聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マルコ十六1~8「よみがえられました」

2014-04-20 15:06:03 | 聖書
2014/04/20 イースター礼拝 マルコ十六1~8「よみがえられました」

 今日の終わり方、気になります。イエス様の復活を伝えるのは、マルコだけでなく、マタイ、ルカ、ヨハネ、四つの福音書全てが最後にすることです。しかし、マルコのように、
 8女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
 こんな書き方は他にはありません。続きの9節以降は、欄外を読むと書いてありますが、「異本九-二〇節を欠くものがある」。というより、大事な写本は8節で終わっていて、9節以下とのつながりはどうもしっくり来ない。やっぱり、マルコは最初、8節で終わっていたのだろう、と考えられています。
 不思議な終わり方です。イエス様の復活に、震え上がって、気も転倒して、恐ろしくって、誰にも何も言わなかった。そう終わります。でも、勿論、そのまま口を噤(つぐ)んだまま、墓場まで何も言わなかったのでは無いことは明らかです。それで、誰にも知られなかったのだとしたら、新約の教会は誕生しませんでしたし、マルコの福音書を受け取る教会も、マルコの福音書が書かれることすらなかったでしょうから。
 この女たちも、間もなく、7節で告げられた通り、弟子たちに、イエス様は先にガリラヤに行っておられて、そこでお目にかかれる、と伝えます。そして、弟子たちがイエス様と出会って、弟子たちもイエス様の復活を信じ、イエス様が天に帰られた後も、十字架にかかり三日目によみがえられたイエス・キリストを伝えて行くのです。そのキリストを信じる人たちがあちこちで起こされて、教会はローマ帝国中に広まっていきました。そうして、三十年近くが経った頃、マルコは改めてここで、よみがえりに出会った時の、驚き、恐れ、言葉を失うほどの思いを書きます。そこでこの福音書を書いていたペンを置いてしまう。それぐらいに、この驚きに立ち戻ることの大切さを言いたかったのだと思います。
 こういう終わり方をしていることは不思議です。でも、そこで起きた、イエス様の復活ということが本当に不思議で、驚くべき事、信じがたい事だったのですから、こういう反応は自然でもありました。もし、イエス様が復活された時、弟子たちが驚きもせずにすぐ喜んでお祝いしたとしたら、却って不自然です。そして、現代の人からは、「そんな非科学的なことはあり得ないよ。昔はともかく、医療や知識の発達した現代は、復活なんてあり得ないから信じられないね」と一笑に付されるでしょう。聖書は、迷信の時代にかかれたものではありません。人が死んだら生き返ったりはしないことぐらい、当時の人たちも分かっていました。イエス様がよみがえることを彼らが夢見ていた、その願望がこうした伝説を産んだのでもありませんでした。弟子たちは、イエス様の死に怯え、逃げてしまい、復活願望などなかったのですし、実際の復活に直面してさえ、喜んで信じたのではありませんでした。彼らは、まずひたすら驚き、恐れ、信じられず、震え上がったのです。
 それは、死人がよみがえった、という非常識への驚きだけではありませんでした。それを告げた、「真っ白な長い衣をまとった青年」の存在は、イエス様の神々しさを裏付けています。彼から言付けられた、
「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。」
という言葉は、イエス様が、十字架と復活の事を、前から話しておられた事実を思い出させます。ただよみがえった、というのではありません。十字架の死も、そこからの復活も、全部イエス様が初めから知っておられた事、見つめておられた事でした。イエス様はそういうお方だった、と改めて知ったのです。
 今まで彼女たちはイエス様をお慕いしていました。1節に名前の挙がる女性たちも、それぞれにイエス様への大きなご恩を感じていました。この時も、男弟子たちが逃げ出して不甲斐なくしている中、彼女たちは勇気を振り絞ってイエス様の亡骸に、せめて香料を塗って差し上げたいと、わざわざ出かけてきた。それぐらい、イエス様を敬い、かなりの信仰を持っていました。けれども、まだイエス様の十字架も復活も、分からないでいました。そこまで偉大なお方だと、語られてはいたのに、ピンと来ていませんでした。それが、この時に分かったのです。今まで、ずっと、「イエス様、イエス様」と親しみ、そばにいた方が、実は、十字架の死を自ら死なれ、三日目の今日よみがえられた方、死と戦って勝利された方なのだ。そう分かったのです。分かったけれど、だからすぐに「素晴らしい、ハレルヤ!」とはならずに、驚き、飲み込めずに、かえって恐ろしく、気も転倒してしまった。その、イエス様の大きさに打ちのめされた体験こそが、教会の原点だったのです。
イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。
とあります。イエス様は、弟子たちの家であるガリラヤで、彼らを待っておられました。この「先に」というイエス様の「先回り」は、マルコの福音書が最初から特徴付けていたことと重なります。マルコの福音書は、イエス様に、「すぐに」という言葉を繰り返して使っています。すぐに、すぐに、とどんどん進んで行かれるイエス様の姿を浮かび上がらせます。先へ先へと、進まれるイエス様です。後半は、もっと顕著で、
十32イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。
とありました。そうして、先へ先へと、弟子たちが後を追っかけていくうちに、イエス様は捕まり、イエス様を裁判に掛けるピラトでさえ、イエス様の沈黙に驚き、一昨日見たようにイエス様の余りに早い死に驚いた、とありました。そして、ここではイエス様がよみがえられて、先にガリラヤに行っている、ということに驚き恐れた、というのです。誤解しないで下さい。イエス様は、あまり急いでおられて、私たちが追いつこうとしても無理なくらいだ、というのではないのですよ。却ってその逆です。私たちが考えもしなかったぐらい、私たちとともにいてくださる。私たちの歩みを、先に立って、そこで待っておられる。私たちの死をも、先に味わわれて、私たちが受けるはずだった苦難を、代わりに引き受けて味わわれてしまっておられた。私たちの手の届かない方ではありません。復活も、私たちが信じても信じなくても関係ないような大昔の出来事、遠くかけ離れた世界での出来事では決してありません。実に、イエス様は、神の御子なる尊いお方でありながら、私たちの本当にそばに来て下さった。私たちの歩みを先回りして導いておられる。その復活は、イエス様が私たちと本当にともにおられることのしるしです。私たちが死ぬから、イエス様も死なれたのです。イエス様がよみがえられた以上、私たちもまたよみがえると約束されているのです。
 7節で「お弟子たちとペテロに」とわざわざペテロが名指しされています。ペテロと言えば、十二弟子のリーダーで、最も有名な使徒です。けれども、イエス様が捕らえられた時、ペテロは卑怯にもイエス様を知らないと、三度関係を否認しました。臆病風に吹かれて、イエス様を繰り返して裏切り、呪いを掛けて誓ってまで、イエス様に背いてしまったのです。でも、そのペテロにも、いいえ、ペテロを特に名指して、ガリラヤで待っていると仰いました。イエス様は前からペテロの弱さをご存じでした。失敗しやすいことも承知しておられました。私たちもまた、どんな弱さがある事でしょう。どんなに思い上がってきたことでしょう。イエス様が私たちのために、どれほどのことをしてくださったか、どれほど愛してくださっているかを見ようとせずに、失礼なことや冒涜をしてきたことでしょうか。それでも、イエス様は私たちを知り、私たちを受け入れて、待っておられます。そのために、イエス様は、十字架と復活を通ってくださいました。そのイエス様の、余りに大きく、深い御愛に、私たちは驚き、言葉を失い、黙ってそのことを思い巡らすことが必要なのではないでしょうか。
 今、私たちは、自分や身近な人の死、また苦しみや悲しみ、人に裏切られたり、なかなか人生が展開しなかったり、そうした経験を通らされます。そうした生きていく上での経験を、イエス様も味わってくださいました。そこで、今、私たちが痛みや孤独を体験することは、その体験を通して、イエス様がどれだけ苦しみ、私たちとともにいてくださるかを知る意味を持ちます。傷を通して、イエス様に出会うのです。イエス様に助けてもらう、祈って状況を変えてもらう。それも大事です。でも、それだけだと、私たちが自分の人生をコントロールするために、イエス様や神様を利用するだけになります。主イエスは、そんなちっぽけな方ではありません。私たちが飼い慣らす事など出来ない大きな方、測り知れない方、この方が私たちのために死んでよみがえられたことを知る時に、私たちは、打ちのめされるような思いをし、驚いて言葉を失うはずです。自分の苦難を通して、そうした思いをじっくりとさせていただきながら、そこから、私たちの信仰も、教会も、伝道や証しも始めさせて戴きたいと願います。

「主のよみがえりに、言葉を失った女たちの姿に、私たちの信仰もまた、この驚きから始まるものであることを確認させられます。これほどの御業を知らされていながら、なお自分の迷いや嘆きの方が大きくなってしまうことがありますが、どうかその時にこそ、改めて主の恵みを深く味わい、静かに主の御愛を賛美させてください。主が常に先立ち、待っておられますから、この束(つか)の間(ま)の人生も、心を込めて、望みをもって、務めさせて下さい」

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