフ]のすることすべてを成功させてくださるのを見た」のです。ただ何となく「神が」でなく、ちゃんと「主」、ヨセフの信じている神、ヨセフの一族が言う、その主なる神が、ヨセフとともにおられて、ヨセフを成功させて下さるのだ、と認めざるを得ない成功だったのです。
 実は、主がヨセフとともにおられた、という表現は、この三九章で七回も出て来るのです。それだけではありません。ここ以外には、この表現は後にも先にも一度も出てきませんし、主という名前そのものも、ヨセフ物語では四九18以外、ここでしか使われないのです 。先の三七章、ヨセフが兄たちの憎しみを買って売り飛ばされるところでは、主の名は出てきませんでした。イスラエルさえ、神という言葉を発しませんでした 。ところが「可愛いヨセフがいない」と、イスラエルの慟哭が続いている時、売られた先のヨセフに、主がともにいてくださった、というのです。父や兄たちの手が届かないところで、主はちゃんとエジプトのヨセフとともにおられたのです。お坊ちゃん暮らしから奴隷生活にひっくり返った中、どれほど孤独かと思いきや、主がともにおられた、というのです。今まで、父に溺愛され、何不自由なく育っていた時には、気づけませんでした。主の名は聞いていたけど、主がともにおられるかどうかはどうでもよかった。けれども、その家庭から引き剥がされたとき、ヨセフはいつしか主がともにおられることを知ったのです。
 主がともにおられることは、私たちにとって願わしいこと、素晴らしい奇蹟によって証明されるものではないのですね。むしろ、私たちにとって本当に嫌な、願わしくない、見える所は最悪な、最低な展開、損な結果、と思われるような境遇でも、十分に証しされて、信じられるべきものなのです。逆に言えば、少なくとも、私たちが願い、当て込むような展開、神様の奇蹟的な導きで物事がうまく運ぶことばかりを期待しているならば、いくら主がともにおられても気づけないのではないでしょうか。勿論、奴隷に売られるよりは助かった方がいいです。冤罪は冤罪だと分かって、疑いが晴れるよう、正義がなされるように願うべきです。しかし、そうなることばかりが主の証しだと思いたがる私たちに、創世記は、本当の主の臨在とは何か、とヨセフに託してチャレンジして来ます。何かがあるから、神様が奇跡的に助けて、状況を変えて下さったから、神を信じる、という段階は卒業しましょう。そんな当て込みとは真逆の、最低、最悪な暗い道を通りながら、そこでこそ主がともにいてくださり、その道を祝福して下さる御心を受け止めましょう。そして、自分の状況が変わらなくても、自分を通してその状況を祝福して下さることを信じるのです。
 このことが分かっていないために、私たちは目に見えるもの、実感できる出来事に縋(すが)ろうとします。でも、それはとても危険です。ヨセフがここで通らされた山場は、ポティファルの妻からの誘惑でした。ヨセフと寝よう、と誘いかけてきました。彼女が「私といっしょに寝なさい」と言った言葉は、主がヨセフとともにおられた、という言葉と重なります。見えなくても、主がともにおられる、という信仰に立つか、女主人とベッドをともにするという生々しい温もりを選ぶか、でした。異国での寂しさがなかったわけではなかろうヨセフは、その誘惑に身を委ねて、慰めを得たいとは思わなかったのでしょうか。しかし、ヨセフはそれが、主とご主人に対する罪であることを宣言しました 。見えない神の臨在を得ていたヨセフは、見えない神がいつも見ておられることを忘れなかったために、誘惑に負けることがありませんでした。誰もいない家で上着を捕まれた時も、神が見ておられることを覚えて逃げて身を守りました 。それが結果的には、逆恨みとなって、投獄されることになっても、嘆いたり自暴自棄になったりせず、その牢獄にも神がともにいますと言い切ることが出来ました。
「21しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」
 そして、ここでも監獄の長から全幅の信頼を得て、囚人の管理を一任されます。何も干渉せず、任された。「それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」と念を押されるのです。
 奴隷から囚人へと更に突き落とされて、ヨセフにとってはこれが人生のどん底でした 。けれども、その暗いどん底で、主がヨセフとともにおられた、とハッキリ、しつこいほどに繰り返されます。なぜこれが、ここでこのように繰り返されるのでしょう。最も納得できる答は、ヨセフ自身がこの時、主がともにいてくださることに気付いたから、でしょう。前にも主はいてくださった。この後にも、主は確かにヨセフの生涯に働いて下さいます。しかし、ヨセフにとって、この奴隷生活と濡れ衣での監獄生活におけるほど、主がともにいてくださると知ったときはなかった、としか思えません。
 それは厳しい体験だったと思います。私なら、主がともにおられるなら、どうして監獄で臭い飯なんか食わなければならないのか、と文句を言ったでしょう。いくらここで成功して、信頼を得るよりも、私の潔白を晴らしてください、ここから出してください、と怒ったと思います。ポティファルの家だってそうです。家の管理を任されるくらい、不思議な主のご臨在が証しされる、というなら、いっそ家に帰してもらえたら、と訴えたくはなかったでしょうか。でも、ヨセフはそこでこそ、主のご臨在を告白しました。なぜそうできたのかは、私たちには分かりません。しかしそこには、主のお取り扱い、ヨセフを訓練なさる神の導きが明らかです。そして、私たちにも同じ信仰への招きがあります。
 私たちも、主がともにいます、という告白を確かめ直したいと思います。自分の願うような好ましいことを当て込む信仰などではなく、何がなくても、どんな望ましくない状況にも、主はともにいてくださるのだと信じることにこそ、私たちの目を向けたいと思います。そして、私たちを通して、困難な状況が祝福されることをよしとし、願い、そのために仕える者とされたいと思います 。
 そればかりではありません。私たちも、自分の愛する人、大切な人が、手の届かない所に行って苦しむことがあります。しかし、その人にも、主が共にいて下さる、たとえそれが本当に大変な状況で、正しく生きることが困難なような状況でも、それでも主がそこにともにおられ、導き、成長させていて下さることを、私たちは信じる事が許されているのです。あの人にも、私にも、主がともにいてくださる 。そして、そこで私たちを通して、主の祝福が周りの人々に伝わっていくことを信じて、置かれたその場に、心を込めて、しかし流されることなく、主とともにある歩みを重ねさせていただきたいと願います。

「あなた様がどこに導かれようとも、そこに主がともにいますことを信じさせてください。見えないあなた様を信じるがゆえに、安易な罪の道を選ばず、狭くとも正しい道を選ぶことが出来ますように。そのために苦しみ、卑しめられようとも、主がともにいますとの慰めと、最善のご計画とを信じさせてください。主イエスに従う道にこそ、いのちも喜びも幸いもあるのだと、失ったようでも溢れるほどに恵まれていたのだと、最悪からさえ美しい栄光を花咲かせてくださるあなた様を最期には偏(ひとえ)に賛美する人生を辿らせてください」


三九章の7回(2節、3節、21節、23節「主がヨセフとともにおられ」、3節「主が彼のすることすべてを成功させてくださる」、5節「主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。」)は、四九18以外では、ヨセフ物語で唯一、「主ヤハウェ」の名が出て来る箇所。(これは、文書資料仮説では説明できない)。族長に与えられていた約束が、事実として出て来る。それも、ヨセフの生涯が、もっとも不確かであったこのタイミングで。
ヨセフがエジプトで、ポティファルに、主の存在を認めさせた以上、ヨセフも父イスラエルから主の名を聞いてはいたのでしょう。(あるいは、祖父のイサクからだったかもしれませんが。)しかし、その信仰はいつしか形ばかりとなり、アブラハムが愛する子イサクを捧げた信仰とは対照的に、イスラエルはヨセフを溺愛し、他の息子たちはおろか、主なる神さえも目に入らなくなっていた、という現状でした。
ヨセフの説得、反論が合理的であり、十戒啓示以前にも明々白々な事実であることは明らかであるのに、ポティファルの妻は毎日言い寄る。罪は、理屈よりも直感で実行され、願われる。人間の直感は、罪に無力である。ヨセフは、説明したのは一度だけ。後は、説得しよう、議論しようなどとはしない。これが賢明な対応であった。
12節、「ヨセフはその上着を彼女の手に残し」は、4節8節の、ポティファルがヨセフの手に全財産を委ねた、と同じ原語。ポティファルはヨセフを信頼して、ヨセフはポティファルへの忠誠心から。また、ヨセフは初め三七章で長服を脱がされたが、ここでは二度目に上着を。ヨセフの決断、曲がり角、決別を思わせる。
四〇章の終わりの二年も辛かったろうが、それまで十年待たされていたのがこの三九章であって、二年待つだけのベースが培われていたと言えるだろう。
牢獄にも主はおられました。牢獄をも、ヨセフを通して、主は祝福してくださいました。主がそういうお方だからこそ、エジプトの民が飢饉で滅びることをよしとされず、この後の展開があったのではありませんか。ヨセフとともにおられた主は、ヨセフを幸せにし、人生を謳歌させるよりも、ヨセフを通して、ポティファルや監獄の長、そして奴隷仲間や囚人たちにご自身の臨在を証しなさいました。そして、イエス様も、そうだったのではありませんか。主であるお方が、しもべとなってくださり、弟子たちの汚い足を洗って下さいました。無実の罪で有罪とされ、強盗たちとともに十字架にかけられました。そんな理不尽な人生をイエス様が嫌がらずに歩んで下さったからこそ、多くの人々に主の愛が証しされたのでした。
この物語は、ヨセフの視点から書かれていますが、軸になるのはヨセフではなく、父イスラエルであり、イスラエルの記録として書かれています。イスラエルがヨセフを失って、嘆き悲しんでいる時、彼の与り知らぬ所で、主がヨセフとともにいてくださった、という物語なのです。
また、ポティファルやその妻がその後どうなったか、も言及されていない。私たちは、彼らの裁き、自業自得の成り行きを知って溜飲を下げたいと願いがちであるが、そんなところに神の視点はない。そうした環境を見ずに、主の臨在をよしとする者となるよう招かれている。

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創世記三七章 東久留米泉教会「慰められることを拒み ヨセフ①」

2014-04-16 10:04:36 | 聖書
2014/3/16 創世記三七章 東久留米泉教会「慰められることを拒み ヨセフ①」(#389)

 創世記は全部で五〇章ありますが、その最後の三七章以下の部分は、主にヨセフを中心に語られます。これだけを読んでも十分な読(よ)み応(ごた)えがある、波瀾万丈(はらんばんじょう)の話です。この後、ヨセフはエジプトで奴隷となり、無実の罪で囚人にまで身を落とし、そこから一三年後、エジプト王ファラオの夢を解き明かしたことで一挙に大臣の身に上り詰めます。その後、兄たちと思いがけず再会をし…と話は続きますが、今日は初めの三七章に注目しましょう。
 ヨセフは、十二人兄弟の十一番目でした。他にも姉たちがいたらしいことは、35節に、父ヤコブのもとに「彼の息子たち、娘たちが」とあることから窺えます。いずれにしても、父は他の兄たち姉たちを差し置いて、ヨセフを溺愛(できあい)していました。実は、ヤコブは成り行きで、妻が四人いたのですが、その中でも一番可愛がった妻ラケルとの間に、やっと授かったのがヨセフだったのです。すでに亡くなっていたラケルの面影を重ねつつ、イスラエルはヨセフを溺愛(できあい)し、彼には仕事をさせず、あからさまに依怙贔屓(えこひいき)していました。
「 3イスラエル[ヤコブのこと]は、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。」
 そんな父を見て、他の兄たちは平気でいられたはずがありませんでした。
「 4彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。」
 父の寵愛を一身に受けるヨセフに対する兄たちの燻った憎しみの火を煽り立てたのは、他ならぬヨセフ自身でした。甘やかされたヨセフは、世間知らずのお坊ちゃんでした。世界は自分を中心に回っていると思って生きていました。5節から11節には、ヨセフが二つの夢を見たエピソードが出てきます。兄たちの麦の束が、ヨセフの麦束にお辞儀をしたとか、太陽と月と一一の星が、自分を伏し拝んだ、とか。これはこれで、後のヨセフの紆余曲折を経ての生涯に成就することになるのですが、それはまだまだ先のこと。今は、こんな夢を見たなどと言えば、顰蹙(ひんしゅく)を買うのは当然です 。兄たちの気持ちを逆撫(さかな)でする発言を、屈託(くったく)もなくベラベラとしゃべるくらい、非常識な、世間知らずなヨセフでした。
 ある日、兄たちがシェケムの地に羊を連れて行ったまま帰って来ないために、イスラエルはヨセフを使いに出します。ヨセフは、例の溺愛のしるしの長服を着て、出かけていきます。シェケムについたものの、兄たちはいませんでしたが、たまたま通りかかった人に聞いたところ、更に北のドタンに行ったと教えてくれましたので、ヨセフは更にドタンまで行きます。飛んで火に入る夏の虫、でした。兄たちは遠くからでも長服のお坊ちゃんを見分けて、ヨセフに対する殺意を燃やします。長男ルベンが、殺すことはない、と制して、身ぐるみはがして穴に投げ込んで懲らしめるだけにしますが、通りかかったイシュマエル人(またはミデヤン人)に奴隷として売り飛ばして小遣いを稼ぐことにしたのでした 。こうして、父に溺愛され、晴れ着を着て仕事もせずに遊び回っていたヨセフは、一瞬にして銀二十枚で買い叩かれて、エジプトに売られて行く奴隷となったのです。
 さて、こんな滅茶苦茶な始まりをもたらしたのは何だったのでしょうか。ヨセフが生意気だったから、でもあり、兄たちが憎しみ、妬みに駆られたから、とも言えるでしょう。父イスラエルがヨセフ一人を溺愛したことも原因でした。そして、イスラエル自身、父イサクを騙し、兄エサウを出し抜いて、祝福を奪い取った過去がありました。その竹篦(しっぺ)返しを息子たちから食らった、とも言われます。
 またここには、創世記のこれまでを思わせるいくつもの主題が重なっています。創世記二二章では、アブラハムの信仰のクライマックスとして、愛するひとり子イサクを主に捧げたのですが、それとは正反対に、イスラエルはヨセフを溺愛しています 。また、兄たちの妬みが殺意に転じたのは、創世記四章のカインとアベルの記事、兄弟殺しを思い出させます 。そして、その胡麻(ごま)菓子(かし)のために雄山羊を身代わりにしたのは、イスラエルが父イサクを騙すために雄山羊の皮を使ったのにも似ていますし 、そもそも、エデンの園で契約を破ったアダムとエバが、隠そう、胡麻化そうとした姿そのものではないでしょうか。
 しかし、もう一つ、ここで気付くことがありませんか。聖書なのに、聖書らしからぬ、という大きな点に気付きませんか。ここには、神様が一度も出てきません。主という言葉も最後まで出てきません。ヤコブの口からも、ヨセフの口からも。勿論、そういう章は他にもたくさんあります。しかし、続きとなる三九章には、主がヨセフとともにおられた、と7回も出て来るのです。やはり、そのギャップは意味深長でしょう。晩年のイスラエルは家畜を沢山飼い、子宝にも恵まれ、可愛いヨセフと幸せに過ごしているように見えました。しかし、一皮むけば、依怙贔屓であり、兄弟たちは憎しみを押さえきれず、一触即発の状態でした。何より、神を呼ぶことを忘れていたイスラエルとその子たちだったのです。 そんな、内実を欠いた家庭が、迎えるべくして迎えてしまった悲劇が、この出来事です。それは慰められることも拒むほどの悲しみでした。衝動的に憎き弟ヨセフを片付けて、溜飲(りゅういん)を下げた兄たちの笑いが止まらなかったのも一瞬のことでした。どこかに行っていた長兄ルベンが戻ってきて、ヨセフのいないのに気づき、着物を引き裂いて慌(あわ)てるのを見て、兄たちも策(さく)を講(こう)じなければならないことに気づきました。そして、雄山羊を屠(ほふ)ってその血に長服を浸し、父のところに持って行きます。事故死、と見せかけたかったのでしょう。冷や汗を隠して、素知らぬふりで、真っ青な顔を演じます。
「33父はそれを調べて、言った。「これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ殺されたのだ。」
34ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。
35彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい」と言った。こうして父は、その子のために泣いた。」
 兄息子たちは、自分たちのしでかしたことが父を予想以上に苦しめ、慰めようがない事実に直面します。それでもどうしようもない。今更、実はヨセフは奴隷に売っただけで、などとは口が裂けても言う勇気はない。彼らは、その後ろめたさを抱えたまま、その後二十年以上を引きずることになってしまいます。こんな悲しみを父に与えるつもりではなかったと悔やみつつも、今更事実を白状することも出来ませんでした。そして、こうなってもまだ彼らは、主の御名を呼び求めもせず、主に助けを求めることもしません。
 ヤコブ家族の様々な問題-父の依怙贔屓、兄弟間の無神経と憎悪がありました。そして、あの通りすがりの人との出会いという偶然が、暴力的な不幸をもたらすこともある、というのもどうしようもない現実です 。ヤコブ家族が神の御名を呼ばず、神の前に生きることを忘れているという根本的な問題がさりげなく語られています。けれども、実に、これがイスラエル家族の再出発の始まりとされたのです。この取り返しのつかない現実にも主は働いておられ、不思議なご計画を始めておられたのです。あのヨセフの夢の実現へと、遠回りしながらも大きく踏み出していたのです。人間の目には、喪失、暴力、悲惨としか見えないことも、主はご計画のためにお用いになって、人間の理解や予想を遙かに超えた将来を用意してくださいます。それは、ここに表れているヤコブと息子たちそれぞれの罪(不信仰な現実)を取り扱って、暴かれて、砕いて新しくなさるご計画でした。自分の罪の結果を容赦なく突きつけつつ、悔い改めさせ、謙らせ、主の御名を呼び求めさせて下さる、そこにこそ主のお取り扱いがあるのだとヨセフ物語は教えています。それが、私たち、主の民にとっての真の益、恵み、祝福のご計画なのです。
 何にもならないとは分かっていても、人生の挫折や暴力や悲劇を、悔やんだり人を恨んだりして振り返らずにはおれないかもしれません。自分の後ろめたさが苦しくて何かを犠牲にしたとしても、埋め合わせられたらと思ったりもするでしょう。しかし、神の子羊と呼ばれる主イエス・キリストご自身が、十字架の犠牲を払って下さいました。私たちの罪を隠すためではなく、そこに私たちのあらゆる恥ずべき、憎むべき罪が告白され、悔い改められ、赦され、清められるために、十字架で主の血が流されました。過去の罪も、握りしめている罪も、思い上がりも、秘めている罪も、すべては主イエスの十字架によって、きよめていただくのです。そして、主は取り返しのつかない現実から、ひとりひとりを取り扱いつつ、新しく、確かなことを始めておられます。そうしてくださる主を知ることによって、私たちは後ろを振り返ることから、前を向いて、歩み出すことが出来るのです。
 人生が様々なものを失い、思うままにならない、という現実は変わりません。ヨブが言ったとおり、私たちは裸で母の胎を出て、また裸で死ぬのです。人生は厳しく、困難です。色々なものを失ったり手放させられたりの地上です。けれども、その困難を通して主が私たちを変えて、神様の御真実な栄光を拝させてくださるのです。主が私たちを愛する故に、厳しいけれども御真実なご計画をもって取り扱い、新しくして下さる御心を、謙虚に受け入れ、委ねたいと思います。そして、私たちが苦しむ以上に、主イエスご自身が先立って苦しみ、痛み、いのちを捨てて下さった、尊い十字架の苦難を絶えず仰ぎたいと思います。その御愛を繰り返し噛みしめながら、主の時の中で変えていただきたいと願います。

「世界の創造主である神様。あなた様の人間に対する尊いご計画、私たちとの聖なる交わりの完成という目的は、今も変わることなく、御子イエス・キリストの十字架と復活の御業を通して成し遂げられます。また、聖霊が私共一人一人に、この救いを届けてくださることによって、始まっており、果たされていくことを信じます。私共の隠れた思いが取り扱われるために、私共は様々な痛みや喪失を通らなければなりませんが、そこであなた様を仰ぐときに、何にも勝る慰めと深い交わりとを味わい知り、謙って、主の民として整えて戴けますように。この教会が、そのようなあなた様の御業の証しとなりますように」


流石の父イスラエルでさえ、「10ヨセフが父や兄たちに話したとき、父は彼をしかって言った。「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」と窘めずにはおれなかったほどです。
ミデヤン人とイシュマエル人は同一です。東部からの行商をイシュマエル人と呼んでいたのだろうと思われます。しかし、両者を別とする新共同訳は、文書資料仮説に偏ってしまっています。
主が求められる、最も大切なものをささげる、つまり自分自身を捧げる、という信仰とは真逆で、十人の兄たちの気持ちを逆撫でしていることにも気付かないぐらい、ヨセフをちやほやし、甘やかしています。
アダムが楽園を追い出されて経験した最初の人類の死という現実でした。アダムの子は、一気に兄弟殺しになった、ということに、神から離れた人間の罪が端的に表れたのです。ヨセフの兄たちは、血縁の弟を殺してはいけない、と綺麗事を言いますが、直接手を下さなくても、売り飛ばして亡き者にしてしまおうとしたのですから、こういうのは「抹殺」と言うのです。
雄山羊は殺される。ヨセフの代わりに… イサクの代わりのように(二二13)。しかし、それを思うと、アブラハムの信仰と、ヤコブのそれとは何と違うことでしょうか。ひとり子を捧げたアブラハムと、孫ヤコブが子どもも妻たちも偏愛し、ヨセフだけを特別扱いするのです。そして、35節の言葉を聞いて、兄弟たちがどれほど傷つき、怒るかを思いやることも出来ない。
15節の出会いは何だろう。この出会いが偶然にもなければ、ヨセフが兄たちのいる場所を知ることも、その後の展開もなく、ヨセフは帰るしかなかったのではないか。であれば、この出会いもまた、摂理的なものと理解しなければならない。


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詩篇五四篇「神を自分の前に置いて」

2014-04-16 10:01:05 | 聖書
2014/1/12 守山キリスト教会礼拝説教 詩篇五四篇「神を自分の前に置いて」

 詩篇は味わい深いですね。一篇ずつ取り組むと、本当に面白いし、教えられることが尽きません。前任教会の婦人会で取り組んできて、五三篇までお話ししていたのですが、今日は続きの五四篇を取り上げて、ご一緒に私たちの祈りと信仰を整えられれば幸いです。
 表題にあります、
「ジフの人たちが来て、「ダビデはわれらの所に隠れているではないか」とサウルに言ったとき」
とあるのは、Ⅰサムエル二三19を読むと分かります。サウル王の逆恨みに遭って逃亡中だったダビデとその一行を、ジフの町の人々が見つけてサウル王に垂れ込んだのです。おかげで、ダビデたちはまたまたサウルから逃げなければならず、山の周りをサウルとダビデがグルグルと追いかけ続けるという笑えない緊迫した状況になりました。しかしサウルのもとに、ペリシテ人たち突入の知らせが入って、サウル軍は引き上げていったために、ダビデたちは辛くも難を逃れた、という危機一髪の出来事でした。その時の心境が、ここに歌われているというわけです 。1節から3節には、その必死さが滲み出ていますね。
「1神よ。御名によって、私をお救いください。
あなたの権威によって、私を弁護してください。
2神よ。私の祈りを聞いてください。
私の口のことばに、耳を傾けてください。
3見知らぬ者たちが、私に立ち向かい、横暴な者たちが私のいのちを求めます。
彼らは自分の前に神を置いていないからです。」
 3節に「見知らぬ者たち」とあります。今まで仲間の顔をしていた者たちが、今や敵の顔に面を変えて襲いかかってくる現実に、まるで見知らぬ者たちのようだ、知っていたと思った顔は仮面だった、その下に別人の本性が隠れていた、ということでしょうか。お救いください、弁護してください、聞いてください、耳を傾けてください、と畳みかけるように祈願が四つ続き、彼ら敵たちの非を訴えるのです。
 私たちはここから、こんな率直な祈り、攻撃的でさえあるような祈りも祈っていいのだ、とまず教えられましょう。もし心の中に激しい思いがあるのであれば、表面を取り繕った模範的な祈りを捧げたところで、神様はちゃーんと本心をご存じなのですから、ストレートに激しいままを申し上げた方がいいでしょう。本心を押し殺した祈りよりも、そのまま言葉にしてしまった方が、自分の思いを見つめ直せますし、冷静になれる、ということもあるでしょう。優等生の祈りよりも、正直な訴えを祈る者となりたいと願います。
 しかし、続く4節以下の言葉は、3節までと打って変わった内容になります。全体的に、3節までが「祈願」だったのに対して、4節以下は「告白」と言えるでしょう。この飛躍・変化のきっかけは、3節で自分が言った言葉ではないかな、と思うのです 。
 「彼らは自分の前に神を置いていないからです」
 似たような表現は、三六1にもありました。
 「悪者…の目の前には、神に対する恐れがない」
という言葉です。併せて考えると、神を自分の前に置かないとは、神への恐れがない。だから、悪を行っても平気です。自分が神であるかのように振る舞う。人の命を求め、他人に喜々として襲いかかってくる。恐るべき方を視界からどけているのですから。
 そう言った後、自分は違うと言いたかったのでしょうが、ハッと自省したのではないでしょうか。果たして自分はどうだろうか。自分の前に神を置いていると言い切れるのか。神を自分の前に置いているものらしく生きているか。そう思い至って、やおら詩人は、
 「4まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。」
と改めて告白したのではないでしょうか。神を前に置く、あるいは神の前に立つ、とは神を礼拝し、神に仕えることをも表します。神を、自分の礼拝すべき方、仕えるべきお方とする、ということです 。自分の前に恐れあがめる方としている神は、果たして、大声で祈らなければ助けてはくれない方なのか。張りぼて相手のように祈っていなかったか。私のいのちなど構われない方なのか。いいや、そうではない。そればかりか、
「5神は、私を待ち伏せている者どもにわざわいを報いられます。
あなたの真実をもって、彼らを滅ぼしてください。」
 物騒な言葉がまた出て来たように見えますが、これだって冷静であり、祈願の言い回しは後半ではこれ一回だけなのですね。神は正しいお方。悪を必ずや正しく裁かれ、報いられるお方。そう思い至り、自分の願いや感情にも勝って、あなたの真実をもって滅ぼしてください、と祈っています。そして、敵が打ち砕かれて、自分が救われるということが前半の中心でしたが、それは第一のことではなくなります。敵が主語となった前半から、後半は「神は」「主は」が四回、「私は」が二回。敵に向けられていた思いから、主と我が身を省みるようになっています。6節の、
 「進んでささげるささげ物」
とある、「自発のささげもの」とは、レビ記七22で「感謝のささげもの、誓願のささげもの」と三つ並んで出てくるものです。「誓願のささげ物」は何かをしていただきたいからこれを捧げます、「感謝のささげ物」は何かをしていただいたから感謝します、と捧げるのに対して、進んで捧げる自発のささげ物は、そうした条件とか理由なしに、自分から進んで神様への賛美と献身を表すささげ物です。つまりここには、自分の置かれた状況の解決、改善以上に、主を自分の前に置く者としての揺るがない思い、献身があるのです。
 最後の7節は、サウルたちがペリシテ人を討伐するために帰って行く姿を眺めて、とも言われますが、この「眺める」という言葉には「勝利や満足をもって見下ろす」というニュアンスがあります。そういう目で見ることが出来るのは、ダビデの中に変化があったからですね。サウルはまた戻って来るかもしれないし、実際戻って来るのです。ただサウルが去ったから、だけなら見る目に不安は隠せません。今日満たされても、明日への思い煩いは消えません。でも、主を自分の前に置くなら、思い煩い、不安はなくなり、あらゆる貪りは偶像崇拝として退けられるのです。状況は変わらなくても、ダビデの中に起きたこの変化によって、その願いも言葉も生き生きと変わったのではないでしょうか。まことに、神を自分の前に置いて生きる者として、整えられた時だったのではないでしょうか。
 キリスト者が「自分たちは真の神を知っている、ノンクリスチャンは本当の神を知らない」と批判するのは簡単です。確かにそれはノンクリスチャンの生き方、価値観を左右しているでしょう。けれども、私たちはそれ以上の恵み、真の神を知り、恐れる者としての心を戴いているでしょうか。神は私を助ける方、私のいのちを支える方、必ず正義を行い、悪を裁かれ、苦難を苦難で終わらせない方。私の願いや想像を遙かに超えて偉大なお方。そういう神を前に置いているだろうか。大いなる主を恐れる者としての幸い、恵みを、本当に心の底で味わい、状況に左右されない祝福を戴いていきたいと思うのです。
 生きていけば、人生の状況はどう風向きが変わるか、どこに落とし穴が待っているか、キリスト者であっても分かりません。イエス様も、世にあっては艱難があります、と断言されました。病気や別れ、暴力や孤独、様々な災いがあります。イエス様は、信仰を持てば、苦難を減らしてあげようとは仰らず、その艱難の中で勇気をもって歩みなさい、と励まされたのでした 。その励ましを、勇気を私たちの心に抱かせていただきたいのです。
 ここにダビデが思い至れたのは、実は、前半で、自分の赤裸々な思いの丈を吐露していたから、でした。率直に自分の中の怒りや悔しさ、恐れ、叫びを主の前に注ぎ出すこともしなければ、後半の祈りはなかったのかもしれません。私たちが、自分の中にある様々な感情-傷、妬み、訴え-を明るみに出さなければ、主の光によって導かれることも出来る筈がありません。主を本当の自分の姿の前から遠ざけることを止めましょう。主は私の思いのすべてをご存じの方です。感情も罪も、痛みも弱さもすべてをご存じです。そうした思いを抑えつけて隠していては、かえってそんな思いにどこかで振り回されます。そんな状態で、立派な祈りを捧げたり、奉仕や伝道に励んだり、成功や勝利を収めることもあるでしょう。しかし主はそれよりも、私たちが心の深いところで主と出会い、傷や罪や弱さを抱えた自分の前に、主が共にいてくださる幸いを知ることを願っておられます。そして、私たちもまた主を前に置き、主に深く従って生きることを願っておられます 。うわべではなく心を見ておられる方は、心の上辺でもなく、深い思いを見ておられます。そこに、まだ、痛みが疼(うず)いていて、主の御真実ではないもののほうが大きくなっていると、その感情が私たちを支配し、縛ってしまいます。何かの折に、怒りとか、不公平感とか、焦り、強い不安や虚しさが吹き出すのです。けれども、そうして吹き出してきた思いを、主の前にそのまま祈るとき、主は私たちの心をお取り扱いくださり、光で照らして下さいます。それは、私たちの心自体がきよらかになるとか愛で満ちるとか、そういうものである以前に、私たちが主を自分の前に置くことに成熟していく-言い換えれば、ますます主との関係に生きるようになる、ということです。もっと別の言い方をすれば、祈ったからと言って、酷(ひど)い状況は変わらず、また自分自身の罪や歪みがなくなるわけでもないかもしれない。それでも、主に深く祈るようになる、自分の心の深い渇き、呻(うめ)きを主との間に持ち出しながら生きるように変わり始めたこと自体が、何よりも大切な変化なのです。
 私たちは、自分の前に主を置いて生きる者とされています。その主は、私を助ける方、私のいのちを支える方です。それも、御子イエス・キリストは、ご自身のいのちを十字架に捧げてくださることによって、私たちを助け、永遠のいのちを与え、すべての罪や悪から救い出してくださったお方です。その恵みを本当に味わい知るとき、私たちは自分自身を、進んでささげるささげ物として差し出して、主に感謝せずにはおれない。それほどの恵みの主が、私たちの前にいてくださるのです。
 そのことを深く知るためには、人生には苦しみがある事が必要なのだと思います。色々な厳しい思いを通らされながら、少しずつでも着実に、主に向かい合わせていただけるなら幸いだと思います。どんな大変なことがあっても、決して主が無力だとか、私たちに関心がないとか、私たちに問題があるから駄目だとか、そんなことではない。主は、私たちを変わらず愛し、心の深い思いまで見て、私たちを新しくしようと願ってやまないお方です。どんな時も主を前に置く幸いな者として、ますます深く変えられる事を願うのです 。

「心を見ておられる主よ。私共は自分の心をさえ分からず、持て余してしまう者ですが、あなた様がそんな私共を愛し、ご自身との深い信頼のうちに生かそうとしておられる幸いを感謝します。恐れや不安、憎しみや怒りを、主の前に置いて、整えていただけますように。心の奥底に、あなた様をお迎えさせてくださいますように。イエス様の愛に潤され、慰められた者として、幸いに生きることが出来ますように。私たちの交わりもまた、そのような恵みを証しし合い、励まし合う者となりますように。主イエスの御名によって」


しかし、Ⅰサムエル二六1にも、「ジフ人がギブアにいるサウルのところに来て言った。「ダビデはエシモンの東にあるハキラの丘に隠れているではありませんか。」」とあり、こちらとも読めます。また、どちらか一つというよりも、この両者を併せて、売り渡される状況・心境を歌った、とも考えられます。
この違いは「セラ」という区切りの記号によっても裏付けられます。
創世記十八22「アブラハムはまだ、主の前に立っていた。」など。
ヨハネ十六33「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
十戒は、主を第一とする生き方を示しています。また、その第十戒の「ほしがってはならない」は、パウロに言わせると「偶像崇拝」(エペソ五5、コロサイ三5)につながり、物質崇拝・欲望礼拝が根本的には真の神を退けることだと言われています。伝道者の書では「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」という年月が近づく前に」(十二1)と言われます。有名な「神の国とその義とをまず第一としなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ六33)も、ほかの何物よりも主を自分の前に置く生き方への招きでしょう。つまり、主を自分の前に置くことは、物質的な欲望から自由になり、年を取って喜びを失うような衰えを感じる時にも心を守られ、何の思い煩いもなく将来への不安のない、というほどの生き方を私たちにもたらすのです。
表題の「ダビデはわれらの所に隠れている」は、原文では「われらとともにいる(インマヌ)」です。この世では、裏切りや裏表、人の売り買いがありますが、教会は「神はわれらとともにいます(インマヌエル)」との言葉をもって、励まし合う交わりでありたいものです。


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