聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マルコ十五44~47「もう死んだのか」

2014-04-18 08:26:59 | 聖書

2014/04/18 受難日礼拝 マルコ十五44~47「もう死んだのか」

 受難日の礼拝です。今から二千年ほど昔のこの時期に、イエス・キリストは十字架につけられて、その肉を裂かれ、その血を流し、人々の罪と罵倒を背負い、何よりも私たちの罪のために私たちが受けるべき神の裁きを一身に背負われて、亡くなられたのです。そのことを記念する受難日です。しかし、今は夜です。また、金曜の夜と言えば、それぞれの一週間のお仕事を続けられて、もうホッとしたいという時間でもあるのではないでしょうか。イエス様の激しい苦しみに心を馳せるのは、もう重すぎる気がするかもしれません。
 当時の人々も同じような事を考えました。午後の三時、すでにイエス様はその苦しみを負われて、十字架の上で息を引き取っておられました。夕方が近づいてきました。ここに出て来る「アリマタヤのヨセフ」は、苦しみ死なれたイエス様のお体を、そのまま十字架に晒したままにするには忍びないと考えました。律法の教えにも叶った事でしたし 、そのままにしておけば、鳥が来てイエス様の体を啄(ついば)み始めるに違いありません。同時に、ユダヤの時間では、一日は朝や真夜中からではなく、日没から日没までで数えます。
すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、
とは、本当にもう間もなく、安息日が始まろうとしていた、という切羽詰まったカウントダウンを指しています。急いでピラトのもとに取り下ろしを願い出て、御体を十字架から下ろし、亜麻布で包み(ヨハネによれば、没薬とアロエを混ぜたものを30kgも混ぜ込んで)、墓に安置して、石を転がしかけた。そして、瞬く間に日は落ちて、夜になって、一息ついた頃でしょう。ですから今晩も、イエス様の死を(正視に堪えない激しい苦しみよりも、静かなイエス様の死を)夜に相応しく、静かに想わせていただきたい、と願います。
 しかし、ここには一つの驚きが書かれています。
44ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったのかどうかを問いただした。
 ピラトは、前もイエス様の常識外れの沈黙ぶりに驚いたのですが 、ここでもまた驚かされています。普通、十字架に掛けられた囚人は、何日にもわたって苦しみ続けました。手足を釘で打たれ、体中の骨は外れ、太陽が照り付けて、鳥も啄(ついば)んできます。しかし、致命傷は与えられません。ジワジワと苦しみ続けて、段々体が弱り、気が狂う事もあったそうです。そして、最後は窒息か心臓が限界に来て、死ぬのだそうです。でも、それまでには何十時間もかかるのが普通でした。ですから、ピラトは六時間で息を引き取ったイエス様の死に驚いて、百人隊長を呼び出して確認させた程、訝(いぶか)ったのです。ヨハネの福音書に寄りますと、兵士がイエス様の脇腹を槍で刺して、その死を確認したのです。つまり、イエス様は本当に死なれたのです。本当は亡くなっていなかったとか、仮死状態だったなどと言って、復活を説明しようとする人もいますが、イエス様の死はちゃんと確かめられた、確実な死でした。そして、本当に死なれたイエス様が復活なさったのでした。
 では、イエス様は、どうしてそんなに驚かれるほど早く死なれたのでしょうか。それは、イエス様が本当に人間となっておられたから、です。百パーセント神である方が、百パーセントの人間ともなられて、私たちと同じような体を持っておられたのです。スーパーマンのような、鋼のお体であったなら、イエス様はいつまでも、何日でも、十字架に留まっておられたかも知れません。それはそれでピラトを驚かせたとは思いますが、けれども、イエス様はそうした強さ、非凡さによってではなく、私たちと変わらない弱さ、低さを通して、神様の恵み、私たちに対する愛を現してくださるのです。私たちと同じ、痛み、苦しみ、飢え乾き、疲れ、お腹が空き、眠くもなる。そういう人間となってくださいました。
 それに加えて、イエス様のここまでの疲れは並大抵ではありませんでした。連日の説教に加え、前夜の「最後の晩餐」からは一睡もしていません。その間に、ゲッセマネの園では、汗を血のように流さずにはおれなかったほどの激しい祈りを、何時間も祈っておられました。裁判の後では、惨たらしいむち打ちで、背中は裂けていたでしょう。すでに、十字架を背負う段階で、イエス様はクレネ人シモンが助けに引き出されなければなりませんでした。それほど、イエス様はすでに疲労(ひろう)困憊(こんぱい)しておられたのです。
 それだけではありません。イエス様は、十字架の痛みを全部引き受けておられたのです。23節に、イエス様が、没薬を混ぜたぶどう酒をお飲みにならなかったとあります。これは、痛みを嫌がる囚人が、感覚を麻痺させられて、少しだけ痛みを忘れることが出来るように与えられた温情措置だったそうです 。それをお受けにならなかったイエス様は、十字架の苦しみから逃げようとはなさらなかったのです。十字架に掛けられた囚人は、痛みから少しでも逃れようと、僅かですが体を動かしたり、腰の所に張り出した板に体を載せたりするのだそうです。イエス様はそんなこともなさらなかったのではないでしょうか。十字架から降りてみろ、との挑発にも屈しなかったイエス様は、この苦しみからちょっとでも楽になろうとなどはなさらず、十字架の苦しみを最後の一滴まで舐め干して下さったのです。それもまた、イエス様の死が早かった原因ではないでしょうか。人としてのお体が早々と力尽き果てるぐらい、イエス様は私たちの苦しみを全身全霊で受け止めて、その命の火を燃え尽くされたのです。
 先に言いましたように、ピラトは、そのイエス様の早すぎる死にひどく驚きました。そして、イエス様のお体が人間離れした強さを持っていて、なかなか死ななかったとしても、それはそれで驚いたのだと思います。でも、もしそういう驚きだったら、彼はすぐに、そのイエス様の力を、なんとか手に入れたい、自分もそういう力に憧れていた、その力が欲しい、と思ったに違いないでしょうね。私たちもイエス様にそういう特別な、圧倒的な力を期待するところがあるでしょう。神様が、人をアッと驚かせるようなことをしてくださったらいいのに。苦しみを撥(は)ね除(の)け、特別な力を現してくだされば、自分も信仰が強くなるし、もっと沢山の人がイエス様を信じるだろうに。そんなことを考えます。イエス様が亡くなってさえも、その御体が特別なものだと思っていたい。クリスチャンの死は、世間の人とは違う。苦しい死とか、惨めな最期とか、そんなことはないと思っていたい。
 でも、イエス様はそんな方向で人を驚かせようとはなさいません。むしろ、本当に私たちと同じようになってくださり、私たちと一つになって下さった方です。その最後は「もう死んだのか」と驚かれる程早かったのです。それぐらい、人間としての限界の中に収まり、その限界を使い切ってくださいました。
 イエス様を十字架から取り下ろしたヨセフたちは、普通の死人を下ろすように、大変だったと思います。そこに、特別な奇蹟めいた出来事があったとは、聖書は記しません。イエス様の死が信じられない思いで、何か奇蹟を期待したかも知れませんが、そこにあったのは、普通の人と変わらない亡骸でした。けれども、それは虚しい死ではありませんでした。そこに何の奇蹟めいたことは見えませんでした。が、そのイエス様をお慕いし、勇気を振るってイエス様の体を取り下ろし、真新しい亜麻布に包(くる)み、墓に葬った人たちがいた、まさにそのことが、奇蹟だったのです。ピラトや人間をアッと言わせて魅了するような輝きなどない、驚くほど非力な死でした。しかし、逃げもせず恨みもせず、神様への信頼を真っ直ぐに貫かれ、死んでしまわれたイエス様を、今更ながらでも、堂々と引き取りたいと申し出て、丁重な埋葬をしようとした、ヨセフの姿こそ、奇蹟ではないでしょうか。
 十字架で亡くなられたイエス様の御体は、血と汗と涙でドロドロだったでしょう。自分の着物も汚れてしまいます。当時、死体を綺麗にしてあげるのは、女性の仕事でした。男性のヨセフがそれをした、それも、このイエス様のお体を取り下ろして、というだけでもこれは本当に奇蹟だと思います。有力な議員だと紹介されていますが、そんな地位も棒に振りかねない行為をしました。
 そして、そのヨセフの姿を通して、イエス様が驚くほどに丁重に葬られていることが窺えます。両脇の二人の囚人は果たしてどんな扱いをされたのでしょうか。イエス様は、通常の死刑囚とは全く異なる扱いをされました。それは、イエス様の死が、本当に尊い死であることを証しするようでもあり、また、早くもイエス様のよみがえりを証しするようでもありました。ここにも、私たちが心に思い巡らすべきメッセージがあります。
 私たちもピラトも、力や見栄えを重視する世界に生きています。神様に対しても、華やかな奇蹟とか、特別な体験を求めやすい者です。そうしたことがないと失望し、祈りも疎かになったり信仰生活に虚しさを覚えたりします。けれども、イエス様の十字架のお姿を仰ぎましょう。イエス様の死は、私たちとは逆に、謙り、仕え、手放し、低くなって、私たちと一つとなって下さった恵みを現しています。そのイエス様の栄光に触れられて、私たちもまた、謙って、砕かれたいのです。無いものを数えたり、感謝を忘れたりした生き方をするのではなく、神の子イエス・キリストが、本当に私たちとともにいてくださるのだと告白したいと思います。この恵みによって深く変えられる人生であれば、と願います。

「こうして受難日の夜に集まった今晩、夜が終わりではなく、新しい朝、栄光の朝に向けての始まりであることを心に刻みます。イエス様が十字架に死なれ、本当に私たちと一つとなってくださいました。その尊い死に、私たちが驚き、主の愛に心を満たされ、照らされて、希望を持って歩ませてください。主の時を待ちつつ、仕える者とならせてください」

文末脚注

  1. ヨハネ十九31「その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを負ってそれを取りのける処置をピラトに願った。」とあります。これは、申命記二一22-23「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」との律法とも相まって、この日にとられた処置でした。
  2. マルコ十五5。
  3. もちろん、それは囚人のためというよりも、兵士たちが囚人を十字架に釘打つために扱いやすくするための措置でしかありません。
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